連休の余興のついでに、歴史認識の問題を、もう少し広げて考えてみます。
そもそもこのテーマは、歴史認識なるものが、中・韓という近隣諸国(飽くまで中国・韓国・北朝鮮の三国だけですが)との間で、外交問題や政治問題化することの不思議さにあります。過去に確執があった英・仏、あるいは独・仏などの間で、歴史認識が政治問題化するような事例があったか・・・聞くまでもないのでしょう。レトリックとして、お前の歴史認識はオカシイ、程度の応酬はあったかも知れませんが、真剣に相手国政府に抗議するような事態、更には従軍慰安婦像を、よりによって相手国の大使館前に建立することを政府が黙認したり、アメリカという第三国で非難決議(今年1月下旬のニューヨーク州上院に続いて、3月下旬のニュージャージー州下院で非難決議が採択されました)するように仕向けるようなロビー活動を行う事態には、至りようがなかったのではないか。
戦争は政治的交渉の延長だとクラウゼヴィッツが喝破したような文脈の国際関係にあっては、安倍さんが指摘されたように、侵略という言葉自体に絶対的な意味はなく、侵略をうけた側が相手を侵略的と呼ぶことはあっても、相対的な国際秩序の文脈においては、所詮は内向きの論理でしかなかったと思われます。歴史認識などせいぜい戦争の口実にしかならなくて、何が(あるいは誰が)正しいというわけではなく、当事国にとっては、いずれもが常に正義なわけです。今も基本的にはそうだと思いますが、第一次世界大戦が総力戦として甚大な被害をもたらしてから、やや風向きが変わり始めます。国際連盟が設立され、不戦について語られるようになり、国家が唯一絶対の構成要素だった世界で、人道主義などの普遍的な価値が多国間で共有されるようになりました。第二次世界大戦では、全体主義に対してリベラルな民主主義を守るための戦争というスローガンを掲げてアメリカが参戦するなど、民主主義国であるが故に、国益に直接的に合致しない場合でも普遍的価値を掲げて(それがひいては国益に叶うことを前提に)戦う状況が生まれたのでした。ついには、ナチス・ドイツの残虐性を裁くために「平和に対する罪」が持ち出され、勝った側が負けた側を一方的に道義的に裁くなど、それまで国家がなす行為は全て正義だという状況が、例外的な状況とは言え部分的に修正されることになったのでした。それでもドイツ人は、ナチスの犯罪に時効を認めず、ナチスの責に帰して、それを追及することをドイツ人の責にして、救われています。同じように、日本人は、戦時中もそれなりに国会が機能していたが故に、極東軍事裁判やGHQの(憲法だけでなない)歴史認識の強制によって、暴走する軍部、その象徴としての東条英機をはじめとするA級戦犯を、ナチスに擬するしかありませんでした。二度の原爆や絨緞爆撃による民間人の大量殺戮という戦争犯罪は裁かれることなく、その被害者となりながら、また、日ソ不可侵条約を一方的に破棄されて(破棄されてもいいのですが一年を待たずして即、攻め込まれ)60万人ものシベリア抑留を強いられた上、北方領土を占拠され続けながら、そして、沖縄にあっては米軍が駐留し続けるという半ば占領状態、さらに言うなら、アメリカが占拠しているのは、沖縄をはじめとする地上の基地だけではなく、横田基地を中心にした巨大な管制空域(東京、神奈川、埼玉、群馬、栃木、新潟、山梨、長野、静岡の1都8県に及ぶ広大なもの)もそうで、羽田や成田を離着陸する民間航空機は、この米軍管制空域を避けるため、西日本や北陸方面に飛ぶ場合、急上昇・急降下及び迂回を余儀なくされているにも係らず、です。確かに日本の軍部は客観的に見れば自衛のためとは言え侵略的な行為をアジア・太平洋の広域において展開しました。しかし武士道が生きているものだと信じてきた日本人は、道義性を問われて、あらためて戸惑うわけです。そこに、戦後、私を含む日本人の分裂症的な精神状況が始まったように思います。
この背景に、ドイツは同じ西洋キリスト教文明圏に属しているのに対し、日本は東洋の仏教と神道の国として(ハンチントン教授は、日本一国で一文明圏を主張されました)正当に理解されず不当に貶められたと解説する人がいますが、それは残念ながら否定し得ない事実と思います。そして、アメリカをはじめとする西洋諸国には、地域の安定のためという名目のもとに、あるいは日本の台頭をその精神面から抑えつけるために、GHQが押し付けた自虐史観を、従い中・韓の主張をよしとする一種の不作為を、今もなお感じます。
米紙ワシントン・ポスト(電子版)は、4月26日、安倍総理が「侵略の定義は国際的にも定まっていない」と述べたことについて、歴史を直視していないと強く批判する社説を掲載し、これまでの経済政策などの成果も台無しにしかねないと懸念を示したそうです(産経新聞)。社説は、日本が韓国や中国を侵略したのは疑いのない事実だと指摘し、中韓が内政上の動機から反日感情をあおることがあるとしても、「安倍氏が陥った自己破壊的な(歴史の)修正主義を正当化する理由にはならない」とした(同)そうです。これに続き、英紙フィナンシャル・タイムズも、29日、安倍総理による靖国神社への供物奉納や歴史を巡る発言に対し「高い支持率を受け、本性を覗かせた」と社説で批判し、経済政策に集中すべきだと苦言を呈したそうです(同)。社説は安倍政権の経済政策を「経済再生に向けた近年で最も大胆な試み」と評価すると同時に、靖国問題では「戦没者を悼みたいとの願いは不合理ではない」としつつも「天皇崇拝の国粋主義的カルトと分かち難く結び付いた靖国神社は間違った場所だ」と断言し、「首相は右派からの支持を生かして、宗教色のない慰霊施設の設立を目指すべきだ」と踏み込み、他国を刺激する言動を控えるよう求めた(同)そうです。
さらに、米紙ニューヨーク・タイムズは、遡ること1月3日付の社説で、「歴史を否定する新たな試み」と題し、旧日本軍による慰安婦募集の強制性を認めた「河野談話」に関して、有識者による再検討の必要性に言及した安倍晋三首相を「重大な過ち」と強く批判したそうです(産経新聞)。社説は、12月31日付産経新聞1面などに掲載された安倍首相へのインタビュー記事を引用し、安倍首相について、「右翼の民族主義者」と決めつけ、「朝鮮などの女性を強姦、性奴隷にし、第2次世界大戦で侵略したことへの謝罪の見直しを示唆した」と非難し、また、「戦争犯罪を否定し、謝罪のトーンを弱めるどのような試みも、韓国や中国、フィリピンなど、戦時中の日本の野蛮な行為で苦痛を受けた国々を激怒させるだろう」と解説し、最後に、「安倍首相の恥ずべき衝動は北朝鮮の核開発など地域の重要な協力態勢を脅かす恐れがある。こうした修正主義は、日本にとって恥ずべき愚かなことだ」と決めつけました(同)。マイケル・グリーン氏は、ニューヨーク・タイムズなど一部米メディアによる「安倍叩き」について、「安倍氏を危険な右翼だと憎む朝日新聞や一部日刊紙の見立てを輸入したものだ」との見解を示しているそうで、知日派らしい鋭いコメントだと思います。事実として、争いの始まりはいつも獅子身中の虫ならぬ国内の進歩派知識人やメディアなのですが、鶏と卵の議論と同じで、彼ら自身も中・韓に操られているのか、あるいはそうでなければ今の共産党政権の中に偉大なる中国四千年の歴史が生きていると今もなお素直に信じるお人好しなのでしょう。ニューヨーク・タイムズ(だけでなく、ワシントン・ポストやフィナンシャル・タイムズもその疑いがあります)もここまで来れば、単に日本の、ひいては中・韓の反日報道を引用しているのではなく、中・韓が裏で糸を引いているのではないかと疑われます。そして、メディアは必ずしも金が全てではなく、そこに何がしかの大義を認めるからこそ、このような報道や主張をするのでしょう。
歴史認識の問題は、ことほど左様に中・韓だけでなく西洋諸国を巻き込んだ、「思想戦、心理戦、宣伝戦の中核」(堤堯氏)でもあるわけです。
そもそもこのテーマは、歴史認識なるものが、中・韓という近隣諸国(飽くまで中国・韓国・北朝鮮の三国だけですが)との間で、外交問題や政治問題化することの不思議さにあります。過去に確執があった英・仏、あるいは独・仏などの間で、歴史認識が政治問題化するような事例があったか・・・聞くまでもないのでしょう。レトリックとして、お前の歴史認識はオカシイ、程度の応酬はあったかも知れませんが、真剣に相手国政府に抗議するような事態、更には従軍慰安婦像を、よりによって相手国の大使館前に建立することを政府が黙認したり、アメリカという第三国で非難決議(今年1月下旬のニューヨーク州上院に続いて、3月下旬のニュージャージー州下院で非難決議が採択されました)するように仕向けるようなロビー活動を行う事態には、至りようがなかったのではないか。
戦争は政治的交渉の延長だとクラウゼヴィッツが喝破したような文脈の国際関係にあっては、安倍さんが指摘されたように、侵略という言葉自体に絶対的な意味はなく、侵略をうけた側が相手を侵略的と呼ぶことはあっても、相対的な国際秩序の文脈においては、所詮は内向きの論理でしかなかったと思われます。歴史認識などせいぜい戦争の口実にしかならなくて、何が(あるいは誰が)正しいというわけではなく、当事国にとっては、いずれもが常に正義なわけです。今も基本的にはそうだと思いますが、第一次世界大戦が総力戦として甚大な被害をもたらしてから、やや風向きが変わり始めます。国際連盟が設立され、不戦について語られるようになり、国家が唯一絶対の構成要素だった世界で、人道主義などの普遍的な価値が多国間で共有されるようになりました。第二次世界大戦では、全体主義に対してリベラルな民主主義を守るための戦争というスローガンを掲げてアメリカが参戦するなど、民主主義国であるが故に、国益に直接的に合致しない場合でも普遍的価値を掲げて(それがひいては国益に叶うことを前提に)戦う状況が生まれたのでした。ついには、ナチス・ドイツの残虐性を裁くために「平和に対する罪」が持ち出され、勝った側が負けた側を一方的に道義的に裁くなど、それまで国家がなす行為は全て正義だという状況が、例外的な状況とは言え部分的に修正されることになったのでした。それでもドイツ人は、ナチスの犯罪に時効を認めず、ナチスの責に帰して、それを追及することをドイツ人の責にして、救われています。同じように、日本人は、戦時中もそれなりに国会が機能していたが故に、極東軍事裁判やGHQの(憲法だけでなない)歴史認識の強制によって、暴走する軍部、その象徴としての東条英機をはじめとするA級戦犯を、ナチスに擬するしかありませんでした。二度の原爆や絨緞爆撃による民間人の大量殺戮という戦争犯罪は裁かれることなく、その被害者となりながら、また、日ソ不可侵条約を一方的に破棄されて(破棄されてもいいのですが一年を待たずして即、攻め込まれ)60万人ものシベリア抑留を強いられた上、北方領土を占拠され続けながら、そして、沖縄にあっては米軍が駐留し続けるという半ば占領状態、さらに言うなら、アメリカが占拠しているのは、沖縄をはじめとする地上の基地だけではなく、横田基地を中心にした巨大な管制空域(東京、神奈川、埼玉、群馬、栃木、新潟、山梨、長野、静岡の1都8県に及ぶ広大なもの)もそうで、羽田や成田を離着陸する民間航空機は、この米軍管制空域を避けるため、西日本や北陸方面に飛ぶ場合、急上昇・急降下及び迂回を余儀なくされているにも係らず、です。確かに日本の軍部は客観的に見れば自衛のためとは言え侵略的な行為をアジア・太平洋の広域において展開しました。しかし武士道が生きているものだと信じてきた日本人は、道義性を問われて、あらためて戸惑うわけです。そこに、戦後、私を含む日本人の分裂症的な精神状況が始まったように思います。
この背景に、ドイツは同じ西洋キリスト教文明圏に属しているのに対し、日本は東洋の仏教と神道の国として(ハンチントン教授は、日本一国で一文明圏を主張されました)正当に理解されず不当に貶められたと解説する人がいますが、それは残念ながら否定し得ない事実と思います。そして、アメリカをはじめとする西洋諸国には、地域の安定のためという名目のもとに、あるいは日本の台頭をその精神面から抑えつけるために、GHQが押し付けた自虐史観を、従い中・韓の主張をよしとする一種の不作為を、今もなお感じます。
米紙ワシントン・ポスト(電子版)は、4月26日、安倍総理が「侵略の定義は国際的にも定まっていない」と述べたことについて、歴史を直視していないと強く批判する社説を掲載し、これまでの経済政策などの成果も台無しにしかねないと懸念を示したそうです(産経新聞)。社説は、日本が韓国や中国を侵略したのは疑いのない事実だと指摘し、中韓が内政上の動機から反日感情をあおることがあるとしても、「安倍氏が陥った自己破壊的な(歴史の)修正主義を正当化する理由にはならない」とした(同)そうです。これに続き、英紙フィナンシャル・タイムズも、29日、安倍総理による靖国神社への供物奉納や歴史を巡る発言に対し「高い支持率を受け、本性を覗かせた」と社説で批判し、経済政策に集中すべきだと苦言を呈したそうです(同)。社説は安倍政権の経済政策を「経済再生に向けた近年で最も大胆な試み」と評価すると同時に、靖国問題では「戦没者を悼みたいとの願いは不合理ではない」としつつも「天皇崇拝の国粋主義的カルトと分かち難く結び付いた靖国神社は間違った場所だ」と断言し、「首相は右派からの支持を生かして、宗教色のない慰霊施設の設立を目指すべきだ」と踏み込み、他国を刺激する言動を控えるよう求めた(同)そうです。
さらに、米紙ニューヨーク・タイムズは、遡ること1月3日付の社説で、「歴史を否定する新たな試み」と題し、旧日本軍による慰安婦募集の強制性を認めた「河野談話」に関して、有識者による再検討の必要性に言及した安倍晋三首相を「重大な過ち」と強く批判したそうです(産経新聞)。社説は、12月31日付産経新聞1面などに掲載された安倍首相へのインタビュー記事を引用し、安倍首相について、「右翼の民族主義者」と決めつけ、「朝鮮などの女性を強姦、性奴隷にし、第2次世界大戦で侵略したことへの謝罪の見直しを示唆した」と非難し、また、「戦争犯罪を否定し、謝罪のトーンを弱めるどのような試みも、韓国や中国、フィリピンなど、戦時中の日本の野蛮な行為で苦痛を受けた国々を激怒させるだろう」と解説し、最後に、「安倍首相の恥ずべき衝動は北朝鮮の核開発など地域の重要な協力態勢を脅かす恐れがある。こうした修正主義は、日本にとって恥ずべき愚かなことだ」と決めつけました(同)。マイケル・グリーン氏は、ニューヨーク・タイムズなど一部米メディアによる「安倍叩き」について、「安倍氏を危険な右翼だと憎む朝日新聞や一部日刊紙の見立てを輸入したものだ」との見解を示しているそうで、知日派らしい鋭いコメントだと思います。事実として、争いの始まりはいつも獅子身中の虫ならぬ国内の進歩派知識人やメディアなのですが、鶏と卵の議論と同じで、彼ら自身も中・韓に操られているのか、あるいはそうでなければ今の共産党政権の中に偉大なる中国四千年の歴史が生きていると今もなお素直に信じるお人好しなのでしょう。ニューヨーク・タイムズ(だけでなく、ワシントン・ポストやフィナンシャル・タイムズもその疑いがあります)もここまで来れば、単に日本の、ひいては中・韓の反日報道を引用しているのではなく、中・韓が裏で糸を引いているのではないかと疑われます。そして、メディアは必ずしも金が全てではなく、そこに何がしかの大義を認めるからこそ、このような報道や主張をするのでしょう。
歴史認識の問題は、ことほど左様に中・韓だけでなく西洋諸国を巻き込んだ、「思想戦、心理戦、宣伝戦の中核」(堤堯氏)でもあるわけです。