今日、ノーベル物理学賞の発表があり、残念ながらアメリカ人に決まって日本人のこの分野での3年連続受賞はならなかった。しかし、昨日、ノーベル医学・生理学賞の発表があり、大隅良典・東京工業大栄誉教授が受賞された。こちらの分野では昨年の大村智・北里大学特別栄誉教授に続き、日本人による二年連続受賞である。茂木健一郎さんは「ノーベル賞思考停止で有り難がるの、やめたら。田舎くせえよ」などと毒づいておられるが、他人から評価されるのだから、おめでたいことには違いない。
それにしても、近年の日本人によるノーベル賞受賞ラッシュを思わずにはいられない。またぞろ韓国・聯合ニュースは「自然科学分野で日本人のノーベル賞受賞が相次ぐ背景として、『日本特有の匠の精神』や一つの分野に没頭する『オタク文化』の存在を挙げ、『政策や文化といったさまざまな側面の結晶だといえる』と分析」(産経Web)し、近くて遠い隣人・日本のことが気になって仕方ないらしいが、むしろ日本の社会が勃興した時代背景に思いを致す。
研究の成果が実った時期やノーベル賞として評価されるまでの時間差を考えると、1980~90年代というのが、戦後の高度成長の中で日本人が再び海外に雄飛し、慣れない英語を操り、大いに異文化の刺激を受けながら、飢餓感を抱えつつ「モーレツ」に頑張って、一つの高みに達した時代だったのだろうと思う。当時の日本には若々しい青雲の志と、何よりも勢いがあり、日本の大学は基礎研究を重視したし、日本の政府は手厚い支援を惜しまない余裕があった。そして社会学者エズラ・ヴォーゲル氏が「ジャパン・アズ・ナンバーワン」をものしたのが1979年のことだった。その後、産業界では、巨大貿易黒字により、一方で日本国内では「非関税障壁」の名のもとに閉鎖的で不公正な貿易慣行ありと非難され、日米構造協議が始まり、その後の悪名高い「年次改革要望書」に繋がった。他方で海外では、自動車の対米輸出数量を自主規制したり、プラザ合意で急激な円高の試練を受け、それでも競争力が衰えないので、スーパー301条なる制裁をちらつかされたりと、アメリカから不条理なバッシングをさんざん受け、叩かれて苛められて、日米貿易「摩擦」や日米貿易「戦争」と揶揄された時期でもあった。
その意味で、大隅教授のインタビューが気にかかる。「日本の科学水準をどうみるか」と問われたのに対し、「とても水準が高い。ただ、ノーベル賞に関して言うと、今は過去の遺産を食いつぶしている。今後、若い人が毎年のようにもらえるかどうかについては大変、懸念している。長期的な展望で仕事をすることが難しくなっている。それだけは何とかしたいと思っている」とお答えになっている(産経Web)。また、「東京大学に残っていたら、ここまで研究は広がらなかった」などと穏やかじゃないコメントも残されている(今朝の日経)。1996年に東大助教授から岡崎国立共同研究機構基礎生物学研究所(当時)に移籍されたのだが、「東大が悪かったわけではないが、本当に全てのことをひとりでやらないといけなかった」と苦労を語ったらしい。そう言えば山中伸弥・京都大学iPS細胞研究所所長・教授も、研究費をかき集めるために東奔西走されているようだが、バリバリの研究者がやることではない。茂木健一郎さんではなくとも、ノーベル賞を獲るために、などとは言わないが、「失われた20年」「30年」の歪みを正さないと、日本人はどんどん不幸になってしまうような気がする(だからこそアベノミクスには期待したのだけれど)。ノーベル賞受賞で(言わば過去の栄光に)浮かれている場合ではないのだ。
それにしても、近年の日本人によるノーベル賞受賞ラッシュを思わずにはいられない。またぞろ韓国・聯合ニュースは「自然科学分野で日本人のノーベル賞受賞が相次ぐ背景として、『日本特有の匠の精神』や一つの分野に没頭する『オタク文化』の存在を挙げ、『政策や文化といったさまざまな側面の結晶だといえる』と分析」(産経Web)し、近くて遠い隣人・日本のことが気になって仕方ないらしいが、むしろ日本の社会が勃興した時代背景に思いを致す。
研究の成果が実った時期やノーベル賞として評価されるまでの時間差を考えると、1980~90年代というのが、戦後の高度成長の中で日本人が再び海外に雄飛し、慣れない英語を操り、大いに異文化の刺激を受けながら、飢餓感を抱えつつ「モーレツ」に頑張って、一つの高みに達した時代だったのだろうと思う。当時の日本には若々しい青雲の志と、何よりも勢いがあり、日本の大学は基礎研究を重視したし、日本の政府は手厚い支援を惜しまない余裕があった。そして社会学者エズラ・ヴォーゲル氏が「ジャパン・アズ・ナンバーワン」をものしたのが1979年のことだった。その後、産業界では、巨大貿易黒字により、一方で日本国内では「非関税障壁」の名のもとに閉鎖的で不公正な貿易慣行ありと非難され、日米構造協議が始まり、その後の悪名高い「年次改革要望書」に繋がった。他方で海外では、自動車の対米輸出数量を自主規制したり、プラザ合意で急激な円高の試練を受け、それでも競争力が衰えないので、スーパー301条なる制裁をちらつかされたりと、アメリカから不条理なバッシングをさんざん受け、叩かれて苛められて、日米貿易「摩擦」や日米貿易「戦争」と揶揄された時期でもあった。
その意味で、大隅教授のインタビューが気にかかる。「日本の科学水準をどうみるか」と問われたのに対し、「とても水準が高い。ただ、ノーベル賞に関して言うと、今は過去の遺産を食いつぶしている。今後、若い人が毎年のようにもらえるかどうかについては大変、懸念している。長期的な展望で仕事をすることが難しくなっている。それだけは何とかしたいと思っている」とお答えになっている(産経Web)。また、「東京大学に残っていたら、ここまで研究は広がらなかった」などと穏やかじゃないコメントも残されている(今朝の日経)。1996年に東大助教授から岡崎国立共同研究機構基礎生物学研究所(当時)に移籍されたのだが、「東大が悪かったわけではないが、本当に全てのことをひとりでやらないといけなかった」と苦労を語ったらしい。そう言えば山中伸弥・京都大学iPS細胞研究所所長・教授も、研究費をかき集めるために東奔西走されているようだが、バリバリの研究者がやることではない。茂木健一郎さんではなくとも、ノーベル賞を獲るために、などとは言わないが、「失われた20年」「30年」の歪みを正さないと、日本人はどんどん不幸になってしまうような気がする(だからこそアベノミクスには期待したのだけれど)。ノーベル賞受賞で(言わば過去の栄光に)浮かれている場合ではないのだ。