風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

40年(上)ブルース・リー

2013-07-28 01:06:55 | スポーツ・芸能好き
 李小龍ことブルース・リーが亡くなって40年(正確には40年一週間前の1973年7月20日没)になります。
 彼の映画をリアルタイムで見たのは、遺作となった「死亡遊戯」(1978年)が初めてで、既にその時、彼はこの世にいませんでした。学生時代、初めて自分の小遣いをはたいて、友人と二人して大阪の映画館に行き、感動して二幕見続けたものでした。それ以前の作品は残念ながらテレビ放映によるものです。よりによって高校受験を控えた中学三年の時に洋画に目覚めてしまい、小遣いは「スクリーン」という月刊誌に費やし、映画は、「月曜ローショー」(TBS系列、解説・荻正弘氏)か、「水曜ロードショー」(日本テレビ系列、解説・水野晴郎氏)か、「ゴールデン洋画劇場」(フジテレビ系列、解説・高島忠夫氏)か、「日曜洋画劇場」(テレビ朝日系列、解説・淀川長春氏)かのいずれかを毎週一回、年50本強見た中に、「ドラゴン危機一髪」(1971年)や、「ドラゴン怒りの鉄拳」(1971年)や、「ドラゴンへの道」(1972年)が含まれていました。それにしても、当時は随分無謀な生活を送ったものです。もし、今、私の子供が、高校受験を控えてこんな生活を送ろうとしても、とても許すことは出来ないでしょう。長閑な時代でした(第一志望校に合格したから言えることですが)。
 当時は日本における洋画の黎明期から普及期に入ったあたり、ハリウッド映画一色に塗り潰される前のフランス映画やマカロニ(イタリアン)ウェスタンが健在だった時代で、各テレビ局の解説陣を見ても力の入れようがわかろうというものです。私自身、これほどまでに洋画に惹かれながら、そして数ある洋画の中から、あるいはアラン・ドロンやロバート・レッドフォードやポール・ニューマンやジュリアーノ・ジェンマや「マンダム」のテレビCMでお馴染みチャールズ・ブロンソンなどを抑えて、一体、何故ブルース・リーに夢中になったのか、今となっては若気の至りとしか言いようがありませんが、敢えて、今、振り返れば、そのシンプルなほど分かりやすい強さに(結果として勧善懲悪に)、また、そんな強い者がもつ優しさに、更にそんな強い者がもつ肉体の美しさに、憧れたのだろうと思います。ブルース・リーは、本当は強くなかったといった噂が流れたものですが、夢は夢のまま。肉体は見ていて惚れ惚れとするほど、また憎らしいくらい鍛え上げられて美しく、彼の笑顔はあどけなくて可愛かった。彼の作品に色恋沙汰は少なく、「ドラゴン怒りの鉄拳」で共演したノラ・ミヤオ(苗可秀)とのキス・シーンは初々しく、それが唯一のラブ・シーンと言われるくらい、ブルース・リーの映画は実にストイックでした。
 没後40年ということで、香港文化博物館で、映画の衣装などゆかりの品約600点を集めた、5年間にわたる特別展示が、命日の20日から一般公開されたという記事を見かけたり、東京・新宿の新宿武蔵野館では、関係者証言と資料映像でつづる米ドキュメンタリー作品「アイアム ブルース・リー」に続いて、実弟ロバート・リーが製作総指揮した香港映画「李小龍 マイブラザー」(全国順次公開)を13日から上映し、期間中、ロビーに貴重な関連資料を展示、レアグッズの販売も行い話題を集めているとの記事も見かけたりして、懐かしさのあまり、こうして書いて来ました。最後は、勿論、水野晴郎さんの言葉で締めたいと思います。いやぁ~(ブルースリーの)映画って、ほんっとうにいいものですね~。
コメント
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