コロナ6年2月17日(ウクライナ、ロシア戦争4年)
田中秀樹は50代半ばの会社員だった。定年を控え、老後の生活設計を始めていた彼は、日々の家計をきちんと把握しようと、毎月の支出を細かくチェックするようになっていた。
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ある冬の夜、秀樹は食卓に広げた請求書の山を眺めながら眉をひそめた。
「なあ、美代子。うちの電気代、去年の同じ月より高くないか?使用量はそんなに変わっていないのに」
妻の美代子は夕食の後片付けをしながら首を傾げた。
「そうかしら?暖房を使う時期だから高くなるのは当然よ」
「いや、それを考慮しても高い気がする。使用量はむしろ去年より減ってるんだよ」
秀樹は電気料金の明細を細かく見始めた。基本料金、従量料金…そして目に留まったのは「再エネ発電促進賦課金」という項目だった。
次の日の昼休み、秀樹は会社の同僚、若手の佐藤と老舗の定食屋で食事をしていた。
「佐藤くん、君は電気代の明細ってよく見る?」
「えっ?あまり見ないですね。自動引き落としですし」
「再エネ発電促進賦課金って知ってるか?」
佐藤は箸を止めた。「聞いたことはありますが…何か問題でも?」
「昨日、去年と比べたらこの賦課金が随分上がってるんだよ。何年か前から少しずつ上がってきているようだ」
「へえ、知りませんでした…」
秀樹は懐からスマートフォンを取り出し、調べた情報を佐藤に見せた。
「これ見てごらん。再エネ賦課金は2012年に始まったとき、家庭の標準使用量で月に数十円だったのが、今は月に800円を超えているんだ。しかも毎年上がり続けている」
「そんなに上がってるんですか!」佐藤は驚いて目を丸くした。
「しかも、この賦課金は私たち消費者が再生可能エネルギーの普及のために負担している実質的な税金なんだよ。直接的な税金じゃないから、増税と言われないだけで」
その週末、秀樹は地域の公民館で開かれた「老後の家計管理」というセミナーに参加した。講師は元銀行員の財務アドバイザー、森山さんだった。
質疑応答の時間に、秀樹は手を挙げた。
「再生可能エネルギー発電促進賦課金について質問があります。これは実質的に税金のようなものではないですか?しかも年々上がり続けていて…」
森山氏はうなずいた。「鋭い指摘ですね。これは典型的なステルス増税と言われるものです。直接増税と言わなくても、実質的に国民負担が増えるケースです」
会場からざわめきが起こった。
「電気料金だけでなく、似たようなケースは多くあります」と森山氏は続けた。「例えば、健康保険の自己負担増加や、各種控除の縮小なども同様です。税率そのものは変わらなくても、実質的な負担は増えているんです」
帰宅した秀樹は、パソコンに向かい、ブログを書き始めた。「見えない増税—ステルス増税について考える」というタイトルで、自分の発見したことを詳しく書いた。
翌週、そのブログは思いがけず拡散され、地元メディアの目に留まった。
地元テレビ局の記者が秀樹に取材をしたいと連絡してきた時、秀樹は驚いた。
「田中さん、あなたのブログは多くの人が同じ疑問を持っていたことを示しています。特に年金生活者の方々にとって、こうした少しずつの負担増は大きな問題です」
取材当日、秀樹は緊張しながらも、電気料金明細を片手に、どのように賦課金が増えてきたかを説明した。
「私たちが問題にしているのは、再生可能エネルギーが重要ではないということではありません。問題は、こうした負担増が分かりにくい形で進められていることです。私たち消費者にとって、情報が透明でないことが問題なんです」
その報道をきっかけに、秀樹の住む地域では「家計における隠れたコスト」を話し合う市民グループが形成された。老後の生活を不安に思う多くの人々が参加した。
秀樹は最初の集会で静かに語りかけた。
「私たちが望むのは、ただ透明性です。増税するならそれを明確に示してほしい。私たちは理性的な判断ができる市民です。何かを隠されたまま負担だけが増えていくことに不安を感じているんです」
数か月後、彼らの活動は国会議員の目にも留まり、エネルギー政策における情報公開の拡充が議論されるようになった。
秀樹は夕食時に美代子に言った。
「まさか電気料金の明細をきっかけに、こんなことになるとは思わなかったよ」
美代子は穏やかな笑顔で応えた。
「でも秀樹、あなたのおかげで多くの人が気づいたのよ。明細書の小さな謎が、大きな変化につながることもあるのね」
窓の外では、冬の夕暮れが静かに訪れていた。秀樹は再び電気料金の明細を見つめた。小さな数字の変化に隠された大きな社会の仕組みを知った今、彼は老後の家計管理だけでなく、社会のあり方についても考えるようになっていた。
(完)