パラオ・ネタでもう少し引っ張りますが、前回は長い前置きで、今回、是非とも天皇陛下の尊い「思い」を記しておきたいと思います。
天皇・皇后両陛下が慰霊のために訪問されたパラオは、ペリリューの戦いなど南部の2つの島で激しい地上戦となり、日・米で実に1万8000人が戦死した、大東亜戦争屈指の激戦地のひとつでした。
中でも、ペリリュー島は、南北約9キロ、東西約3キロの小さな島ですが、パラオ諸島で唯一の大型飛行機が着陸できる「東洋一」と言われた飛行場があり、日本軍はこの島を守るために、歩兵第2連隊を含む約1万人の部隊を派遣し、島じゅうに洞窟陣地を張り巡らせました。終戦の前年9月15日に上陸した米軍は3万人近くにのぼり、壮絶な激戦となります。
ここで日本軍は「アッツ島の戦い」(18年5月)以来続けてきた組織的な「玉砕」を禁止し、激しいゲリラ戦を展開し、持久戦に持ち込もうとします(因みに、これは日本軍の戦術上の転換点となり、その後の「硫黄島の戦い」に引き継がれます)。このとき米軍は、人員で守備部隊の4倍、小銃は8倍、戦車は10倍という圧倒的な布陣を敷き、火炎放射器や水陸両用戦車などの最新兵器まで投入したそうですが、苦戦し、当初、島を攻略するのに「Three days, maybe two(3日、たぶん2日で終わる)」と豪語しながら、戦闘は実に2ヶ月半に及びました。当時、ペリリュー戦に参戦し戦後を生き延びた元米軍のエド・アンダウッド元大佐は、「日本軍は負けると判っている戦争を最後まで戦った。この忠誠心は天皇の力と知って、ペリリュー島を“天皇の島”と名付けた」と述べ、日本軍人の忠誠心に敬意を表したそうです。
実際、米・海兵隊の最精鋭部隊と言われる第1海兵師団第1連隊の死傷率は、史上最も高い約60%(別に54%とも)に達したため、第1海兵師団は撤収、第7海兵連隊も損害が50%を超えて戦闘不能に陥ったと言われます。太平洋艦隊司令長官ニミッツ海軍大将は著書「太平洋海戦史」で、「ペリリューの複雑極まる防衛に打ち勝つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約40%)を出した」と述べているそうです。日・米双方で約1万2000人が戦死し(日本軍は最終的に1万22人の戦死者と446人の戦傷者を出して玉砕、僅かに34人が生還。片や米軍は1684人の戦死者と7160人の戦傷者を出しました)、その犠牲者の多さと過酷さから、殆ど語られることがなかったため“忘れられた戦場”と呼ばれているそうです。ペリリュー島ではカニが死んだ兵士を食べて大繁殖したそうで、今もペリリュー島の人は肉食のカニを食べないと言われます。
今は美しい海に囲まれたこの島には、しかし、戦後70年を経てなお戦争の爪痕が数多く残されていることに、驚愕しました。最後まで戦い抜いた日本将兵が籠もっていた戦闘壕や、守備隊を率いた中川州男大佐が自決した山頂の司令部壕のほか、ジャングルに一歩足を踏み入れれば、旧日本軍の大砲や不発弾や兵器の残骸が緑に埋もれているそうですし、空地には放置されたままの日・米の戦車が、また、透き通るパラオ・ゲレムディウリーフには干潮時に旧日本軍の零戦の残骸が姿を現します。そして何よりパラオには、いまだ7000柱以上の日本兵の遺骨が眠っているそうです。
天皇陛下は、これまで、1994年に硫黄島、2005年にサイパンと、「戦没者慰霊の旅」を続けて来られました。パラオ訪問は10年前から検討されていたものの「受け入れ態勢が整わない」という理由で見送られてきたのだそうです。今回も、政府専用機の離着陸が難しい、ホテルも相応のものがない、警察官は僅か200人で、警備にあたるのは50人足らずと、警備上の問題もクリアできない・・・ないない尽くしですが、それでも両陛下は「宿泊は船内でも構わない」と言われて、実際、洋上に停泊する海上保安庁巡視船「あきつしま」の船長室に宿泊されるという異例の事態となりましたが、ようやく10年来の悲願が実現しました。その甲斐あって、ペリリュー島では、当日、学校や職場は休日となり、全島民600人で天皇・皇后両陛下を出迎えたそうですし、なんとペリリュー州では4月9日を「天皇皇后両陛下ご訪問の日」として州の祝日に制定してしまったそうです。
4月8日、パラオ出発前に天皇陛下が語られたお言葉の一節が心に響きました。「太平洋に浮かぶ美しい島々で、このような悲しい歴史があったことを、私どもは決して忘れてはならないと思います。」戦後レジームからの脱却を唱える安倍総理は、気持ちは分からなくないにせよ、世界からどうしてもタカ派に見られてしまいますし、近隣諸国の中・韓も中・韓で、東アジア地域の安全保障環境がぎすぎすしてしまい、私たちもついイラつくことが多いのに対し、どこまでも平和への祈りを捧げる天皇陛下の存在ほど私たち日本人にとって心安らぎ有難いことはありません。
天皇・皇后両陛下が慰霊のために訪問されたパラオは、ペリリューの戦いなど南部の2つの島で激しい地上戦となり、日・米で実に1万8000人が戦死した、大東亜戦争屈指の激戦地のひとつでした。
中でも、ペリリュー島は、南北約9キロ、東西約3キロの小さな島ですが、パラオ諸島で唯一の大型飛行機が着陸できる「東洋一」と言われた飛行場があり、日本軍はこの島を守るために、歩兵第2連隊を含む約1万人の部隊を派遣し、島じゅうに洞窟陣地を張り巡らせました。終戦の前年9月15日に上陸した米軍は3万人近くにのぼり、壮絶な激戦となります。
ここで日本軍は「アッツ島の戦い」(18年5月)以来続けてきた組織的な「玉砕」を禁止し、激しいゲリラ戦を展開し、持久戦に持ち込もうとします(因みに、これは日本軍の戦術上の転換点となり、その後の「硫黄島の戦い」に引き継がれます)。このとき米軍は、人員で守備部隊の4倍、小銃は8倍、戦車は10倍という圧倒的な布陣を敷き、火炎放射器や水陸両用戦車などの最新兵器まで投入したそうですが、苦戦し、当初、島を攻略するのに「Three days, maybe two(3日、たぶん2日で終わる)」と豪語しながら、戦闘は実に2ヶ月半に及びました。当時、ペリリュー戦に参戦し戦後を生き延びた元米軍のエド・アンダウッド元大佐は、「日本軍は負けると判っている戦争を最後まで戦った。この忠誠心は天皇の力と知って、ペリリュー島を“天皇の島”と名付けた」と述べ、日本軍人の忠誠心に敬意を表したそうです。
実際、米・海兵隊の最精鋭部隊と言われる第1海兵師団第1連隊の死傷率は、史上最も高い約60%(別に54%とも)に達したため、第1海兵師団は撤収、第7海兵連隊も損害が50%を超えて戦闘不能に陥ったと言われます。太平洋艦隊司令長官ニミッツ海軍大将は著書「太平洋海戦史」で、「ペリリューの複雑極まる防衛に打ち勝つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約40%)を出した」と述べているそうです。日・米双方で約1万2000人が戦死し(日本軍は最終的に1万22人の戦死者と446人の戦傷者を出して玉砕、僅かに34人が生還。片や米軍は1684人の戦死者と7160人の戦傷者を出しました)、その犠牲者の多さと過酷さから、殆ど語られることがなかったため“忘れられた戦場”と呼ばれているそうです。ペリリュー島ではカニが死んだ兵士を食べて大繁殖したそうで、今もペリリュー島の人は肉食のカニを食べないと言われます。
今は美しい海に囲まれたこの島には、しかし、戦後70年を経てなお戦争の爪痕が数多く残されていることに、驚愕しました。最後まで戦い抜いた日本将兵が籠もっていた戦闘壕や、守備隊を率いた中川州男大佐が自決した山頂の司令部壕のほか、ジャングルに一歩足を踏み入れれば、旧日本軍の大砲や不発弾や兵器の残骸が緑に埋もれているそうですし、空地には放置されたままの日・米の戦車が、また、透き通るパラオ・ゲレムディウリーフには干潮時に旧日本軍の零戦の残骸が姿を現します。そして何よりパラオには、いまだ7000柱以上の日本兵の遺骨が眠っているそうです。
天皇陛下は、これまで、1994年に硫黄島、2005年にサイパンと、「戦没者慰霊の旅」を続けて来られました。パラオ訪問は10年前から検討されていたものの「受け入れ態勢が整わない」という理由で見送られてきたのだそうです。今回も、政府専用機の離着陸が難しい、ホテルも相応のものがない、警察官は僅か200人で、警備にあたるのは50人足らずと、警備上の問題もクリアできない・・・ないない尽くしですが、それでも両陛下は「宿泊は船内でも構わない」と言われて、実際、洋上に停泊する海上保安庁巡視船「あきつしま」の船長室に宿泊されるという異例の事態となりましたが、ようやく10年来の悲願が実現しました。その甲斐あって、ペリリュー島では、当日、学校や職場は休日となり、全島民600人で天皇・皇后両陛下を出迎えたそうですし、なんとペリリュー州では4月9日を「天皇皇后両陛下ご訪問の日」として州の祝日に制定してしまったそうです。
4月8日、パラオ出発前に天皇陛下が語られたお言葉の一節が心に響きました。「太平洋に浮かぶ美しい島々で、このような悲しい歴史があったことを、私どもは決して忘れてはならないと思います。」戦後レジームからの脱却を唱える安倍総理は、気持ちは分からなくないにせよ、世界からどうしてもタカ派に見られてしまいますし、近隣諸国の中・韓も中・韓で、東アジア地域の安全保障環境がぎすぎすしてしまい、私たちもついイラつくことが多いのに対し、どこまでも平和への祈りを捧げる天皇陛下の存在ほど私たち日本人にとって心安らぎ有難いことはありません。