風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

パラオ(上)

2015-04-18 17:55:08 | 日々の生活
 もう10日ほど前の話になりますが、天皇・皇后両陛下が慰霊のためにパラオ共和国を訪問されました。パラオはフィリッピンの南東(実は北半球)にあり、日本から約3000キロ南に位置すると言われますが、日本の最南端・沖ノ鳥島とは九州パラオ海嶺で繋がり、そこからは1400キロ、面積は屋久島と同じくらいで、人口約2万人の小国です。気になって、ちょっと調べてみました。今日はその歴史、特に日本との密な関係を振り返ります。
 “パラオを愛する人々による、パラオ好きのための、パラオ総合情報発信サイト”「パラオ×パラオ」(http://www.palauxpalau.com/palau/index.html)によると、パラオは南北に約640キロにわたり、火山とサンゴの隆起により出来た200以上の島々からなり、その内、人が住むのは9島のみで、残りは無人島だそうです。隆起したサンゴの島々が長い年月を掛けて侵食されキノコ型に変化した”ロックアイランド”が観光ポイントとしても知られ、虹が多いことから“レインボーズエンド”と表されることもあるそうで、見るからに自然豊かで美しい南国の楽園のイメージが広がります。しかし、同サイトが伝える歴史は、

1783年 イギリス船アンテロープ号の座礁により本格的な西洋の接触が開始される
1885年 スペインの植民地とされる
1899年 ドイツの植民地とされる
1920年 日本の統治領とされる
1947年 国連太平洋信託統治領としてアメリカによる統治が開始される
1981年 パラオ憲法施行。自治政府が発足される
1994年10月1日 パラオ共和国として独立する。同年12月、国連加盟国として承諾される

など、ちょっと苦難の道を思わせます。実際、Wikipediaによると、スペインの植民地下に入ると、訪れたヨーロッパ人により天然痘などが持ち込まれ、また現地人に対する搾取が行われた結果、パラオの人口は90%も減少した、とあります。国力が衰退したスペインが、1899年、グアムを除くスペイン領ミクロネシアを450万ドルでドイツに売却した際には、パラオもこれに含まれ、以降、ドイツ植民地となると、ドイツはパラオで、ココナッツ、タピオカ栽培、アンガウルにおけるリン鉱石採掘などの産業振興を行いましたが、他のドイツの植民地と同様、道路や水道などのインフラ整備や現地人への教育はほとんど行わなかった、とあります。
 状況が変わったのは、第一次世界大戦で、ドイツに宣戦布告した日本が、海軍を派遣しドイツ守備隊を降伏させて占領してからのことで、戦後のパリ講和会議で日本の委任統治領になり、日本政府が南洋群島全体を管轄する「南洋庁」本庁をパラオに設置すると、多くの日本人が移住し、学校、病院、気象台、郵便局などが建設されたほか、道路などのインフラ整備が進み、今日のパラオの基礎を作ったとされます。最盛期の1943年には2万7444人もの日本人が住んでいたそうです。
 しかし大東亜戦争では軍の拠点となり、激戦地になりました。終戦前年には、アメリカ軍の侵攻を受けて、ペリリュー島などパラオ南部の2つの島で激しい地上戦があり、日本軍は1万22人の戦死者と446人の戦傷者を出して玉砕しました。当時、日本国籍を持たない地元住民も、パラオ挺身隊などに軍属として動員されることがありましたが、このペリリュー島の戦いではパラオ民間人の死者はなかったそうで、地元住民の被害が少なかったことは「美談」として毎日新聞のコラムなどで掲載されたそうです(Wikipedia)。

【ある老人が若い頃日本兵と仲良くなり、戦況が日本に不利となった時「一緒に戦わせて欲しい」と日本兵隊長に進言したが「帝国軍人が貴様らなどと戦えるか!」と激昂され、見せ掛けの友情だったのかと失意の中、島を離れる船に乗り込んだ。が、船が島を離れた瞬間その隊長を含め日本兵が手を振って浜へ走り出てきた。老人はその時、隊長が激昂したのは自分達を救う為だったと悟ったという。】

 なんだか目頭が熱くなる(よく出来た?)エピソードです。このように、米軍の上陸前に島民を退避させ、自らは玉砕の道を選んだ日本兵は、地元住民にとってまさに英雄で、島にある南洋神社には日本とパラオの祖先神と大東亜戦争の戦死者が合祀されているそうです。こうしてみると、アジアの戦地で帝国軍人が凶悪・横暴だったという(恐らく)戦後左派により流布された話は、甚だ怪しい。勿論、戦争という異常な状況で人として平静を保つことの方が難しいでしょうし、内地ですら偉ぶる軍人が占領統治する地で偉ぶらないわけがありませんが、大東亜会議(1943年11月5~6日)に招請された、日本が旧宗主国を放逐したことにより独立とされたアジア諸国の国政最高責任者の一人が、はしなくも言ったように、日本も悪かったが、西欧の宗主国が大悪なのに比べれば、日本は小悪だった、といった程度のものというのが真実に近いのではあるまいか。会田雄次さんが「アーロン収容所」の中で、イギリスの女兵士は日本軍捕虜の面前で全裸のまま平気でいられたり、捕虜に家畜同様の食物を与えて平然としていられたりしたエピソードを交えながら、西欧人はアジア人を、羊飼いが羊を扱うように扱ったといったような印象を述べておられたのを思い出します。日本人はアジア人に対して根本的にそうはなれない。
 それはともかく、現在でも地元住民の多くは、今のパラオがあるのは日本のお陰と考え、日本や日本語に親しみを持ち、子供に日本風の名前をつける人も多いそうですし、日本語由来の現地語も多く流通しているとして、Wikipediaは、扇風機や電話はそのまま「センプウキ」「デンワ」、ブラジャーは「チチバンド」、ビールを飲む事は「ツカレナオス」、美味しいは「アジダイジョウブ」、混乱することを「アタマグルグル」、飛行場は「スコオジョウ」と言われることを挙げていますが、一説では8000以上もあるそうで(パラオ大使・貞岡義幸氏による)、日常的すぎて現地の若者はそれが日本語であることを意識していないほどだというのも頷けます。パラオ唯一の公立高校では、1964年から選択科目として日本語を取り入れているそうですし、アンガウル州に至っては、アンガウル語、英語に並び、州の公用語の一つとして採用されているそうです。世界広しと言えど、海外で日本語が公用語になっている国はパラオくらいではないでしょうか。
 戦後、米国の国連信託統治下にあったパラオでは、GHQよろしく米国により、パラオで尊敬されていた二宮尊徳の像や神社が破壊され、「日本人は残虐で多くのパラオ人を虐殺した」などと日本を否定するような教育が行われたそうですが、当時はまだ日本統治の時代を知る人が多く、「日本は素晴らしい国だ」「日本統治が一番よかった」と言って、パラオではアメリカの捏造教育はうまく行かなかったようです。このあたりは、戦後の台湾で外省人である国民党政府が行ったことに似ています。今は日本に住むある台湾の独立運動家は、学校では反日教育が行われ、自宅では日本統治を懐かしむ親の話を聞いて、正直なところ混乱したと語っていました。そして、どちらの国(地域)も今は親日です。
 1994年に独立し、国旗を決める際には、日本の国旗にちなんだデザインが住民投票で選ばれたそうです。確かに、パラオの国旗は色が違いますが、海を表す青地の中心よりやや左に配置された黄色い丸は「太陽」ではなく「満月」を表すそうで、「月」はイスラムの影響かと思ったらそうではなく、中心を少しずらすことで日本に敬意を表し、「満月」をモチーフにすることで「太陽」を象徴する日本の国旗に遠慮したという説があります。因みに、バングラデシュの国旗は、豊かな大地を表す緑地の中心よりやや左に配置された、独立戦争で死んだ者の血の色でもある真っ赤な丸は「太陽」を表し、「太陽」が左に寄っているのは、旗がはためいた時やや左に寄せることで中心に見えるように配慮したとされ、「太陽」は対立関係にあったパキスタンのイスラム主義の象徴「三日月と星」に対抗することを意図したものとされますが、初代大統領の娘は、1972年の国旗制定時に、父が「日本に魅せられ、日の丸のデザインを取り入れた」と語っています。
 同じ1994年、米国との間で自由連合盟約(コンパクト)が締結されました。パラオにはなんと軍隊がなく、このコンパクトに基づき、米国がパラオの安全保障・国防上の権限と責任を有するのだそうで、アイライ州に小規模な米軍施設があって、実戦部隊は駐留していませんが、有事の際には米軍による土地利用が認められているそうです。また、このコンパクトに基づき、パラオ国市民が米国軍人として数多く採用されているそうです。また経済的にも、このコンパクトに基づく無償援助に大きく依存しているようです。
 1999年、パラオは台湾と国交を結びました。つまり中国とは国交がありません。現在、台湾、いや中華民国と国交がある国は22ヶ国で、オセアニアの島国は台湾か中国かで国交を結ぶ国が分かれており、パラオは同じミクロネシアのナウルやマーシャル諸島やキリバスのほか、ソロモン諸島、ツバルとともに、その数少ない国の一つなわけです。台湾との友好は、日本の統治時代に同じ日本の統治下にあった台湾・韓国からの移民が多かったことと関係しているのでしょうか。他方、中国とは、2012年4月にパラオ警察が同海域で保護されているサメの違法漁を行っている中国漁民を取り締まる際、中国漁民を一人射殺し、漁民25人が逮捕する事件が発生するなど、トラブルが多いようです。パラオは明らかに日本、米国、台湾との関係を重視しているようで、大使館は、日本、米国、台湾、フィリピンの四つがあるのみだそうです。
 そんなパラオの国会議事堂の前にも、「韓国人慰霊碑」が建てられており、「相当数の韓国人が、大日本帝国に主権を奪われ、パラオに連行され、日本軍のために重労働に従事した。韓国人女性はエンターテイナーとして日本兵のために働く事を強いられた。当時、韓国人は隔離され奴隷とされた 2000人にものぼる韓国人が、飢餓、病気、日本人による虐待・暴行、事故、米国機による空爆のため悲痛な死を遂げたとされる」と書かれているそうですが、親日のパラオの人たちは恩義を忘れた韓国人をどう見ているでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする