G7サミットは、安倍首相がリーダーシップを発揮した晴れの舞台のはずだったが、世界経済がリーマンショックのような危機に陥りかねない状況だと見立てるような、明らかに消費増税回避の政治的発言があって興醒めし、やや霞んでしまった。そして何より現職アメリカ大統領の広島訪問という快挙に呑まれてしまった。
今朝の「サンデーモーニング」では、自身も被爆者である張本勲さんが、スポーツコーナーの最後に話を振られて、アメリカを許すことは出来ないとしながらも、安倍ちゃんが首相で良かったねえ、日本を守ってくれるものねえ、とポツリと呟いた。即座に個人的なもの(意見)だけど、と苦笑いしながらMCはじめ解説の方々を気遣って“お断り”されていたが、なんだか番組の(左にヘソの曲がった)性格と張本さんの微妙な立ち位置を垣間見せて、思わず苦笑してしまった。
全国紙の社説を見ると、アメリカに根強い反対論・慎重論はじめ様々な障害を乗り越え、原爆投下の張本人たるアメリカの現職大統領として初めて被爆地を訪れた勇気を称え、「唯一の原爆使用国と被爆国の両首脳が並んで平和を誓った意義は大きい」(読売)し、「核軍縮の機運を再び高めるべく、オバマ氏が被爆地で決意を新たにしたことを評価」(朝日)する一方で、「オバマ氏は、投下の是非に関する見解や、謝罪には言及しなかった」(読売)、「原爆を投下した責任に触れる表現は一切なかった」(朝日)等と留保をつけ、17分間の演説を(28分のプラハ演説より随分短いというのは言いがかりにしても)全面的に評価するものとは総括されなかった。朝日は、「被爆者の間では『謝罪はせずとも、核兵器を使ったのは誤りだったと認めてほしい』との意見が多かった。オバマ氏がこの点に踏み込まなかったことには失望の声も上がった」と他人の口を借りて間接的に非難するという得意の追い討ちをかけた。
「謝罪」について、あらためて考えさせられる。
確かに、原爆投下は、民間人を大量虐殺した明確な戦時国際法違反である。規模は違うが、ナチスによるユダヤ人虐殺を裁いた「人道に対する罪」を問われても仕方がない。そして、中国人や韓国人は日本の侵略戦争を未来永劫、許さないであろうのに対し(多分)、日本人は、もし大統領が正式に謝罪すれば、即座に歴史的和解として受け入れ、許すだろう。しかし、そもそも主権国家が過去の戦争であれ統治政策であれ国家として誤りだったとして正式に謝罪することは(日本を例外として)殆どないのが現実である。ドイツが裁かれ、またドイツ人が謝罪したのは、ドイツという国家主体の戦争犯罪ではなく、飽くまでナチスの犯罪だった。今なお執行力を欠く国際社会にあっては、主権国家の存在はなお絶対なのである。また、生物・化学兵器の使用が人道上の理由から違法とされるのに対して、原爆を含む核兵器をなお同列に論じるほど人類は進歩していない。事実上「使えない兵器」であることに変わりないのだが、政治上の理由から抑止力として保有する現実を否定するわけには行かないからだ。日本だって、日本列島に何百発ものミサイルを向ける中国や水爆実験を成功させたと豪語する北朝鮮を抱える東アジアという戦略環境にあって、アメリカの核の傘にあるからこそ平和を維持出来ている現実を否定することは出来ない。まだ機は熟していない(当分、熟さない)と言うべきなのだろう。
私たちは、いつまで「謝罪」要求を引き摺るものかと思う。
思い出されるのは、ブログでこれまで何度か引用したエピソードで、マレーシア・ペナン駐在の頃のことだから、かれこれ10年くらい前になる。当時の上司は中華系マレー人で、イギリスの大学教育を受け、イントネーションにクセのある英語を話すが書く英語は立派で、そのくせ漢字は書けない、読めない、恐らく東南アジアの華僑の中では典型的な成功者の部類であろう。当時、日系企業に勤めていただけあって、日本に対する親近感が強く、日本的経営について興味が昂じて働きながら大学院に通って博士論文まで書き、私たちが携わった事業を収束させることになって、それを機に本人もビジネスから引退し、家族ともどもオーストラリアに移住してしまった。その彼とは、上司・部下を離れて、日本的経営を含む文化の違いを巡っていろいろ議論するのを楽しんだものだった。あるとき彼がふと、「日本はこれだけの(経済)大国なのに、何故、国際社会でもっとリーダーシップを発揮しようとしないのか」と正論を問うてきた。答えに窮して「多くの日本人にとって、戦争という負の遺産がトラウマになって、リーダーシップをとることが憚られるのだ」と言い訳すると、彼は明快に否定した。「戦争の責任は、今の世代にはない。」
被爆者だけでなく私たち日本人は、原爆投下の災禍を忘れようがないし、戦争の悲惨さを語り継がなければならない。しかし、アメリカへの恨みは胸の奥深くに仕舞い、未来志向のオトナの関係を深化させる、それが戦略環境を踏まえた現実感覚であり、長い歴史を踏まえた国家間のありようなのだろう。そして、それこそが、右寄りの人からは責任が曖昧でまるで被害者が「過ち」を犯したかのようだとしばしば非難され評判が頗る悪い原爆死没者慰霊碑の言葉「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」に込められた私たち日本人の覚悟であろう。予定調和のような議論だが、そして私は東京裁判による所謂自虐史観には否定的だが、なおそう思う。
今朝の「サンデーモーニング」では、自身も被爆者である張本勲さんが、スポーツコーナーの最後に話を振られて、アメリカを許すことは出来ないとしながらも、安倍ちゃんが首相で良かったねえ、日本を守ってくれるものねえ、とポツリと呟いた。即座に個人的なもの(意見)だけど、と苦笑いしながらMCはじめ解説の方々を気遣って“お断り”されていたが、なんだか番組の(左にヘソの曲がった)性格と張本さんの微妙な立ち位置を垣間見せて、思わず苦笑してしまった。
全国紙の社説を見ると、アメリカに根強い反対論・慎重論はじめ様々な障害を乗り越え、原爆投下の張本人たるアメリカの現職大統領として初めて被爆地を訪れた勇気を称え、「唯一の原爆使用国と被爆国の両首脳が並んで平和を誓った意義は大きい」(読売)し、「核軍縮の機運を再び高めるべく、オバマ氏が被爆地で決意を新たにしたことを評価」(朝日)する一方で、「オバマ氏は、投下の是非に関する見解や、謝罪には言及しなかった」(読売)、「原爆を投下した責任に触れる表現は一切なかった」(朝日)等と留保をつけ、17分間の演説を(28分のプラハ演説より随分短いというのは言いがかりにしても)全面的に評価するものとは総括されなかった。朝日は、「被爆者の間では『謝罪はせずとも、核兵器を使ったのは誤りだったと認めてほしい』との意見が多かった。オバマ氏がこの点に踏み込まなかったことには失望の声も上がった」と他人の口を借りて間接的に非難するという得意の追い討ちをかけた。
「謝罪」について、あらためて考えさせられる。
確かに、原爆投下は、民間人を大量虐殺した明確な戦時国際法違反である。規模は違うが、ナチスによるユダヤ人虐殺を裁いた「人道に対する罪」を問われても仕方がない。そして、中国人や韓国人は日本の侵略戦争を未来永劫、許さないであろうのに対し(多分)、日本人は、もし大統領が正式に謝罪すれば、即座に歴史的和解として受け入れ、許すだろう。しかし、そもそも主権国家が過去の戦争であれ統治政策であれ国家として誤りだったとして正式に謝罪することは(日本を例外として)殆どないのが現実である。ドイツが裁かれ、またドイツ人が謝罪したのは、ドイツという国家主体の戦争犯罪ではなく、飽くまでナチスの犯罪だった。今なお執行力を欠く国際社会にあっては、主権国家の存在はなお絶対なのである。また、生物・化学兵器の使用が人道上の理由から違法とされるのに対して、原爆を含む核兵器をなお同列に論じるほど人類は進歩していない。事実上「使えない兵器」であることに変わりないのだが、政治上の理由から抑止力として保有する現実を否定するわけには行かないからだ。日本だって、日本列島に何百発ものミサイルを向ける中国や水爆実験を成功させたと豪語する北朝鮮を抱える東アジアという戦略環境にあって、アメリカの核の傘にあるからこそ平和を維持出来ている現実を否定することは出来ない。まだ機は熟していない(当分、熟さない)と言うべきなのだろう。
私たちは、いつまで「謝罪」要求を引き摺るものかと思う。
思い出されるのは、ブログでこれまで何度か引用したエピソードで、マレーシア・ペナン駐在の頃のことだから、かれこれ10年くらい前になる。当時の上司は中華系マレー人で、イギリスの大学教育を受け、イントネーションにクセのある英語を話すが書く英語は立派で、そのくせ漢字は書けない、読めない、恐らく東南アジアの華僑の中では典型的な成功者の部類であろう。当時、日系企業に勤めていただけあって、日本に対する親近感が強く、日本的経営について興味が昂じて働きながら大学院に通って博士論文まで書き、私たちが携わった事業を収束させることになって、それを機に本人もビジネスから引退し、家族ともどもオーストラリアに移住してしまった。その彼とは、上司・部下を離れて、日本的経営を含む文化の違いを巡っていろいろ議論するのを楽しんだものだった。あるとき彼がふと、「日本はこれだけの(経済)大国なのに、何故、国際社会でもっとリーダーシップを発揮しようとしないのか」と正論を問うてきた。答えに窮して「多くの日本人にとって、戦争という負の遺産がトラウマになって、リーダーシップをとることが憚られるのだ」と言い訳すると、彼は明快に否定した。「戦争の責任は、今の世代にはない。」
被爆者だけでなく私たち日本人は、原爆投下の災禍を忘れようがないし、戦争の悲惨さを語り継がなければならない。しかし、アメリカへの恨みは胸の奥深くに仕舞い、未来志向のオトナの関係を深化させる、それが戦略環境を踏まえた現実感覚であり、長い歴史を踏まえた国家間のありようなのだろう。そして、それこそが、右寄りの人からは責任が曖昧でまるで被害者が「過ち」を犯したかのようだとしばしば非難され評判が頗る悪い原爆死没者慰霊碑の言葉「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」に込められた私たち日本人の覚悟であろう。予定調和のような議論だが、そして私は東京裁判による所謂自虐史観には否定的だが、なおそう思う。