風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

防災の日(前)臭い物に蓋

2012-09-01 13:43:05 | 日々の生活
 二・三日前に、内閣府の有識者検討会が、南海トラフを震源域とする最大級の地震による被害想定を公表しました。死者最悪32万人と、一面の新聞社名の横の一番目立つところに踊っていて、今日の防災の日を前に、認識を新たにした人が多かったろうと思います。確かに地震と津波による被害は、東日本大震災の映像が刷り込まれているので、極めて分かりやすいですが、日本列島は火山列島でもあり、火山の噴火による影響も忘れてはいけません。
 最近読んだ「没落する文明」(萱野稔人・神里達博著)は、対談なので、体系的ではありませんが、哲学と科学史をそれぞれ専攻する二人の若手学者が、東日本大震災をきっかけとして、近代文明社会の成り立ちを自然環境やエネルギーの問題から縦横無尽に論じる、知的刺激に溢れた本でした。その中で、日本は、昔から地震の比較的少ない時期に発展してきたとして、例えば18世紀初頭、1703年に元禄関東地震、続いて1707年に宝永地震(今で言う、東海・東南海・南海の連動型地震)が発生してから、関東では大きな地震が150年くらい発生せず、江戸の発展を支えたと聞くと、なるほどと思わせます。そして19世紀半ばに、小田原地震や安政東海・南海地震など、再び地震が活動期に入ると、幕府は多額の復興費用を余儀なくされて財政危機に陥った上、復興もままならず、幕府への信頼性が失われて、幕府倒壊の遠因になったとも言われます。同じように、戦後の高度成長から80年代のバブル崩壊(あるいは阪神・淡路大震災)までの時期は、日本の社会が大きな地震を経験しなかった時期にあたると指摘されて、あらためて日本の戦後の繁栄の幸運を思うとともに、再び地震活動期に入ったと言われるきっかけになった東日本大震災という複合災害が加わって、政府の危機対応能力が疑われて政権基盤が弱体化している状況もよく符号し、面白く思いました。
 この江戸時代の元禄バブルにブレーキをかけ、文化の中心を上方から江戸に移す契機となったのは、これら地震だけではなく、宝永地震の49日後に起こった富士山の噴火の影響もあったと言います。富士山の噴火は、歴史に記録があるものだけで17回、その内、大噴火と言えるものは、平安初期の延暦期(800~802年)と貞観期(864~865年)と、この江戸の宝永期(1707年)の三回あったと言われます。宝永の大噴火では、噴出物が0.8立方キロメートルに達し、江戸で5センチ、横浜では10センチもの降灰があったほどの規模でした(江戸にこれだけの被害を与えながら、文化が上方から江戸に移ったというのは、今一つピンときませんが)。更に時間のスケールを広げると、9万年前に起こった阿蘇山の大噴火では、九州のほぼ全域と山口県までが高温の火砕流で焼き尽くされ、日本列島全域に火山灰を降らせたと言われており、この時の噴出物は600立方キロメートルと、桁が違い過ぎて想像を絶しますが、北海道ですら15センチ以上積もった証拠があるらしい。これは極端にしても、火山学者によると、日本列島では7000年に一回くらいは破局的な噴火が起こっているそうで、直近の7300年前に、九州の南の鬼界カルデラと呼ばれる海底火山が大噴火した時には、西日本が広く灰に埋もれ、その地域の縄文文明がご破算になったと言われます。因みに、この時の噴出物は170立方キロメートルと、これも桁違い。
 それでは噴火による降灰が日常生活にどれほどの影響を及ぼすかというと、東京都全域に1センチの降灰があると、除去するためには10トン・トラック約200万台、公道に限っても18万6千台が必要になるそうです。より深刻なのは、水源に降灰した場合で、浄水場の濾過装置が機能しなくなり、下水道では、1ミリの降灰でも下水処理場の平均的な汚泥処理量を超えてしまうらしい。電気系統は至る所でショートを起こし、コンピュータやネットワークをはじめとするエレクトロニクス機器が被害を受け、システム誤動作や停電が起こるのではないか。つまり溶岩や火砕流がなくとも、灰が何センチ積もるかによって、都市機能がマヒする恐れがある、と言うわけです。
 以上、「没落する文明」からごく一部の抜粋でしたが、近年、火山学などの理学系の専門家のみならず、工学系の研究者も加わって、大都市圏の降灰被害の影響とリスク・マネジメントなどの研究が始まっていると聞くと安心しますが、私たち一般人は、こうした情報に疎いですね。富士山の噴火は、所詮は他人事と思っているところがあるのではないでしょうか。原発の安全神話もそうでしたが、私たち日本人は、こうした臭い物に蓋をする傾向が強過ぎるように思います。目を背けたところで、いつのことかは分かりませんが、いずれ我が身に降りかかるもの。それで、諦めて一から出直す、などと呑気なことを言っていられたのは今となっては昔の話で、日本の都市機能は集積し過ぎて、取り返しがつかなくなる可能性が高い。不安定な時代に突入したとされる今を逃さず、私たちだけではなく私たちの子孫のため、リスクに向き合うという苦手な作業が必要だと痛切に思います。
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