元横綱・輪島さんが8日に亡くなっていたことが分かったという。享年70。
私はまだ物心つく前から先代・豊山を応援していたらしいのだが(なんて言うと年齢がばれる)、小・中学生の頃、父親の影響で大相撲が(再び?)好きになり、父親に連れられて春場所(大阪体育会館だったと思う)を毎年のように訪れて・・・その当時は支度部屋にずかずか入って行っても咎められることはない大らかな時代で(と言いながら、そんな図々しくも大胆不敵なことをしでかしたのは私の父親くらいかも)、トイレに入ったら既に引退していた大鵬親方も入って来て、期せずして二人並んでツレションしたのもその頃・・・贔屓にしていたのが輪島だった。北の湖との所謂「輪湖時代」全盛の頃のことだ。デーモン閣下が「吾輩は輪島や北の湖、貴ノ花を見ながら相撲の世界のいろはを学び、その魅力にどっぷりとはまっていった。つまり相撲における吾輩の師匠であると言える」と語っているのと似たような経験をしていて、自称10万55歳の閣下とは、やはりというか、まさにというか、まあほぼ同世代だ。
なにしろ当時の相撲は今とは比べものにならないくらい面白かった(というのは私が子供だったから、だけではないと思う)。昨今のような人材不足はなく、粒ぞろいで個性派力士も多かったから、取組みからは目が離せなかった。それでも、その当時にあっても、どっしりと重たくて憎たらしいほど強い北の湖と互角の勝負が出来るのは輪島くらいで、輪島の左の下手と北の湖の右の上手の(これも一つの相四つなのだろう)がっぷり四つ相撲は、今、思い出しても手に汗が滲み出てきそうなほどだ。輪島のまわしの色(禁断の金色!)に引っかけてか「黄金の左」と呼ばれ、左で下手を取ると、右からの押っつけが厳しく、相手力士の腰が浮いて、下手投げで叩きつけるか土俵際に寄り切る強さは絶品だった。相撲史に残る二人の好取組みは、輪島が23勝21敗と辛うじて勝ち越しているのは、年齢差があって横綱になるのが早かったからではあるが、見ごたえがあった。
そうは言っても、お相撲さんとしての輪島は、「稽古」を「練習」と呼んだり、その「練習」にランニングを取り入れたり、出世が早くてまげが結えずにパーマをかけて国技館入りしたり、場所入りの際に外車(リンカーン・コンチネンタル)で乗り付けたりと物議を醸し、破天荒で言わば新人類(死語か?)的なところがあって、引退後の私生活では、相撲とは対照的な脇の甘さが災いし、ついには廃業し、プロレスに転身したことには、正直なところ輪島らしいと思いつつちょっとがっかりしたものだった。
通算成績は673勝234敗85休、幕内では620勝213敗と、圧倒的な勝率を誇るのは、学生横綱出身で、ある程度、出来上がっていたからでもある。生涯58人の力士と対戦し、北の湖を含め54人に勝ち越し、3人と引き分け(若浪、黒瀬川、大錦、いずれも2勝2敗)、負け越しているのは横綱・玉の海ただ一人(輪島の新入幕が1971年1月で、その平幕時代に、横綱・玉の海が同10月に現役中に死亡するまでの間に、一度だけ対戦したらしい)というのも圧倒的だ。私にとっては、次点の千代の富士を差し置いてダントツの「アイドル」だった。
角界はいま貴乃花引退で浮足立っている。かつて田舎では兄弟が多くて、貧しい家庭で腕っぷしが強ければ力士に・・・なんて時代があったものだが、今となっては昔の話、外国人に頼らなければならなくなって久しい上に、5年前に大鵬が亡くなり(享年72)、3年前に北の湖(享年62)、2年前に千代の富士(享年61)と、早過ぎる死が相次いで、私のような世代の人間にとっては寂しい限り。一つの時代が終わった感慨に打ちひしがれている。
私はまだ物心つく前から先代・豊山を応援していたらしいのだが(なんて言うと年齢がばれる)、小・中学生の頃、父親の影響で大相撲が(再び?)好きになり、父親に連れられて春場所(大阪体育会館だったと思う)を毎年のように訪れて・・・その当時は支度部屋にずかずか入って行っても咎められることはない大らかな時代で(と言いながら、そんな図々しくも大胆不敵なことをしでかしたのは私の父親くらいかも)、トイレに入ったら既に引退していた大鵬親方も入って来て、期せずして二人並んでツレションしたのもその頃・・・贔屓にしていたのが輪島だった。北の湖との所謂「輪湖時代」全盛の頃のことだ。デーモン閣下が「吾輩は輪島や北の湖、貴ノ花を見ながら相撲の世界のいろはを学び、その魅力にどっぷりとはまっていった。つまり相撲における吾輩の師匠であると言える」と語っているのと似たような経験をしていて、自称10万55歳の閣下とは、やはりというか、まさにというか、まあほぼ同世代だ。
なにしろ当時の相撲は今とは比べものにならないくらい面白かった(というのは私が子供だったから、だけではないと思う)。昨今のような人材不足はなく、粒ぞろいで個性派力士も多かったから、取組みからは目が離せなかった。それでも、その当時にあっても、どっしりと重たくて憎たらしいほど強い北の湖と互角の勝負が出来るのは輪島くらいで、輪島の左の下手と北の湖の右の上手の(これも一つの相四つなのだろう)がっぷり四つ相撲は、今、思い出しても手に汗が滲み出てきそうなほどだ。輪島のまわしの色(禁断の金色!)に引っかけてか「黄金の左」と呼ばれ、左で下手を取ると、右からの押っつけが厳しく、相手力士の腰が浮いて、下手投げで叩きつけるか土俵際に寄り切る強さは絶品だった。相撲史に残る二人の好取組みは、輪島が23勝21敗と辛うじて勝ち越しているのは、年齢差があって横綱になるのが早かったからではあるが、見ごたえがあった。
そうは言っても、お相撲さんとしての輪島は、「稽古」を「練習」と呼んだり、その「練習」にランニングを取り入れたり、出世が早くてまげが結えずにパーマをかけて国技館入りしたり、場所入りの際に外車(リンカーン・コンチネンタル)で乗り付けたりと物議を醸し、破天荒で言わば新人類(死語か?)的なところがあって、引退後の私生活では、相撲とは対照的な脇の甘さが災いし、ついには廃業し、プロレスに転身したことには、正直なところ輪島らしいと思いつつちょっとがっかりしたものだった。
通算成績は673勝234敗85休、幕内では620勝213敗と、圧倒的な勝率を誇るのは、学生横綱出身で、ある程度、出来上がっていたからでもある。生涯58人の力士と対戦し、北の湖を含め54人に勝ち越し、3人と引き分け(若浪、黒瀬川、大錦、いずれも2勝2敗)、負け越しているのは横綱・玉の海ただ一人(輪島の新入幕が1971年1月で、その平幕時代に、横綱・玉の海が同10月に現役中に死亡するまでの間に、一度だけ対戦したらしい)というのも圧倒的だ。私にとっては、次点の千代の富士を差し置いてダントツの「アイドル」だった。
角界はいま貴乃花引退で浮足立っている。かつて田舎では兄弟が多くて、貧しい家庭で腕っぷしが強ければ力士に・・・なんて時代があったものだが、今となっては昔の話、外国人に頼らなければならなくなって久しい上に、5年前に大鵬が亡くなり(享年72)、3年前に北の湖(享年62)、2年前に千代の富士(享年61)と、早過ぎる死が相次いで、私のような世代の人間にとっては寂しい限り。一つの時代が終わった感慨に打ちひしがれている。