今日の日経・夕刊に石井和子さん(日本気象予報士会の元会長)が「二十四節気」と題するエッセイを寄せておられる。「8日は立秋、暦の上では秋が始まる。一年のなかで一番暑い今頃が何で立秋なの?」で始まり、結論を種明かししてしまうと、立秋は二十四節気の一つ、その二十四節気は遥か紀元前の昔、中国・華北で作られた季節の目印で、中国・華北は、一説によると日本の東北あたりの気候に近いようだが、中国・華北は大陸性気候なので、大陸が海洋よりも温まり易く冷め易いように、春は割りに早く、秋めくのも早いのではないか、ということだ。
このエッセイは、「巡る季節の実感は、自分たちの生への確認につながるのではないだろうか?」と続き、「巡り来る季節を今か今かと五感を働かせながら待ち望む感性こそが、古代から続く日本人の季節感ではないかと思っている」と結んでいる。そこに大いに共感した。
私はマレーシア・ペナンに3年暮らしたが、年がら年中、Tシャツに短パンにビーサンで街をほつき歩くことが出来る気候は、衣装代がかからないし、暑いと飾らないので、楽ちんであった。激しいスコールに襲われることもあるが、どこかに雨宿りしてやり過ごせばいい。その強烈な暑さを象徴するように、熱帯特有の花の色は原色鮮やかで、なかなかショッキングである。マンゴー、パパイヤ、パイナップル、モンキーバナナなど、南洋の果物もまた濃厚な味わいで、病み付きになる。朝夕にコーランを読む声が響く異国情緒と相俟って、飽くことを知らなかった。
ところが・・・1年経ち、2年経つ内に、変化の乏しい常夏の気候に物足りなさを感じるようになった。鮮烈な色合いや強烈な味わいにも、同じように物足りなさを感じるようになった。感覚がマヒしたわけではない。不思議なもので、日本人は、移ろう季節を皮膚感覚で(つまり目や耳や鼻や肌で)愛でたいのである。桜の花びらのような仄かな色合いを、桃や柿のようなそこはかとない味わいを、こよなく愛するのである。トヨタのカイゼンDNAを育んだのは、こうした微かな変化をも感得する日本人の感性の繊細さにあるのではないかとさえ思った。
そんな日本が、熱帯化しつつあるのを感じる。既に、熱帯の果物が栽培されているし、魚の漁獲も変わりつつあるようだ。ゲリラ豪雨のような激しさは、かつての日本では見られなかったことだが、最近は夕立と言うよりスコール的なものを感じる。打ち水をして涼を求めた日本の夏を、風鈴を、蚊取り線香を懐かしむが、もはや取り返せない日本の原風景なのだろうか。
このエッセイは、「巡る季節の実感は、自分たちの生への確認につながるのではないだろうか?」と続き、「巡り来る季節を今か今かと五感を働かせながら待ち望む感性こそが、古代から続く日本人の季節感ではないかと思っている」と結んでいる。そこに大いに共感した。
私はマレーシア・ペナンに3年暮らしたが、年がら年中、Tシャツに短パンにビーサンで街をほつき歩くことが出来る気候は、衣装代がかからないし、暑いと飾らないので、楽ちんであった。激しいスコールに襲われることもあるが、どこかに雨宿りしてやり過ごせばいい。その強烈な暑さを象徴するように、熱帯特有の花の色は原色鮮やかで、なかなかショッキングである。マンゴー、パパイヤ、パイナップル、モンキーバナナなど、南洋の果物もまた濃厚な味わいで、病み付きになる。朝夕にコーランを読む声が響く異国情緒と相俟って、飽くことを知らなかった。
ところが・・・1年経ち、2年経つ内に、変化の乏しい常夏の気候に物足りなさを感じるようになった。鮮烈な色合いや強烈な味わいにも、同じように物足りなさを感じるようになった。感覚がマヒしたわけではない。不思議なもので、日本人は、移ろう季節を皮膚感覚で(つまり目や耳や鼻や肌で)愛でたいのである。桜の花びらのような仄かな色合いを、桃や柿のようなそこはかとない味わいを、こよなく愛するのである。トヨタのカイゼンDNAを育んだのは、こうした微かな変化をも感得する日本人の感性の繊細さにあるのではないかとさえ思った。
そんな日本が、熱帯化しつつあるのを感じる。既に、熱帯の果物が栽培されているし、魚の漁獲も変わりつつあるようだ。ゲリラ豪雨のような激しさは、かつての日本では見られなかったことだが、最近は夕立と言うよりスコール的なものを感じる。打ち水をして涼を求めた日本の夏を、風鈴を、蚊取り線香を懐かしむが、もはや取り返せない日本の原風景なのだろうか。
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