なおもしつこくオバマ大統領の広島訪問を巡る雑感を続ける。
先週末の「サンデーモーニング」では、好々爺のMC関口さんが、オバマ大統領の広島訪問にひっかけて、なお核兵器廃絶を実現できない世界を皮肉って、「まだ世界の為政者は、原爆の悲惨さが分からないんですかねえ」などとぼやいて、相変わらずオメデタイ人だなあ・・・と苦笑してしまった。確かに資料館の写真や当時の遺物などの現物を見れば、大袈裟に言えば人生観が変わるかも知れない(因みに、長崎出身の知人は、長崎の資料館の展示が、折角の「現場」でしかし「現物」ではなくハイテクを駆使してジオラマ化することによって、却って「現実」味がなくなるのではないかと懸念していたが、そうかも知れない)。しかし、安全なところで寛いでお茶を啜りながら「理想」を語っていられる関口さんと違って、世界の為政者は世界政治の「現実」を生きているのである。
「理想主義 対 現実主義(リアリズム)」は、国際政治学の教科書の一丁目一番地である。国際政治学の始祖の一人に数えられるE.H.カーの名著「危機の二十年」もそれがテーマだった。もとより0か1かの世界ではない。テーブルの上でニコニコ握手しながら、テーブルの下で拳銃を向けるのが外交官の典型として描かれるように、理想主義100%では余りにナイーブで不安になるし、現実主義に徹しても息が詰まって生きた心地がしない、やはりどちらも必要なのだが、その比重の置き方の違いで議論に幅が出来る。そして、その違いの一つは、端的に性悪説をとるか性善説をとるか、敷衍すると、世の中には邪悪な人がいて、必ずしも論理だけで動くような世の中ではないと悲観するか、否か、にあるだろう。オバマ大統領も、この二つの主義の間で揺れた7年間だったろうと思う。今夕の日経新聞には、オバマ大統領自らが推敲した広島演説原稿の写真が出ていた。
「ヒロシマ・2016」のタイトルで三回にわたって、しつこく書いてきたのは、オバマ大統領の広島訪問を歴史的な快挙だと思うからだ(なお、「ヒロシマ」は核の災禍がまとわりつく象徴的な名称として、また「広島」は単に地名として、私なりに使い分けている)。とりわけ「天の時」と「人の和」について、天の配剤のようなものを感じないわけには行かない。本籍・広島で広島1区を選挙区とする岸田外務大臣にはヒロシマへの強い思いがあるだろうし、20歳の時に広島の平和公園を訪れて被爆者と面会し「平和な世界の実現に貢献したい」との思いを強め大統領の広島訪問実現に尽力してきたキャロライン・ケネディ駐日大使の感慨も一入だろう。また首脳レベルでは、戦後70年となる昨年4月29日、アメリカ連邦議会上下両院合同会議で安倍首相が行った「希望の同盟へ」と題する演説が熱烈なスタンディングオベーションで迎えられ、今年、オバマ大統領が広島で行った演説も、原爆投下の責任や謝罪に触れていなくても、多くの日本人に歓迎された。それは安倍首相とオバマ大統領の個人的な関係に支えられれ、また、核廃絶を願う理想主義と、日米同盟強化により地域の安定に資する現実主義とが、対立することなく、絶妙に配合されたものとなった。オバマ大統領の戦争犯罪に対する謝罪がなかったことで、日本の戦争犯罪に対する謝罪を求め続けてきた中国の期待を裏切る形となった。被爆者に、日本人やアメリカ人捕虜だけでなく、朝鮮半島出身者も含めることで、韓国の怒りもかわした。
稀に見る外交的成果であり、あの民進党・蓮舫代表代行ですらツイッターに「オバマ大統領の広島訪問、そしてスピーチ、被爆者の方と話される姿。この歴史的な声明を実現された安倍内閣の外交は高く高く評価します」と投稿したらしい。蓮舫の普段の姿勢は私と全く相容れないが、今回、素直に意見表明したことで、彼女をちょっと見直した次第である。それほどにインパクトのある(?)イベントだったということだろう。
先週末の「サンデーモーニング」では、好々爺のMC関口さんが、オバマ大統領の広島訪問にひっかけて、なお核兵器廃絶を実現できない世界を皮肉って、「まだ世界の為政者は、原爆の悲惨さが分からないんですかねえ」などとぼやいて、相変わらずオメデタイ人だなあ・・・と苦笑してしまった。確かに資料館の写真や当時の遺物などの現物を見れば、大袈裟に言えば人生観が変わるかも知れない(因みに、長崎出身の知人は、長崎の資料館の展示が、折角の「現場」でしかし「現物」ではなくハイテクを駆使してジオラマ化することによって、却って「現実」味がなくなるのではないかと懸念していたが、そうかも知れない)。しかし、安全なところで寛いでお茶を啜りながら「理想」を語っていられる関口さんと違って、世界の為政者は世界政治の「現実」を生きているのである。
「理想主義 対 現実主義(リアリズム)」は、国際政治学の教科書の一丁目一番地である。国際政治学の始祖の一人に数えられるE.H.カーの名著「危機の二十年」もそれがテーマだった。もとより0か1かの世界ではない。テーブルの上でニコニコ握手しながら、テーブルの下で拳銃を向けるのが外交官の典型として描かれるように、理想主義100%では余りにナイーブで不安になるし、現実主義に徹しても息が詰まって生きた心地がしない、やはりどちらも必要なのだが、その比重の置き方の違いで議論に幅が出来る。そして、その違いの一つは、端的に性悪説をとるか性善説をとるか、敷衍すると、世の中には邪悪な人がいて、必ずしも論理だけで動くような世の中ではないと悲観するか、否か、にあるだろう。オバマ大統領も、この二つの主義の間で揺れた7年間だったろうと思う。今夕の日経新聞には、オバマ大統領自らが推敲した広島演説原稿の写真が出ていた。
「ヒロシマ・2016」のタイトルで三回にわたって、しつこく書いてきたのは、オバマ大統領の広島訪問を歴史的な快挙だと思うからだ(なお、「ヒロシマ」は核の災禍がまとわりつく象徴的な名称として、また「広島」は単に地名として、私なりに使い分けている)。とりわけ「天の時」と「人の和」について、天の配剤のようなものを感じないわけには行かない。本籍・広島で広島1区を選挙区とする岸田外務大臣にはヒロシマへの強い思いがあるだろうし、20歳の時に広島の平和公園を訪れて被爆者と面会し「平和な世界の実現に貢献したい」との思いを強め大統領の広島訪問実現に尽力してきたキャロライン・ケネディ駐日大使の感慨も一入だろう。また首脳レベルでは、戦後70年となる昨年4月29日、アメリカ連邦議会上下両院合同会議で安倍首相が行った「希望の同盟へ」と題する演説が熱烈なスタンディングオベーションで迎えられ、今年、オバマ大統領が広島で行った演説も、原爆投下の責任や謝罪に触れていなくても、多くの日本人に歓迎された。それは安倍首相とオバマ大統領の個人的な関係に支えられれ、また、核廃絶を願う理想主義と、日米同盟強化により地域の安定に資する現実主義とが、対立することなく、絶妙に配合されたものとなった。オバマ大統領の戦争犯罪に対する謝罪がなかったことで、日本の戦争犯罪に対する謝罪を求め続けてきた中国の期待を裏切る形となった。被爆者に、日本人やアメリカ人捕虜だけでなく、朝鮮半島出身者も含めることで、韓国の怒りもかわした。
稀に見る外交的成果であり、あの民進党・蓮舫代表代行ですらツイッターに「オバマ大統領の広島訪問、そしてスピーチ、被爆者の方と話される姿。この歴史的な声明を実現された安倍内閣の外交は高く高く評価します」と投稿したらしい。蓮舫の普段の姿勢は私と全く相容れないが、今回、素直に意見表明したことで、彼女をちょっと見直した次第である。それほどにインパクトのある(?)イベントだったということだろう。