韓国のことを今さらとやかく言うつもりはない・・・というのが毎度の枕詞になってしまった。今回含め過去4回の安倍首相の施政方針演説で韓国のことがどう表現されたか、既に外務省HPでも表現が変わったことが知られているが、あらためて産経抄(Web)が振り返りまとめているのが興味深い。
2013年2月の演説では「自由や民主主義といった基本的価値と利益を共有する最も重要な隣国」と従来の日韓関係を踏まえてまっとうに位置付けていたが、慰安婦問題などで韓国がゴネて諸外国で告げ口外交を始めた結果、翌2014年1月の施政方針演説では「自由や民主主義」の部分が外れ、更に2015年2月の施政方針演説では「基本的価値と利益の共有」すらもなくなったらしい。産経抄は「日本はもはや韓国を同じ民主主義国とは見なしていないという強烈な暗示である」とまで言う。そして今月22日の演説では、昨年末の慰安婦問題に関する「最終的かつ不可逆的」解決の日韓合意を受け、新たに「戦略的利益を共有する」という表現が加わった。歴史や民主主義のとらえ方などで価値観を共有するとまではいかないまでも、北朝鮮の脅威と対峙する上では安全保障上の利害が一致するとの含意かと、産経抄は述べる。
「戦略的」という表現はこれまで中国に対してのみ使われてきたものだ。所謂「戦略的」互恵関係である。政治思想・外交方針だけでなく、人権などの社会的価値観といった体制の根本的なありようは一致しないが、経済という一点では相互依存関係にあり、経済的利益をお互いに享受するために、また安全保障という一点では、エスカレーションしないことを相互の利益として守るために、小異を捨てて大同につく(果たして価値観や体制のありようが小異と呼べるか疑問であるが)ほどほどにオトナの付き合いをして行こうというメッセージだと私は思っている。
年末の日韓合意は、報道では否定されているがアメリカの仲介あってこその結果だと思うのは、そもそも日韓の歴史認識問題と化して展開された「告げ口外交」など、欧米のオトナ目線では、所詮は子供のケンカだと思われて来たからだ。安倍首相のせいではあるまい。朴槿恵大統領も、必ずしも本意ではなかったと善意に解釈するにしても、東アジアの儒教社会にあって国内向けアピールを優先せざるを得なかった政治力の無さの故であろう。日本の保守派からは安倍首相の大いなる譲歩と思われているが、その決着の優れているところは、「最終的かつ不可逆的」として、ソウルの在韓日本大使館前の慰安婦像の撤去をはじめとして、国際公約化してしまったこと、すなわち日韓問題を韓国の内政問題にすり替えてしまったことにある。まあ、そもそもがそういう性格の問題だったのだが。
メディアでは突っ込んだ報道が一向になされないが、その意味するところは、そもそも謝罪なるもの、あくまでそれが許されることが前提だという、国家関係の基本的なありようを踏まえる必要があることにある。クラウゼヴィッツを引きだすまでもなく、戦争は外交や政治の延長のはずなのに、韓国にあっては沽券に係わる民族の記憶に結びつけてしまった時点で、国家間の和解は難しいと言わざるを得ない。朴槿恵大統領は、1000年経っても、加害者と被害者の関係は変わらないなどと放言したが、近代国民国家の関係にあっては常識外と言うべきだろう。そうした国際常識を彼女自身に納得させたとすれば進歩であるが、果たして韓国社会はそれを許容できるのか、政権が代わって蒸し返すことはないのかとなると、甚だ疑問である。日本のありようは、ドイツのそれとしばしば比較されて来たが、そもそもドイツは第二次世界大戦の中でナチスという言わば民族虐殺の人道的な国家犯罪を抱えている点が異なるのだが、ドイツがヨーロッパの中に受容される中で謝罪したという環境には思いをいたすべきだろう(このあたりはいずれ稿を改めたい)。東アジアでヨーロッパの歴史に学ぶのは難しい。
韓国の2015年の対日輸出額は、円安ウォン高の進行があったとは言え、1965年の国交正常化以降初めて輸出総額の5%を下回り過去最低になったという。以前このブログでも触れたが、日本のビジネスマンの8割はビジネス上で韓国を必要としていない。また韓国を訪れた日本人は前年比19.4%減の183万人となり、ピークだった12年の351万人から半減したらしい。冷え込んだ日韓関係は、不可逆的な合意のもとに、果たして可逆的たり得るであろうか。
2013年2月の演説では「自由や民主主義といった基本的価値と利益を共有する最も重要な隣国」と従来の日韓関係を踏まえてまっとうに位置付けていたが、慰安婦問題などで韓国がゴネて諸外国で告げ口外交を始めた結果、翌2014年1月の施政方針演説では「自由や民主主義」の部分が外れ、更に2015年2月の施政方針演説では「基本的価値と利益の共有」すらもなくなったらしい。産経抄は「日本はもはや韓国を同じ民主主義国とは見なしていないという強烈な暗示である」とまで言う。そして今月22日の演説では、昨年末の慰安婦問題に関する「最終的かつ不可逆的」解決の日韓合意を受け、新たに「戦略的利益を共有する」という表現が加わった。歴史や民主主義のとらえ方などで価値観を共有するとまではいかないまでも、北朝鮮の脅威と対峙する上では安全保障上の利害が一致するとの含意かと、産経抄は述べる。
「戦略的」という表現はこれまで中国に対してのみ使われてきたものだ。所謂「戦略的」互恵関係である。政治思想・外交方針だけでなく、人権などの社会的価値観といった体制の根本的なありようは一致しないが、経済という一点では相互依存関係にあり、経済的利益をお互いに享受するために、また安全保障という一点では、エスカレーションしないことを相互の利益として守るために、小異を捨てて大同につく(果たして価値観や体制のありようが小異と呼べるか疑問であるが)ほどほどにオトナの付き合いをして行こうというメッセージだと私は思っている。
年末の日韓合意は、報道では否定されているがアメリカの仲介あってこその結果だと思うのは、そもそも日韓の歴史認識問題と化して展開された「告げ口外交」など、欧米のオトナ目線では、所詮は子供のケンカだと思われて来たからだ。安倍首相のせいではあるまい。朴槿恵大統領も、必ずしも本意ではなかったと善意に解釈するにしても、東アジアの儒教社会にあって国内向けアピールを優先せざるを得なかった政治力の無さの故であろう。日本の保守派からは安倍首相の大いなる譲歩と思われているが、その決着の優れているところは、「最終的かつ不可逆的」として、ソウルの在韓日本大使館前の慰安婦像の撤去をはじめとして、国際公約化してしまったこと、すなわち日韓問題を韓国の内政問題にすり替えてしまったことにある。まあ、そもそもがそういう性格の問題だったのだが。
メディアでは突っ込んだ報道が一向になされないが、その意味するところは、そもそも謝罪なるもの、あくまでそれが許されることが前提だという、国家関係の基本的なありようを踏まえる必要があることにある。クラウゼヴィッツを引きだすまでもなく、戦争は外交や政治の延長のはずなのに、韓国にあっては沽券に係わる民族の記憶に結びつけてしまった時点で、国家間の和解は難しいと言わざるを得ない。朴槿恵大統領は、1000年経っても、加害者と被害者の関係は変わらないなどと放言したが、近代国民国家の関係にあっては常識外と言うべきだろう。そうした国際常識を彼女自身に納得させたとすれば進歩であるが、果たして韓国社会はそれを許容できるのか、政権が代わって蒸し返すことはないのかとなると、甚だ疑問である。日本のありようは、ドイツのそれとしばしば比較されて来たが、そもそもドイツは第二次世界大戦の中でナチスという言わば民族虐殺の人道的な国家犯罪を抱えている点が異なるのだが、ドイツがヨーロッパの中に受容される中で謝罪したという環境には思いをいたすべきだろう(このあたりはいずれ稿を改めたい)。東アジアでヨーロッパの歴史に学ぶのは難しい。
韓国の2015年の対日輸出額は、円安ウォン高の進行があったとは言え、1965年の国交正常化以降初めて輸出総額の5%を下回り過去最低になったという。以前このブログでも触れたが、日本のビジネスマンの8割はビジネス上で韓国を必要としていない。また韓国を訪れた日本人は前年比19.4%減の183万人となり、ピークだった12年の351万人から半減したらしい。冷え込んだ日韓関係は、不可逆的な合意のもとに、果たして可逆的たり得るであろうか。