産経電子版に「『大阪人は納豆嫌い』は嘘」という記事が出ていた。それこそ「嘘」だ(笑)。
私は大学を卒業するまで20年間、大阪に暮らした。両親ともに(とりわけ食をつかさどる母が)鹿児島出身だったので、純粋な大阪人とは言えないのは、土曜の昼に吉本を見ていなかったことからも分かるし(笑)、健康のためなら何でも試す母に、平均的な大阪人よりも納豆をよく食べさせられたことからも分かる。そうは言っても近所の市場(いちば)やスーパーマーケットで買い物をしていれば、自然に関西文化にどっぷり浸かって、味覚は関西風になる。鹿児島も醤油文化ではないので、広い意味では関西文化圏にあると思う。
産経の記事には、「関西には納豆を食べる習慣がない」というステレオタイプの俗信は真実ではない、と言うが、そもそも論理矛盾のような文章で、そもそも食は文化であり習慣だから、「食わず嫌い」はその通りかも知れないが、食べる習慣がないというのは事実であって、そこにはそれなりのワケがあるはずだ。いずれにしても、今なら亡くなった母の愛を感じるところだが(苦笑)、当時は納豆を食べるのが苦痛で仕方なかった。が、ともかく出されたものは納豆だろうが何だろうが文句を言わずに食うのが薩摩隼=鹿児島の男=父、のもとで育った私のたしなみ、だった(苦笑)。
そんな私に納豆に対する尊敬の眼差しが生まれたのは、就職して上京してからのことだった。
横浜の独身寮に入って、朝・夕のまかない付きは有難かったが、いつしか寮で食事をしなくなった。一つには、当時はワーク・ライフ・バランスといった言葉が生まれる遥か以前、「雑巾がけ」だの「習うより慣れろ」だの丁稚奉公的な習慣は日本的経営の根幹として疑う者がなく、若者に月100時間以上の残業は当たり前とされていた時代のせいである。朝はともかく、夜は夕食時間(夜10時)に間に合わない。もう一つには、朝、しばしば納豆が出されたからだった。なんと、大阪人にしては食い慣れていたはずの私でも、出された納豆のニオイがきつくて食べることが出来なかったのだ。そう、(以前にもこのブログで話したことがあったように)カップラーメンに「E(East)」(=標準)と「W(West)」(=薄味)の識別マークが付され、マーケティング上、地域で味付けを変えていたように、大阪で口にしていた納豆の味付けはどうやら薄味にされていたようで、横浜の寮で出された納豆のニオイはキツくて、大阪人には耐えられなかったのだ。水戸納豆に敬意を表し、以後、首都圏では納豆においそれと手を出せなくなった。カリフォルニアに駐在していた頃、辛いもの大好きな取締役が出張で来た折りに、タイ料理の店にお連れしたところ、アメリカ人の舌に合う辛さでは物足りないと、よせばいいのに「Thai hot」で、と注文したら、本当に辛くて、誰も食べることが出来ないほどだったのを懐かしく思い出す(笑)
食の好みで言えば、関東でチョコミントを好きか嫌いかほぼ半々なのに対し、関西人はほぼ嫌いという話を聞いたことがある(私も賛同)。更に進んで食文化について言うと、海藻を消化できるのは世界広しと言えでも日本人くらいだと言われ、また、酒が飲めない下戸の遺伝子は東アジア(モンゴロイド)に特有のものとされ(酒に含まれるアルコールはエタノールで、肝臓でアルコール脱水素酵素によって分解されてアセトアルデヒドになり、更にアルデヒド脱水素酵素によって分解されて酢酸になり、酢酸は無毒だがアセトアルデヒドは猛毒で、血中濃度が高いと気分が悪くなり頭痛がして二日酔いの原因になるように、アセトアルデヒドを分解し辛い人が酒に弱い人であって、他方、このアセトアルデヒドの血中濃度が高い状態は病原体にとっても毒であり、例えば血液に感染する原虫と呼ばれる寄生生物は血中のアセトアルデヒド濃度が高いと増殖できないことも分かっていて、ことほどさように酒に弱いということは感染症予防と関係があると考えられている)、日本人の中でも酒が強い遺伝子を持つ人は北海道、東北、九州、沖縄あたりに分布しており(経験的にも納得できる)、柳田国男の方言周圏論(『蝸牛考』など)に従えば、周縁部の古い日本文化を残すところであるのはなかなか興味深いが、さて、習慣は体質も変えてしまうということか。
件の記事に戻ると、「関西であまり納豆が食べられなくなったのはおそらく高度成長期以降だろう。親世代が食べないと、次世代は食べなくなり、その次の世代は存在も知らなくなる。その間はざっと約30年だ」と、さる教授は解説されるが、生活感覚で言うと、もうちょっと古いように思う(せめて40~50年、あるいは戦後の話?)。記事では、関西で納豆に関するヒットが出ていると言い、大阪府内の草分け納豆メーカー「小金屋食品」がカップ入りの納豆を、豆の大きさ、トッピングから選べる直営店をオープンし、女性客らをつかんでいるというが、薄味ではないかと思う。何より健康に良いという俗説に影響されて、好き嫌いを超克しているのではないかと思う。地方の食文化が全国的に知れ渡り、それがどこでも受入れられるために、尖がったところが失せてまろやかになっているのではないかとも疑う。このあたりは是非とも水戸の方のご意見を伺いたいところだ。
私は大学を卒業するまで20年間、大阪に暮らした。両親ともに(とりわけ食をつかさどる母が)鹿児島出身だったので、純粋な大阪人とは言えないのは、土曜の昼に吉本を見ていなかったことからも分かるし(笑)、健康のためなら何でも試す母に、平均的な大阪人よりも納豆をよく食べさせられたことからも分かる。そうは言っても近所の市場(いちば)やスーパーマーケットで買い物をしていれば、自然に関西文化にどっぷり浸かって、味覚は関西風になる。鹿児島も醤油文化ではないので、広い意味では関西文化圏にあると思う。
産経の記事には、「関西には納豆を食べる習慣がない」というステレオタイプの俗信は真実ではない、と言うが、そもそも論理矛盾のような文章で、そもそも食は文化であり習慣だから、「食わず嫌い」はその通りかも知れないが、食べる習慣がないというのは事実であって、そこにはそれなりのワケがあるはずだ。いずれにしても、今なら亡くなった母の愛を感じるところだが(苦笑)、当時は納豆を食べるのが苦痛で仕方なかった。が、ともかく出されたものは納豆だろうが何だろうが文句を言わずに食うのが薩摩隼=鹿児島の男=父、のもとで育った私のたしなみ、だった(苦笑)。
そんな私に納豆に対する尊敬の眼差しが生まれたのは、就職して上京してからのことだった。
横浜の独身寮に入って、朝・夕のまかない付きは有難かったが、いつしか寮で食事をしなくなった。一つには、当時はワーク・ライフ・バランスといった言葉が生まれる遥か以前、「雑巾がけ」だの「習うより慣れろ」だの丁稚奉公的な習慣は日本的経営の根幹として疑う者がなく、若者に月100時間以上の残業は当たり前とされていた時代のせいである。朝はともかく、夜は夕食時間(夜10時)に間に合わない。もう一つには、朝、しばしば納豆が出されたからだった。なんと、大阪人にしては食い慣れていたはずの私でも、出された納豆のニオイがきつくて食べることが出来なかったのだ。そう、(以前にもこのブログで話したことがあったように)カップラーメンに「E(East)」(=標準)と「W(West)」(=薄味)の識別マークが付され、マーケティング上、地域で味付けを変えていたように、大阪で口にしていた納豆の味付けはどうやら薄味にされていたようで、横浜の寮で出された納豆のニオイはキツくて、大阪人には耐えられなかったのだ。水戸納豆に敬意を表し、以後、首都圏では納豆においそれと手を出せなくなった。カリフォルニアに駐在していた頃、辛いもの大好きな取締役が出張で来た折りに、タイ料理の店にお連れしたところ、アメリカ人の舌に合う辛さでは物足りないと、よせばいいのに「Thai hot」で、と注文したら、本当に辛くて、誰も食べることが出来ないほどだったのを懐かしく思い出す(笑)
食の好みで言えば、関東でチョコミントを好きか嫌いかほぼ半々なのに対し、関西人はほぼ嫌いという話を聞いたことがある(私も賛同)。更に進んで食文化について言うと、海藻を消化できるのは世界広しと言えでも日本人くらいだと言われ、また、酒が飲めない下戸の遺伝子は東アジア(モンゴロイド)に特有のものとされ(酒に含まれるアルコールはエタノールで、肝臓でアルコール脱水素酵素によって分解されてアセトアルデヒドになり、更にアルデヒド脱水素酵素によって分解されて酢酸になり、酢酸は無毒だがアセトアルデヒドは猛毒で、血中濃度が高いと気分が悪くなり頭痛がして二日酔いの原因になるように、アセトアルデヒドを分解し辛い人が酒に弱い人であって、他方、このアセトアルデヒドの血中濃度が高い状態は病原体にとっても毒であり、例えば血液に感染する原虫と呼ばれる寄生生物は血中のアセトアルデヒド濃度が高いと増殖できないことも分かっていて、ことほどさように酒に弱いということは感染症予防と関係があると考えられている)、日本人の中でも酒が強い遺伝子を持つ人は北海道、東北、九州、沖縄あたりに分布しており(経験的にも納得できる)、柳田国男の方言周圏論(『蝸牛考』など)に従えば、周縁部の古い日本文化を残すところであるのはなかなか興味深いが、さて、習慣は体質も変えてしまうということか。
件の記事に戻ると、「関西であまり納豆が食べられなくなったのはおそらく高度成長期以降だろう。親世代が食べないと、次世代は食べなくなり、その次の世代は存在も知らなくなる。その間はざっと約30年だ」と、さる教授は解説されるが、生活感覚で言うと、もうちょっと古いように思う(せめて40~50年、あるいは戦後の話?)。記事では、関西で納豆に関するヒットが出ていると言い、大阪府内の草分け納豆メーカー「小金屋食品」がカップ入りの納豆を、豆の大きさ、トッピングから選べる直営店をオープンし、女性客らをつかんでいるというが、薄味ではないかと思う。何より健康に良いという俗説に影響されて、好き嫌いを超克しているのではないかと思う。地方の食文化が全国的に知れ渡り、それがどこでも受入れられるために、尖がったところが失せてまろやかになっているのではないかとも疑う。このあたりは是非とも水戸の方のご意見を伺いたいところだ。