風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

東京五輪・分断の理由

2021-08-12 00:39:16 | 時事放談
 私のようなオリンピック大好き人間にとって、此度はオリンピック出場選手が不憫でならない、残念な大会だった。いや、事前の圧倒的多数の反対派(民意と言うよりは所謂オピニオン・リーダー)に気兼ねして声を出せなかった人たち(民意)が、いざオリンピックが始まってみれば素直に応援の声を挙げることが出来る明るい雰囲気になれたことは良かったと思うが、実際に、現在進行形のメダリストのインタビューでは、移ろう民意を忖度して、この場に立てたこと、オリンピックが開催されたことへの感謝を表明する選手が相次いだ。前回・前々々回のブログ(「東京五輪・開幕」および「同・閉幕」)では、理不尽な現状に多少自棄になりながらも(笑)、私なりに自己批判(オリンピック批判)を試みたのだったが、そもそもこの民意の分断は何だったのか、何故おこったのか、あらためて考えてみたい。
 橋下徹さんは今日のプレジデント・オンラインで、「感染拡大を心配する側は徹底した反対派になる。リスクはないと考える側は徹底した賛成派になる」とズバッと本質を衝かれた。橋下さんの批判は、飽くまで「インテリ」という、橋下さんお得意のやや苔むした呼び名ではあるが(笑)、学者・ジャーナリスト・評論家・ブロガーなどの言わばオピニオン・リーダー(というのも苔むした呼び名 笑)的存在に向けられていて、民意(国民全般)とは区別されている。曰く、「東京オリンピックが閉会した今、国民の多くは『開催してよかった』と感じる一方、新型コロナ感染症の感染拡大には不安を覚えている。しかし、世間のインテリ論者は「オリンピックと感染拡大」の因果にこだわり、こうした民意が見えていないのではないか」、と。
 それはそれでその通りなのだが、やや言葉足らずだろう。と言うのも、パンデミックがなかった東京1964オリンピックでも開催前には反対が多かったと、麻生太郎副総理が吠えておられたからだ(笑)。曰く、「反対が圧倒的に多かった、60数%。みんな終わったら“良かった、良かった”って書いてたけど、いつ転向したの、あれ。やる前は、みんな反対。57年経って、今回も全く同じ傾向だったんじゃないのかなと」(Abema Times)。1976年のモントリオール大会にクレー射撃の日本代表選手として出場された方だけに、重みがある。
 これは、オリンピックという存在そのものに内在する問題、やや下世話な言い方をすれば、アスリートの中でも市民xxxではなく世界トップを目指すようなレベルの「強者」を称えるものであることへのヤッカミが根底にあるように思われる。民意の分断は、所謂日本的リベラルと保守という、左派と右派の分断にほぼ沿った形で起こっている。弱者救済を大義とする理想主義的な左派は、オリンピックのような強者崇拝が、とりわけパンデミックで飲食業界など苦悩する人たちがいる中で(あるいは今にも病床で死に瀕している方がおられる中で)開かれることが許せない、優先順位が間違っていると憤る一方、どちらかと言えば現実をありのままに見る右派は、いやこの程度の強者崇拝は他の文化振興と同様に問題とはならず、パンデミックにしても、第五波で感染は増えているけれども、ワクチン接種で死亡者が大幅に減って、所詮は風邪に過ぎない類いのものだから騒ぎ過ぎだと見做すというように、やや極端な見方をそれぞれに代表させたが、このあたりで分断を生んでいるのだろうと想像される。
 そしてこれは、どちらかと言うと左派=反体制、右派=体制支持で、パンデミック対応にせよ、オリンピック開催にせよ、政権批判のネタにするか否かとも概ね対応するものだから、先日、物議を醸した安倍前総理の発言ともシンクロする。曰く、「極めて政治的な意図を感じざるを得ませんね。彼らは、日本でオリンピックが成功することに不快感を持っているのではないか。共産党に代表されるように、歴史認識などにおいても一部から反日的ではないかと批判されている人たちが、今回の開催に強く反対しています。朝日新聞なども明確に反対を表明しました」(月刊Hanada 8月号)。
 安倍さんは、二度にわたる政権運営でやや被害妄想に陥っておられて、その気持ちは分からないではないが、問題の本質は、オリンピック反対派=反日的と短絡するのではなくく(因みに短絡したのは安倍さんではなくアベガー)、飽くまでオリンピック反対派=リベラル左派の特性にあると言うべきだろう。いや、こうした整理の仕方こそ、橋下さんのことをとやかく言っていられなくて、やや苔むした発想かも知れない(苦笑)。
 私は、こうした左派による「下方圧力」とでも言うべきものには根本的に賛同できない(社会にとって弱者救済・保護は重要であるが、別のレベルの問題である)。勿論、このパンデミックという、時と場合によることは承知の上である。スガ政権のパンデミック対応はお世辞にも上手く行っているとは思わないし、密を避けるのは良いとして、毎度、対策として夜の盛り場を槍玉に挙げるのは余りに芸がないし、気の毒だし、私自身もぷらぷら飲みに行けなくて辛い。しかし、昨年の今頃と比べれば、スガ政権の対応は相も変わらずで知恵がないにしても、明らかに事態は変化しており、少なくとも得体の知れない新型コロナはある程度までは得体が知れるようになって、多少はcontrollableになって来た(と言うと、五輪誘致の際の安倍さん発言が思い出されて、失笑を買いそうだが 笑)。そして、「下方圧力」の言わば極論であることを承知の上で、学生時代のある教授の口癖を紹介したい。その教授はロシア政治専攻で、当時の旧ソ連の共産主義体制を蛇蝎の如く嫌っておられて、何故、旧ソ連がダメかと言うと、一人のドストエフスキーも生まなかったから、と端的に表現されたのであった。至言であろう。凡そ左と右とを問わず、合理主義・機能主義を突き詰めた社会では、スポーツを含む文化は蔑ろにされる・・・というのは極論であることは承知の上である。
 ジャン・ジャック・ルソーが言った「一般意志」を思い出す。「全体意志」とは区別される概念である。個人にはそれぞれ「特殊意志」があって、例えば、オリンピックに反対する意見として、子供の運動会は中止されるのに、何故、オリンピックは開催されるのか、といったものがあった。子供の運動会とオリンピックを比べるのはやや乱暴な気もしたが、それはともかく、こうした自分の利益しか考えない「個別意志」を足し合わせた「全体意志」は、しかし社会全体の公共の利益を考える「一般意志」たり得ないのである。パンデミック下のストレスに晒される中で、「個別意志」の発露が、「全体意志」圧力となり、オリンピック中止のムーブメント(風向き)を生んだような気がする。残念ながらそこでは「一般意志」としての例えばオリンピックの理念のようなものは遠景に霞んでしまった。
 パンデミック下で、というのは確かに問題ではあるが、それ故にこそ、パンデミックというアブノーマル下で人々をしてノーマルを思い出さしめ、長くていつまで続くのか朦朧とするばかりのトンネルの中で一筋の光明を、自信を、与えることになったであろうオリンピックを、私は評価したいのである。スポーツを含む文化には、そのような力がある。
 まあ、それほどかけ離れたものではなく、微妙な違いでしかないのかも知れないが。
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