風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

第89回箱根駅伝

2013-01-05 00:15:40 | スポーツ・芸能好き
 今年もまた正月恒例の箱根駅伝を見るとはなしに見てしまいました。
 一般に、出雲駅伝、全日本大学駅伝と併せて「大学三大駅伝」と呼ばれますが、箱根駅伝だけが関東学生陸連が主催する地方大会であり、10位以内に入ると出雲駅伝(同年体育の日開催)に、3位以内に入ると全日本大学駅伝(同年11月第1日曜日開催)に、それぞれ関東代表として出場できるという特典付きです(とは以前もブログに書きました)。しかし駅伝の全国大会ではだいたい関東の大学が上位を占めるため(実際に関西の大学は、出雲駅伝で鹿児島の大学が12位、全日本大学駅伝では立命館の13位が最高でした)、実質的には全国大会と言ってよく、むしろシーズンのトリを飾る箱根駅伝は知名度が高いために各校が照準を合わせて来ますし、出雲駅伝が6区間44.5キロ、全日本大学駅伝が8区間106.8キロなのに対して、同じ駅伝とは言え箱根駅伝は10区間218キロと距離が格段に長く(とりわけマラソン好きの日本人には)違った楽しみがあり、正月、バラエティの特番続きで辟易している時に、恰好の逃げ場、あるいは一服の清涼剤になっていると言えましょう。日本テレビ系で放送された2日間の平均視聴率(関東地区)は、番組歴代3位の28.5%を記録したそうです(ビデオリサーチ調べ)。
 レースは、日体大が30年ぶり10度目の総合優勝を果たしました。下馬評では、東洋大と駒大の「2強対決」、あるいはそれに、半歩遅れる早稲田、明治と、一歩遅れる青学、日体大を加えた「2強+4」の展開が予想されていました(特別協賛のサッポロビールが配っていた観戦ガイドなど)が、レースは蓋を開けて見ないと分かりません。日体大は、昨年、創部以来のワースト記録となる19位に終わってシード権を逃し予選会から出場せざるを得なかった上、昨年の復路で繰り上げスタートとなって襷を守れなかった屈辱から、4年生ではなく3年生を主将に抜擢して喝を入れ(更に言うと当初はチームがぎくしゃくしましたが最終的に4年生が主将を盛り立てて)、どん底から這い上がって来た・・・というような美談がまたぞろ報じられていました。
 確かに、駅伝は、走る区間によって高低差や風の強弱など環境の違いがあって人によってその状況によって向き不向きがあるでしょうし、トラックを一斉に走るのではなく襷を繋いでいくわけで、順位やその時々の競争環境によって実力を発揮しづらいことも実力以上のこともあるでしょうから、トラックの記録もさることながら、メンタルな部分も大きいだろうことは想像されます。実力6割、その日のコンディション2割、運2割とは、私がよく引用する張本勲さんの名言ですが、駅伝にも応用できるとすれば、まさに実力以外の4割の部分ですね。悔しさをバネに・・・というのは、実力以上を発揮する原動力たり得ることでしょう。しかし、精神論はともかく、冷静に振り返って見ると、コース攻略、とりわけ最長の23.4キロで864メートルの高低差を駆け上がる「上りの5区」をどう乗り切るかが大きなポイントだったように思います。
 昨年までの4年間、5区で圧倒的な強さを見せた「新・山の神」柏原竜二を擁した東洋大が3度の総合優勝を手にしたことが記憶に新しいように、今年も5区で区間賞を獲り最優秀選手(金栗杯)にも選ばれた日体大・服部翔大の、風速18メートルをものともせず、重心低くピッチ走法で駆け抜けた走りは圧巻でした。昨年の大会終了後、ゴール地点の大手町で主将と5区に指名されたそうですが、必ずしも5区の走者20名のハーフマラソン記録で特別秀でているわけでもない平均的な彼が2位以下に2分以上の差をつけてぶっち切ったのは、一年間の成果なのか、上りのあるいは強風の相性なのか、メンタルなのか。かたや今年の東洋大は、5区だけで首位の日体大に4分半もの差をつけられてしまいました。
 日体大の優勝に関しては、区間賞こそ5区の服部のみでしたが、全員が区間7位内と大きく崩れることなく安定していた上に、監督に「4年生のおかげで勝った」と言わせたかったという4年生3人が7・8・10区で区間2位の好走を見せ(9区の3年生も区間2位)、リードを守るどころか広げたことが大きかったように思います。他方、ライバル校は、例えば早稲田と青学は出だしの1区で17位、18位とそれぞれ出遅れて、区間首位・東洋大からいきなり2分以上のハンディを負ったのは誤算だったでしょうし、駒大は風邪のため欠場した主将に代わって控えが出場した4区が区間19位と失速し、明治は9・10区で18位・17位と失速したのも誤算だったことでしょう。そのほか優勝候補ではなかったものの、城西大と中央大は5区で低体温症と脱水症状を起こし途中棄権しました。さぞや悔しい思い、仲間に対して申し訳ない思いで打ちひしがれていることと思います。私も高校生活最後となる田舎の駅伝大会で不本意な走りしか出来ず、悔し涙に暮れました。私の場合はちっぽけなドラマですが、箱根駅伝参加選手それぞれにドラマがあり、そのドラマをメディアが傍から盛り上げるのは余計なお世話です。高校野球のようにきれいごとばかりではないでしょうが、プロでもない彼らが1キロ3分を切るようなハイペースで20キロ前後を走るだけの肉体を鍛え上げ、当日までコンディションを整えるのは、オリンピックのように出場することに価値があります(因みに部員数は、長距離陣(駅伝部員)だけでも、最少の大東文化大で36人、最大の東洋大は63人を数えますが、数ばかりでなく全国から逸材が集まる中で、選ばれたわけです)。出場出来た人も出来なかった人も、素直に健闘を称えたいと思います。
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リーダーシップ(前)

2013-01-03 23:47:52 | ビジネスパーソンとして
 新年が明けました。
 年頭のブログなので、我が身や我が社ひいては我が国に共通する課題・・・課題というのはその時々の関心のありようによりますので、今の思いをつらつら描いてみたいと思います。
 昨年、読んだ本の中で印象に残るものの一つに「特攻の思想 大西瀧次郎伝」(草柳大蔵著)があります。1972年に刊行されたものの復刻で、BOOK OFFで見つけました。余談ですが、BOOK OFFというのは、このように興味があったことが記憶の彼方にあるような本に出会える宝探しの楽しみがあり、最近は新刊で余程興味があるもの以外はBOOK OFFに出向いて探すようになりました。
 さて、平和ボケした現代の私たちには想像もつかない「特攻」では、昭和19年10月25日から敗戦の日まで、2367機が出撃し2530名もの若者が海の藻屑と消えました。あらためて、ただの思いつきではない、制度的に継続して行われていた事態に驚かされるとともに、苦々しく思いながらも、誰も止められなかった、その時代状況の異常さを思います。その「特攻」の産みの親と言われる大西瀧次郎・海軍中将は、自ら書き物を残さないまま、敗戦の翌日、自決したため、その思いは関係者の証言からしか推し量ることが出来ませんが、その本人すらも、ある時、猪口先任参謀に向かって「特攻なんてものは、こりゃ、統率の外道だよ」と呟いたと言われます。日露戦争以来の大艦巨砲主義に批判的で、艦隊決戦から航空決戦に向かう時代の流れを誰よりも早く読んでいたのは、山本五十六と大西瀧次郎というのが定説で、中でも大西中将は海軍航空隊育ての親と言われるほどの飛行機通、航空戦力の専門家でした。それでもなお源田実氏(大日本帝国海軍の航空参謀であり大佐、自衛隊では初代航空総隊司令、第三代航空幕僚長を務め、ブルーインパルスを創設)をして、大西の立場に立たされれば、山本五十六も山口多聞も同じことをやったろうし、彼ら自身が特攻機に乗って出撃したであろう、それが海軍軍人である、と言わしめました。
 今は特攻とは何だったかということに余り深入りするつもりはありませんが、本書で触れている、特攻の背景をなす考え方を記しておきたいと思います。戦争末期には、航空機生産力や整備力(の標準化)やガソリンのオクタン価でもアメリカに比べて圧倒的劣位にあり、制空権を失って久しく、大半の歴戦のパイロットを失って、育てる時間が十分ではない(初期の空中戦で活躍したパイロットは2000時間以上の経験があったそうですが、最後は十分の一程度にまで減っていたそうです)練度の低い若者を戦地に赴かせても、ただなすすべもなく撃ち落されるだけの状況は、軍人として本人たちもいたたまれまい。特攻はいわば死地を与えるものだったという、若者を思う気持ちが一つ。それから、ここで若者が起たなければ日本は滅ぶ、しかし若者が国難に殉じて如何に戦ったかという歴史を記憶する限り、日本と日本人は滅びない、とする国を思う気持ちがもう一つ。
 こうした考え方自体は、必ずしも理解できなくもないところが、極めて日本的な心性と言えましょうが、だからと言って特攻が正当化できるわけではありません。こうした特攻を含めて、大日本帝国軍人はよく戦いましたし、軍人以外の日本人はよく耐え忍びました。このように欧米人(などと一括りにするのは申し訳ないですが)一般に見られる以上に「頑張ること」自体は美徳には違いありませんが、誤解を恐れずに言うならば、場合によっては諦めが悪いばかりに局面打開の決断を遅らせる悪徳にもなり得るものだと思います。例えば硫黄島の戦いは、日本軍の守備兵力の戦死あるいは戦闘中の行方不明20,129名を、米軍の攻略部隊の戦死(6,821名)と戦傷(21,865名)を合わせた損害実数(28,686名)が上回るという稀に見る激戦で、日本軍の驚異的な粘りは米軍の心胆を寒からしめ、その記憶があるばかりに、本土決戦にでもなった暁には米軍側の被害は甚大なものになることを恐れて原爆投下に至ったなどというまことしやかな言い訳をされることにもなりました。
 後知恵ではありますが、それぞれの立場において、日本人は「頑張り過ぎた」のではないか。これは所謂現場力の発揮ということですね。そして現場力をよしとして必ずしも自己評価が高くないのがリーダーシップで、上位にあって現場を総覧し、現場力を超越し得るはずのものですが、日本においてはなかなか育たない、そのため適切に発揮されない恨みがあります。近いところでは東日本大震災が思い出されます。秩序を保ちつつ忍耐強く働く現場力は世界中から絶賛されましたが、日本政府のリーダーシップ欠如は非難の的になりました。長くなりましたので、続きはまた別途。
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