オバマ大統領の広島訪問について雑感を続ける。
前回、原爆投下という大量殺戮の「加害者」たるアメリカによる「謝罪」の是非について考えてみたのは、当然のことながら大陸での「加害者」たる日本による中国や韓国への「謝罪」と相似形で重なるからだ。実のところ日本人の大多数はオバマ大統領の「謝罪」に拘っていなかったのだが(現に世論調査で92%はオバマ大統領の広島訪問を評価した)、日本のメディアばかりが「謝罪」に拘っていた(あるいはそのように見えた)のは、まさにその相似形からの連想であり、中韓に対する必要以上の贖罪意識(保守派に言わせれば自虐史観)のなせるわざなのだろう。しかしオバマ大統領は「謝罪」することなく、空振りに終わった。
中国の王毅外相は27日、オバマ米大統領の広島訪問について、「広島は注目されるべきだが、南京も忘れてはならない。被害者は同情に値するが、加害者は責任逃れはできない」と負け惜しみのように記者団に語ったという。ここで言う「加害者」は原爆の加害者ではなく、飽くまで中国に対する加害者としての日本を指すらしい。抗日に勝利したことを自らのraison d'êtreとして統治を正当化する中国共産党が、かつての敵国・日本との間で国交回復し平和友好条約を結ぶ際の言い訳として中国人民に説明したのは、加害者は(従い憎むべきは)日本の軍国主義であって、日本人ではない、日本人も(自分たち同様)被害者なのだというロジックだった。ナチスと一般のドイツ人とを分けたロジックの相似形である。それも今では過去の話のようで、安倍首相をはじめとする右翼は同罪と思っているらしく、そんな為政者を頂く日本をとにかく貶めたいらしい。
さらに中国共産党関係者によると、9月に中国・浙江省杭州で開かれる20ヶ国・地域(G20)首脳会議の際、オバマ大統領や安倍首相ら参加する首脳を、隣接する江蘇省南京市にある南京大虐殺記念館に案内するプランを共産党内部で検討し始めているという。しかし、広島への原爆投下は歴史的事実として周知の通りだが、南京大虐殺は、その後の実証研究により、被害者の数がせいぜい一桁少ないレベルだったことがほぼ明らかになりつつあり、大虐殺は中国共産党のプロパガンダの一環とも言うべきもので、そんな話に、いくら経済的相互依存関係を強めつつあるとは言え、関係各国が乗って来るとは俄かに信じ難い。ちょうど一年前、核拡散防止条約(NPT)原案に、日本の提案によって、被爆地の広島、長崎への訪問を世界の指導者に促す文言が盛り込まれたが、中国の反対によって、最終文書案で削除された、そんなご都合主義も甚だしい中国に、南京大虐殺記念館への訪問を促す資格などないだろう。しかもオバマ大統領以外のG7各国首脳は広島を訪問していないにも係らず、である。
また、どこで誰が言い出したか知らないが、安倍首相は、オバマ大統領が広島を訪問した返礼のような形で、真珠湾を訪問するべきとの主張がある。こちらについても、そもそも歴史的事実としての戦争犯罪と、単に宣戦布告の手交が遅れただけで、騙し討ちとされる真珠湾攻撃を同列に論ずるのはナンセンスだ。真珠湾で、民間人を大量無差別虐殺したのであれば話は別だが、虐殺というレベルではなく、たまたま真珠湾で働いていた民間人48人が巻き込まれ、戦艦アリゾナを中心に兵士2290人が亡くなったとされている。
そもそも宣戦布告についても異論がある。「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」というクラウゼヴィッツの戦争観は、現代にあっては色褪せてしまったが、基本的には宣戦布告によって始まり講和によって終結する、一種の外交プロセスだ。Wikipediaによると、「この外交通告の習慣はルネサンス時代に始まり、1904年の日露戦争が宣戦布告なく始められたことを契機に1907年の万国平和会議で討議され署名された『開戦に関する条約』で初めて国際的なルールとして成文化された」という。この条約で「宣戦布告の効力は相手国が受領した時点で発生すると定められた」ので、手交が遅れたのは確かに日本側の違反になる。しかし「当時はほとんど尊重されず、第一次世界大戦後に国際連盟が改めて定めた」とも言う。そして「第二次世界大戦では多くの国家間で宣戦布告が行われたが、この時期に多くの戦線で戦端の口火を切ったナチス・ドイツはほとんどの戦線において正式な宣戦布告なしに開戦を行っている」という。このあたりは教科書的な理解であって、現代にあっても、実は中東でもベトナムでもアフガンでもイラン・イラクでも中越でも湾岸でも、宣戦布告の書類を手交するという優雅な手続きを踏んだ例はない。結果、「歴史上宣戦布告が行われず『実質戦争状態』に突入した事例が存在するため、現在ではこの形式は重要視されていない」(Wikipedia)ということになる。
中国が非難する侵略戦争も、「学術的な用語としてはありえないという指摘」(Wikipedia)もあり、それを素直に引用した安倍首相はリビジョナリスト(歴史修正主義者)として欧米諸国からも警戒されたのは記憶に新しい。教科書的には、パリ不戦条約締結(1928年)以降、国際法的に自衛戦争以外の侵略戦争は禁止されたが、「侵略戦争と自衛戦争の線引きは必ずしも明確ではない」し、「『自衛』戦争という観点からも突き詰めていけば、同じく自衛を主張する他の膨張国家との衝突は免れない」のであって、結局、勝てば官軍、歴史は常に勝者のものというのが実態である。
かつて小室直樹氏は、「国際法上、国家が『謝罪』するということは国家責任を負うことを意味し、賠償に応ずることを意味する」と指摘し、例えば「日本の首相や外相がひとたび謝罪すれば事実でないことについてもその責任を日本が負わされることになる」として「謝罪外交」を強く批判したが、その通りだと思う。オバマ大統領が原爆投下に謝罪してアメリカとしての国家責任を認めてしまえば、大変なことになる。国家とはかくも罪深い存在なのだと思う。
前回、原爆投下という大量殺戮の「加害者」たるアメリカによる「謝罪」の是非について考えてみたのは、当然のことながら大陸での「加害者」たる日本による中国や韓国への「謝罪」と相似形で重なるからだ。実のところ日本人の大多数はオバマ大統領の「謝罪」に拘っていなかったのだが(現に世論調査で92%はオバマ大統領の広島訪問を評価した)、日本のメディアばかりが「謝罪」に拘っていた(あるいはそのように見えた)のは、まさにその相似形からの連想であり、中韓に対する必要以上の贖罪意識(保守派に言わせれば自虐史観)のなせるわざなのだろう。しかしオバマ大統領は「謝罪」することなく、空振りに終わった。
中国の王毅外相は27日、オバマ米大統領の広島訪問について、「広島は注目されるべきだが、南京も忘れてはならない。被害者は同情に値するが、加害者は責任逃れはできない」と負け惜しみのように記者団に語ったという。ここで言う「加害者」は原爆の加害者ではなく、飽くまで中国に対する加害者としての日本を指すらしい。抗日に勝利したことを自らのraison d'êtreとして統治を正当化する中国共産党が、かつての敵国・日本との間で国交回復し平和友好条約を結ぶ際の言い訳として中国人民に説明したのは、加害者は(従い憎むべきは)日本の軍国主義であって、日本人ではない、日本人も(自分たち同様)被害者なのだというロジックだった。ナチスと一般のドイツ人とを分けたロジックの相似形である。それも今では過去の話のようで、安倍首相をはじめとする右翼は同罪と思っているらしく、そんな為政者を頂く日本をとにかく貶めたいらしい。
さらに中国共産党関係者によると、9月に中国・浙江省杭州で開かれる20ヶ国・地域(G20)首脳会議の際、オバマ大統領や安倍首相ら参加する首脳を、隣接する江蘇省南京市にある南京大虐殺記念館に案内するプランを共産党内部で検討し始めているという。しかし、広島への原爆投下は歴史的事実として周知の通りだが、南京大虐殺は、その後の実証研究により、被害者の数がせいぜい一桁少ないレベルだったことがほぼ明らかになりつつあり、大虐殺は中国共産党のプロパガンダの一環とも言うべきもので、そんな話に、いくら経済的相互依存関係を強めつつあるとは言え、関係各国が乗って来るとは俄かに信じ難い。ちょうど一年前、核拡散防止条約(NPT)原案に、日本の提案によって、被爆地の広島、長崎への訪問を世界の指導者に促す文言が盛り込まれたが、中国の反対によって、最終文書案で削除された、そんなご都合主義も甚だしい中国に、南京大虐殺記念館への訪問を促す資格などないだろう。しかもオバマ大統領以外のG7各国首脳は広島を訪問していないにも係らず、である。
また、どこで誰が言い出したか知らないが、安倍首相は、オバマ大統領が広島を訪問した返礼のような形で、真珠湾を訪問するべきとの主張がある。こちらについても、そもそも歴史的事実としての戦争犯罪と、単に宣戦布告の手交が遅れただけで、騙し討ちとされる真珠湾攻撃を同列に論ずるのはナンセンスだ。真珠湾で、民間人を大量無差別虐殺したのであれば話は別だが、虐殺というレベルではなく、たまたま真珠湾で働いていた民間人48人が巻き込まれ、戦艦アリゾナを中心に兵士2290人が亡くなったとされている。
そもそも宣戦布告についても異論がある。「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」というクラウゼヴィッツの戦争観は、現代にあっては色褪せてしまったが、基本的には宣戦布告によって始まり講和によって終結する、一種の外交プロセスだ。Wikipediaによると、「この外交通告の習慣はルネサンス時代に始まり、1904年の日露戦争が宣戦布告なく始められたことを契機に1907年の万国平和会議で討議され署名された『開戦に関する条約』で初めて国際的なルールとして成文化された」という。この条約で「宣戦布告の効力は相手国が受領した時点で発生すると定められた」ので、手交が遅れたのは確かに日本側の違反になる。しかし「当時はほとんど尊重されず、第一次世界大戦後に国際連盟が改めて定めた」とも言う。そして「第二次世界大戦では多くの国家間で宣戦布告が行われたが、この時期に多くの戦線で戦端の口火を切ったナチス・ドイツはほとんどの戦線において正式な宣戦布告なしに開戦を行っている」という。このあたりは教科書的な理解であって、現代にあっても、実は中東でもベトナムでもアフガンでもイラン・イラクでも中越でも湾岸でも、宣戦布告の書類を手交するという優雅な手続きを踏んだ例はない。結果、「歴史上宣戦布告が行われず『実質戦争状態』に突入した事例が存在するため、現在ではこの形式は重要視されていない」(Wikipedia)ということになる。
中国が非難する侵略戦争も、「学術的な用語としてはありえないという指摘」(Wikipedia)もあり、それを素直に引用した安倍首相はリビジョナリスト(歴史修正主義者)として欧米諸国からも警戒されたのは記憶に新しい。教科書的には、パリ不戦条約締結(1928年)以降、国際法的に自衛戦争以外の侵略戦争は禁止されたが、「侵略戦争と自衛戦争の線引きは必ずしも明確ではない」し、「『自衛』戦争という観点からも突き詰めていけば、同じく自衛を主張する他の膨張国家との衝突は免れない」のであって、結局、勝てば官軍、歴史は常に勝者のものというのが実態である。
かつて小室直樹氏は、「国際法上、国家が『謝罪』するということは国家責任を負うことを意味し、賠償に応ずることを意味する」と指摘し、例えば「日本の首相や外相がひとたび謝罪すれば事実でないことについてもその責任を日本が負わされることになる」として「謝罪外交」を強く批判したが、その通りだと思う。オバマ大統領が原爆投下に謝罪してアメリカとしての国家責任を認めてしまえば、大変なことになる。国家とはかくも罪深い存在なのだと思う。