遅ればせながら、オバマ大統領が、伊勢志摩サミット出席のために訪日する機会を捉えて、安倍首相と共に広島を訪問することを正式に発表したことに注目したい。原爆投下の張本人である米国の現職大統領が被爆地を訪れるのは初めてであり、既にいろいろなところで報じられている通り、オバマ氏だからこそ成し得た快挙だろう。が、いろいろな伏線があり、幸運ながらある種の必然であることも窺われる。
先ずはオバマ氏のレガシー(政治的遺産)として、キューバやイランに対する経済制裁解除が知られるが、その原点は、2009年4月5日プラハ・フラチャニ広場で、「核兵器を使用したことがある唯一の核保有国として米国が先頭に立ち、核兵器のない世界の平和と安全を追求する決意を明言した」(Wikipedia)、所謂「プラハ演説」への執着である。同年10月、オバマ大統領はノーベル平和賞を、何ら具体的な実績があるわけでもないのに、ただ超大国アメリカ大統領が発したメッセージという事実だけで授与されることに、私なんぞはノーベル平和賞の政治性に驚いたものだったが、その実質を埋める動きの一つが、イランの核開発を10年遅らせたと評価されると同時にイランやサウジアラビアとの関係が疎遠になりサウジの核武装すら懸念されて中東政策の観点からは物議を醸すイランとの核開発協議であり、また今回の広島訪問であろう。
さらに、散々報じられている通り、今回の訪問はアメリカによる「謝罪」とは無縁なものとなるようだ。アメリカの保守派は、今なお原爆投下で「数百万人の命が救われ」「戦争終結を早めるに至った」正当化論を信じ、広島訪問を通じて「真珠湾攻撃や大東亜共栄圏に関する集団的健忘症にかけようとしているのではないか」(フーバー研究所の戦史家)などと警戒する声さえある。アメリカという国柄故にさまざまな意見があり、ケリー国務長官が米国の現職閣僚として初めて平和記念公園を訪問したのを一つの試金石に、オバマ大統領は慎重にその世論の反応を見極めたと言われる。キャロライン・ケネディ駐日大使の助言・貢献も大きかったようだ。トランプ氏が内向きで孤立主義的な発言を繰り返し快進撃を続ける大統領予備選の動きにも配慮したとされる。そのため、オバマ大統領の広島訪問では、IS台頭や、ロシア・中国・北朝鮮などの脅威を念頭に、飽くまで道半ばの核軍縮と核不拡散を後押しし、世界秩序を守る責任を再確認する将来に向けたメッセージを発することになりそうだ。
そうは言っても、大東亜戦争中のアメリカによる原爆投下も絨緞爆撃も明確な戦争犯罪であって、如何なる名目(目的)があろうとも、いやしくも文明国として手段を正当化するものではない。
その意味で、原爆死没者を慰霊し世界の恒久平和を祈念することにとどめるのは、日米双方の国民感情に配慮したぎりぎりの選択だったと言うべきだろう。戦後70年を経てなお、広島・長崎への原爆投下は、中国や韓国とは逆の意味ながら同様に日米間の「歴史問題」として、喉の奥に突き刺さったトゲのように、時に日米関係をぎくしゃくさせて来た。オバマ大統領の広島訪問は、言わば昨年4月の安倍首相によるアメリカ連邦議会上下両院合同会議における演説に呼応するものとして、また慰安婦問題をきっかけに歴史問題を蒸し返さない日韓政府間合意をも受けて、不幸な過去は過去として、日米関係が国際社会とりわけアジアにおける平和と安定の基軸であることを再確認し、日米関係を深化させる、飽くまで将来に向けたオトナの対応として容認・歓迎すべきものなのだろう。
中国や韓国のメディアは、産経などの報道によると、「反省」と「謝罪」が終わっておらず、韓国や中国などの被害国から完全に許しを受けたわけでもないにも関わらず、アジアの「加害国」の事実を隠して「被害者ヅラ」する日本に免罪符を与えかねないと難癖をつけたらしい。その相変わらずの卑屈な対日観と偏狭な歴史観から抜けられない、東アジアに特有の奇妙な世界観(華夷秩序)に裏打ちされた歪んだ心理状態は、さぞ窮屈だろうと気の毒になる。しかし叫び続ける彼らの声を諸外国は無視するわけにも行かず、真実はいずれ勝つのだからと言い訳がましいことを避ける性向が強い日本人は黙っていて良いことはない。甚だ不本意ではあるが、オトナの対応として、中国や韓国の政府レベルのプロパガンダやファンタジーとしての歴史認識を、中韓政府の面子を失うことがないよう、露骨に否定するのではなく真実を以てしてさりげなく無力化してさしあげるのが、両国との国民レベルの経済・文化交流に、ひいては友好に資するであろう。
先ずはオバマ氏のレガシー(政治的遺産)として、キューバやイランに対する経済制裁解除が知られるが、その原点は、2009年4月5日プラハ・フラチャニ広場で、「核兵器を使用したことがある唯一の核保有国として米国が先頭に立ち、核兵器のない世界の平和と安全を追求する決意を明言した」(Wikipedia)、所謂「プラハ演説」への執着である。同年10月、オバマ大統領はノーベル平和賞を、何ら具体的な実績があるわけでもないのに、ただ超大国アメリカ大統領が発したメッセージという事実だけで授与されることに、私なんぞはノーベル平和賞の政治性に驚いたものだったが、その実質を埋める動きの一つが、イランの核開発を10年遅らせたと評価されると同時にイランやサウジアラビアとの関係が疎遠になりサウジの核武装すら懸念されて中東政策の観点からは物議を醸すイランとの核開発協議であり、また今回の広島訪問であろう。
さらに、散々報じられている通り、今回の訪問はアメリカによる「謝罪」とは無縁なものとなるようだ。アメリカの保守派は、今なお原爆投下で「数百万人の命が救われ」「戦争終結を早めるに至った」正当化論を信じ、広島訪問を通じて「真珠湾攻撃や大東亜共栄圏に関する集団的健忘症にかけようとしているのではないか」(フーバー研究所の戦史家)などと警戒する声さえある。アメリカという国柄故にさまざまな意見があり、ケリー国務長官が米国の現職閣僚として初めて平和記念公園を訪問したのを一つの試金石に、オバマ大統領は慎重にその世論の反応を見極めたと言われる。キャロライン・ケネディ駐日大使の助言・貢献も大きかったようだ。トランプ氏が内向きで孤立主義的な発言を繰り返し快進撃を続ける大統領予備選の動きにも配慮したとされる。そのため、オバマ大統領の広島訪問では、IS台頭や、ロシア・中国・北朝鮮などの脅威を念頭に、飽くまで道半ばの核軍縮と核不拡散を後押しし、世界秩序を守る責任を再確認する将来に向けたメッセージを発することになりそうだ。
そうは言っても、大東亜戦争中のアメリカによる原爆投下も絨緞爆撃も明確な戦争犯罪であって、如何なる名目(目的)があろうとも、いやしくも文明国として手段を正当化するものではない。
その意味で、原爆死没者を慰霊し世界の恒久平和を祈念することにとどめるのは、日米双方の国民感情に配慮したぎりぎりの選択だったと言うべきだろう。戦後70年を経てなお、広島・長崎への原爆投下は、中国や韓国とは逆の意味ながら同様に日米間の「歴史問題」として、喉の奥に突き刺さったトゲのように、時に日米関係をぎくしゃくさせて来た。オバマ大統領の広島訪問は、言わば昨年4月の安倍首相によるアメリカ連邦議会上下両院合同会議における演説に呼応するものとして、また慰安婦問題をきっかけに歴史問題を蒸し返さない日韓政府間合意をも受けて、不幸な過去は過去として、日米関係が国際社会とりわけアジアにおける平和と安定の基軸であることを再確認し、日米関係を深化させる、飽くまで将来に向けたオトナの対応として容認・歓迎すべきものなのだろう。
中国や韓国のメディアは、産経などの報道によると、「反省」と「謝罪」が終わっておらず、韓国や中国などの被害国から完全に許しを受けたわけでもないにも関わらず、アジアの「加害国」の事実を隠して「被害者ヅラ」する日本に免罪符を与えかねないと難癖をつけたらしい。その相変わらずの卑屈な対日観と偏狭な歴史観から抜けられない、東アジアに特有の奇妙な世界観(華夷秩序)に裏打ちされた歪んだ心理状態は、さぞ窮屈だろうと気の毒になる。しかし叫び続ける彼らの声を諸外国は無視するわけにも行かず、真実はいずれ勝つのだからと言い訳がましいことを避ける性向が強い日本人は黙っていて良いことはない。甚だ不本意ではあるが、オトナの対応として、中国や韓国の政府レベルのプロパガンダやファンタジーとしての歴史認識を、中韓政府の面子を失うことがないよう、露骨に否定するのではなく真実を以てしてさりげなく無力化してさしあげるのが、両国との国民レベルの経済・文化交流に、ひいては友好に資するであろう。