生まれてくる子供の命名は、親それぞれに思い入れがあることでしょう。私も、随分昔の話になってしまいますが、子供の命名の時には、自分以外の人の運命を決めることの重大さに打ち震えたものでした。運命と言ってしまうと大袈裟で、親らしいことをする初めての儀式に過ぎないのかも知れません。しかし、せめて字画は命名の本を読み込んで完璧な字画にし(本によっては良い字画の解釈が違うので当惑しますが)、選んだ漢字も漢和辞典で意味を再確認してまで完璧を期そうと、健気に頑張ったものでした(最初の子はボストンで生まれたので、わざわざ日本の書籍を扱うダウンタウンの本屋でプレミアム価格を支払って漢和辞典を買い求めました。Amazon.comがない時代の話です)。
実際、人生における重大な決定と言えば、先ずは学校を決めることや、働く会社を決めることが浮かびますが、これらは所詮は自分のことに過ぎません。結婚も、合意のもとで、という意味では、半分の責任は感じますが、所詮は自分のことです。子供を産むことですら、親はなくても子は育つと言うくらいですから、出産の時点では、喜びに満ち溢れて深刻さには思い至りません。それらに引き換え、子供の命名は、その子に一生ついて回る問題で、親の一存で決められるほど簡単なことながら責任の重大さを思い知らされます。昔、悪魔ちゃんという名前をつけようとした親がいたと記憶しますが、親の良識としてはとても考えられません。
なぜ、突然こんな話をするのかと言うと、命名にまつわる出来事を思い出すキッカケとなる事件がつい最近あったからでした。
これから受験シーズンで、お子さんが大変なのは当事者として仕方ないとして、それを見守るだけの親御さんも気を揉むだけで心中察するに余りあります。私も中学三年生の男の子を抱え、小5から中三の6月まで海外暮らしで、近隣の高校の事情はおろか、厳しい日本の受験制度自体をも理解しないのは止むを得ないと頭では理解しつつ、緊迫感がない様を見ていると、はらはらして見ていられないというのが正直な気持ちです。怒ってはいけないと分かっていても、つい余計な一言を発してしまいます。そうは言っても、結局、この受験戦争を正面突破しようとしても勝ち目はありませんから、帰国子女枠で受験するしかなく、マメにいくつか学校説明会に足を運び、願書を入手して、調べ始めたところ、学校によっては、海外に滞在していたことを派遣元の企業が証明することを要求するケースがあることが判りました。そこで会社の人事に頼んで証明書を発行してもらったところ、子供の名前に旧字体が使われたままだったことが判明し、愕然としたのでした。
子供が生まれた当時はボストンに駐在しており、時間をかけて自信をもって命名した結果を在ボストン日本総領事館に届け出たところ、一週間ほどして、使用した旧字体が命名用漢字にないと言う理由で却下されてしまいました。早速、領事館に電話して、文化としての日本語を法律で規制するのは怪しからんではないかと食って掛かったのですが(勿論、私も法学部(あ法学部ですが)出身なので、事情は分からなくはありません)、その担当者から、悪法も法なりと居直られると、腹が立って仕方ない。だからと言って相手は小役人で、怒ったところで詮無いことですし、日本語そのものが気の毒だと、複雑な思いに囚われたものでした。結果として、旧字体を諦めて新字体に変更して届出を完了したのですが、会社への届出の修正を怠っていたのでした。入学願書で要求される資料の間で、名前の字体ですら統一されていないのは、後々、問題となる可能性があります。
日本語には、こんなドラマを生むほどの魅力(魔力?)があります。
上の写真は、ペナンのジョージタウンにあるインド料理店の看板です。英語の住所表示の上に、マレー語とヒンディー語の店名、右に中国語の店名が見えます。言葉はしぶとく行き続けています。
(後記)その後の法改正により、私が使って却下された旧字体は、今では氏名用漢字として通用するようになったそうです。今更、家裁に申請するのは面倒ですが、日本の役所の、なんともお粗末な対応です。
実際、人生における重大な決定と言えば、先ずは学校を決めることや、働く会社を決めることが浮かびますが、これらは所詮は自分のことに過ぎません。結婚も、合意のもとで、という意味では、半分の責任は感じますが、所詮は自分のことです。子供を産むことですら、親はなくても子は育つと言うくらいですから、出産の時点では、喜びに満ち溢れて深刻さには思い至りません。それらに引き換え、子供の命名は、その子に一生ついて回る問題で、親の一存で決められるほど簡単なことながら責任の重大さを思い知らされます。昔、悪魔ちゃんという名前をつけようとした親がいたと記憶しますが、親の良識としてはとても考えられません。
なぜ、突然こんな話をするのかと言うと、命名にまつわる出来事を思い出すキッカケとなる事件がつい最近あったからでした。
これから受験シーズンで、お子さんが大変なのは当事者として仕方ないとして、それを見守るだけの親御さんも気を揉むだけで心中察するに余りあります。私も中学三年生の男の子を抱え、小5から中三の6月まで海外暮らしで、近隣の高校の事情はおろか、厳しい日本の受験制度自体をも理解しないのは止むを得ないと頭では理解しつつ、緊迫感がない様を見ていると、はらはらして見ていられないというのが正直な気持ちです。怒ってはいけないと分かっていても、つい余計な一言を発してしまいます。そうは言っても、結局、この受験戦争を正面突破しようとしても勝ち目はありませんから、帰国子女枠で受験するしかなく、マメにいくつか学校説明会に足を運び、願書を入手して、調べ始めたところ、学校によっては、海外に滞在していたことを派遣元の企業が証明することを要求するケースがあることが判りました。そこで会社の人事に頼んで証明書を発行してもらったところ、子供の名前に旧字体が使われたままだったことが判明し、愕然としたのでした。
子供が生まれた当時はボストンに駐在しており、時間をかけて自信をもって命名した結果を在ボストン日本総領事館に届け出たところ、一週間ほどして、使用した旧字体が命名用漢字にないと言う理由で却下されてしまいました。早速、領事館に電話して、文化としての日本語を法律で規制するのは怪しからんではないかと食って掛かったのですが(勿論、私も法学部(あ法学部ですが)出身なので、事情は分からなくはありません)、その担当者から、悪法も法なりと居直られると、腹が立って仕方ない。だからと言って相手は小役人で、怒ったところで詮無いことですし、日本語そのものが気の毒だと、複雑な思いに囚われたものでした。結果として、旧字体を諦めて新字体に変更して届出を完了したのですが、会社への届出の修正を怠っていたのでした。入学願書で要求される資料の間で、名前の字体ですら統一されていないのは、後々、問題となる可能性があります。
日本語には、こんなドラマを生むほどの魅力(魔力?)があります。
上の写真は、ペナンのジョージタウンにあるインド料理店の看板です。英語の住所表示の上に、マレー語とヒンディー語の店名、右に中国語の店名が見えます。言葉はしぶとく行き続けています。
(後記)その後の法改正により、私が使って却下された旧字体は、今では氏名用漢字として通用するようになったそうです。今更、家裁に申請するのは面倒ですが、日本の役所の、なんともお粗末な対応です。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます