アジア大会が終わりました。オリンピックと違って参加することに意義があるといった呑気なタテマエ論が叫ばれることはなく、地域が限定されて人種的に近い者同士で戦われるため、ナショナリズムに支えられて、勝負が熾烈化し、メダル獲得数のような、分かりやすい目標を掲げがちです。そしてその数を見ると、目標の金60個はおろか50個にも届かなかったのは、日本の10倍以上の人口を有する中国はともかく半分以下の人口の韓国にも大きく後れをとり、残念な結果となりました。
勿論、スポーツ一般論として、メダルが全てではないのですが、この体たらくはどうしたことでしょうか。
例えばアメリカやオーストラリアでは、かなりの程度まで「強いことは良いことだ」という単純な信念が支配し、言わば体育会系の国と言えそうですが(かなり偏見・・・)、同様に韓国も、今回の北朝鮮の砲撃で明らかになったように、準戦時体制下にあって、男子には国民皆兵の義務があり、軍にありがちの強さへの信奉が恐らく充満し、準体育会系の国と言えるのではないでしょうか(ちょっと感覚的でいい加減ですが・・・)。またオリンピック金メダリストへの報奨金やワールドカップ出場選手への兵役免除など、社会としてメダル獲得へのこだわり、ひいては勝てる種目に絞って重点化することを促すインセンティブが働いているように思います。それにひきかえ日本は、歴史的に国家の外交・安全保障といったパワー・ポリティクス分野を意識的に避けて来て、戦うことへの肯定的な価値観や強さへの信奉が弱い上、若者に軍隊経験がないため、規律という点で極めて緩い社会と言えます。スポーツに賭けるインセンティブも乏しく、嗜好が散漫で、結果として相対的に戦略的な取り組みからほど遠いように思われます。
これらは、スポーツでは弱みになるかも知れませんが、社会として見れば強みに転化し得る日本社会の特質です。中国や韓国と比べ、明らかに自由放任(場合によっては放縦)であるのは、歴史的に江戸時代以来の伝統であり、誇り得るものです。前回、日本の歴史を肯定的に振り返りつつ日本らしさを再認識すること・・・と言った手前、その実践で、アジア大会を思い出しながら、書いてみました。
勿論、スポーツ一般論として、メダルが全てではないのですが、この体たらくはどうしたことでしょうか。
例えばアメリカやオーストラリアでは、かなりの程度まで「強いことは良いことだ」という単純な信念が支配し、言わば体育会系の国と言えそうですが(かなり偏見・・・)、同様に韓国も、今回の北朝鮮の砲撃で明らかになったように、準戦時体制下にあって、男子には国民皆兵の義務があり、軍にありがちの強さへの信奉が恐らく充満し、準体育会系の国と言えるのではないでしょうか(ちょっと感覚的でいい加減ですが・・・)。またオリンピック金メダリストへの報奨金やワールドカップ出場選手への兵役免除など、社会としてメダル獲得へのこだわり、ひいては勝てる種目に絞って重点化することを促すインセンティブが働いているように思います。それにひきかえ日本は、歴史的に国家の外交・安全保障といったパワー・ポリティクス分野を意識的に避けて来て、戦うことへの肯定的な価値観や強さへの信奉が弱い上、若者に軍隊経験がないため、規律という点で極めて緩い社会と言えます。スポーツに賭けるインセンティブも乏しく、嗜好が散漫で、結果として相対的に戦略的な取り組みからほど遠いように思われます。
これらは、スポーツでは弱みになるかも知れませんが、社会として見れば強みに転化し得る日本社会の特質です。中国や韓国と比べ、明らかに自由放任(場合によっては放縦)であるのは、歴史的に江戸時代以来の伝統であり、誇り得るものです。前回、日本の歴史を肯定的に振り返りつつ日本らしさを再認識すること・・・と言った手前、その実践で、アジア大会を思い出しながら、書いてみました。
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