短編小説を書いてみました。まだまだ、よちよち歩きの私ですが、いかがでしょうか、感想等いただければ幸いです。表紙ももうちょっと現代的に工夫する余地は充分あると思いますが、今回はオーソドックスになりました。徐々に電子書籍にしていきたいと思っておりますので、もちょっと良い表紙が作れるように腕をあげて行きたいと思います。まだまだ、トライ&エラーしていく必要があるかなと思ってます。
春の柔らかな日差しが、佐藤清の部屋に差し込んでいた。78歳になる清は、窓辺の椅子に座り、庭に咲く桜を眺めていた。その手には一枚の写真があった。40年前、初めて運転免許を取得した時の記念写真だ。若い頃は農業で生計を立てていた清にとって、車の運転は必要に迫られてのことだった。
部屋の壁には、清の人生を物語る写真が何枚も飾られていた。若かりし頃に購入した最初の軽トラック、家族での初めての旅行、長男の誕生、農場の拡大時の様子、そして苦難の時期を乗り越えた時の笑顔。人生の起伏が写真の中に刻まれていた。
「おじいちゃん、何見てるの?」
孫の優子が部屋に入ってきた。大学生になった優子は、今日、初めての運転免許の実技試験を受けるという。彼女の表情には、期待と不安が入り混じっていた。
「ああ、これか。おじいちゃんが免許を取った時の写真だよ」
清は写真を優子に見せた。写真の中の清は、今より遥かに若く、誇らしげに免許証を掲げていた。
「へえ、若いね。おじいちゃんも昔は緊張したの?」
優子の質問に、清は静かに微笑んだ。
「ああ、特に高速道路に初めて出た時はな。あの時のことは今でもよく覚えているよ。人生の岐路に立った瞬間って、不思議と鮮明に記憶に残るものなんだ」
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清が初めて高速道路に乗ったのは、免許を取得してから一週間後のことだった。市場に野菜を運ぶため、勇気を出して高速道路に挑戦したのだ。
「大丈夫ですか、清さん?」助手席に座る妻の幸子が心配そうに尋ねた。
「ああ、平気だ」
そう答えたものの、清の額には冷や汗が浮かんでいた。高速道路に入るとすぐに、大型トラックが彼の軽トラックを追い越していった。トラックの巨大なタイヤが目の前を通り過ぎる様子に、清は恐怖を覚えた。バスやトラックがひっきりなしに通り過ぎていく。それらの車が近づくたびに、清はハンドルを強く握りしめた。
「近すぎる…」
大型車のタイヤが見えるほど近くを通るたび、清はヒヤヒヤした。隣を走る車に気を取られ、自分の車線を真っ直ぐ保つことすら難しかった。
「もう二度と高速道路なんか乗らない」
その日、清は疲れ果てて家に帰った。
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「それで、もう乗らなかったの?」優子は好奇心に満ちた目で尋ねた。
清は頭を振った。
「いや、農業を続ける限り、市場へ行くには高速道路を使うのが一番だった。だから嫌でも乗らなきゃならなかったんだ」
「どうやって怖さを克服したの?」
「それがね、ある日気づいたんだ」
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清が高速道路の恐怖を克服したのは、ある日の夕暮れ時だった。いつものように緊張しながら運転していると、夕陽が高速道路の彼方に沈みかけていた。その美しさに見とれた清は、ふと気がついた。近くを走る車に気を取られるのではなく、遠くを見ながら運転すると、車はまっすぐ進むということに。
それからは意識して遠くを見るようにした。近くのトラックやバスではなく、道路の先、地平線を見つめるようにしたのだ。すると不思議なことに、車は自然とまっすぐに進むようになった。以前のような怖さも感じなくなっていった。
「近くのものばかり見ていると、かえって道を外れてしまう。遠くを見れば、自然と真っ直ぐに進める」
清はそう気づいた。それは彼の人生を変える瞬間だった。
ある日、遠方に住む友人を訪ねる旅で、清は初めて峠道を運転することになった。急なカーブが連続する山道は、高速道路とはまた違った恐怖があった。最初は緊張で手に汗をかき、カーブごとにブレーキを踏みすぎて、後ろの車に迷惑をかけていた。
「こんなことなら、電車で来ればよかった」と後悔していた時、清は道の脇にある休憩所に車を停めた。深呼吸をして景色を眺めると、山々が連なる美しい光景が広がっていた。
その時、道路工事をしていた年配の作業員が声をかけてきた。
「峠道は怖いですか?」
「ええ、カーブが怖くて…」
作業員は微笑んだ。
「カーブを一つ一つ怖がっていたら、永遠に山は越えられません。次のカーブの先を見て運転することです。そうすれば、自然とハンドルが切れるようになる」
清はその言葉に従い、再び運転を始めた。今度は一つ一つのカーブではなく、道の先を見据えるようにした。すると不思議なことに、体が自然とカーブに合わせてハンドルを切るようになった。
「人生のカーブも同じかもしれないな」と清は思った。
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「それからは運転が好きになったんだ」
清は優子に語り続けた。
「でもね、おじいちゃんが本当に大切なことに気づいたのは、もっと後のことだよ」
優子は好奇心いっぱいの表情で清を見つめた。
「何に気づいたの?」
「人生も運転と同じだってことさ。でもな、人生はただまっすぐ進むだけじゃない。時には後退することもある。スパイラルのように進んでいくんだよ」
清は窓の外を指さした。庭の隅には、螺旋状に伸びる朝顔が咲いていた。
「あの朝顔を見てみろ。まっすぐ上には伸びてないだろう?螺旋を描きながら成長している。人生もそれと同じなんだ」
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清の人生は決して平坦ではなかった。50代の頃、彼は大きな挫折を経験した。長年育ててきた特産品の野菜が病気で全滅し、借金を抱えることになったのだ。周囲からは農業を諦めるよう言われた。債務整理の話も出た。毎日のように届く督促状に、清は頭を抱えた。
「どうしたらいいんだ…」
目の前の問題に押しつぶされそうになっていた時、清は高速道路での経験を思い出した。近くのことばかりに気を取られていると、本当の道を見失ってしまう。
清は立ち止まり、遠くを見ることにした。今の苦境ではなく、5年後、10年後の自分の姿を想像した。しかし、その道のりは決してまっすぐではなかった。
最初の決断は、有機農法への転換だった。しかし、その道は想像以上に険しかった。
有機農法への転換を始めて半年、清は深刻な事態に直面した。新しい農法に不慣れなため、収穫量が激減したのだ。さらに悪いことに、新たな害虫が発生し、せっかく育てていた作物の多くが被害を受けた。借金は増える一方で、家族からも「もう諦めたら」という声が上がった。
清は一時、すべてを投げ出したくなった。「一歩進んで二歩下がる」どころか、「一歩進んで三歩も四歩も下がっている」ように感じた。
そんな絶望的な夜、清は古い納屋の片隅で一冊の日記を見つけた。祖父の日記だった。戦後の混乱期、甚大な被害を受けた農地を再生させるまでの記録が綴られていた。祖父は何度も失敗し、周囲からは「無理だ」と言われながらも、諦めずに続けた結果、最終的に豊かな農地を子孫に残したのだった。
日記の最後のページには、こう書かれていた。
「農業は自然との対話だ。時に自然は我々を打ちのめすが、それは我々に何かを教えるためだ。一歩下がることを恐れるな。それは次の二歩の跳躍のための準備かもしれない」
祖父の言葉に勇気づけられた清は、翌日から新たな気持ちで農場に向き合うことを決めた。
ある雨の日、清は田んぼの様子を見に行った。雨に打たれる苗を見ながら、彼は不思議な光景に気づいた。雨粒が落ちる度に、苗は一度は折れ曲がるが、その後すぐに起き上がり、以前より少し高く伸びていたのだ。
「植物は、嵐に耐えるために一度は折れ曲がる。でも、それによって根はより深く張り、茎はより強く成長する」
清はその瞬間、重要なことに気づいた。後退は必ずしも失敗ではない。時には一歩下がることで、二歩、三歩と前進するための力を蓄えることができるのだ。
彼は新たな決断をした。一時的に規模を縮小し、有機農法を徹底的に学び直すことにした。農業大学の夜間講座に通い、先進的な農家を訪ねて研修を受けた。一度は諦めかけた農地の一部を休ませ、土壌の回復に専念した。
それは一見すると後退のように見えた。収入は減り、借金返済のペースも遅くなった。しかし清は、この「一歩後退」が将来の「二歩前進」につながると信じていた。
その決断から数ヶ月後、清は衝撃的な出来事に遭遇した。隣町の大規模農場が農薬問題で大きなスキャンダルに巻き込まれたのだ。化学農薬の過剰使用による健康被害が報告され、その農場の作物は市場から撤去される事態となった。
清は自分の直感が正しかったと感じた。短期的な利益を追求するあまり、持続可能性を無視した農業の危険性を目の当たりにしたのだ。有機農法への転換は、一見すると非効率に見えても、長い目で見れば正しい選択だったのかもしれない。
その頃、清の農場にある変化が起きていた。休ませていた土地には多様な昆虫や小動物が戻ってきており、彼らが自然な生態系を形成し始めていたのだ。特に、天敵となる益虫の増加によって害虫の被害が自然と減少していった。
「自然は自ら癒す力を持っている」と清は悟った。人間がコントロールしようとするのではなく、自然のリズムに合わせることの重要性を実感したのだ。
そして3年後、その信念は実を結び始めた。休ませていた土地は驚くほど肥沃になり、新たに植えた作物は病害虫にも強く、質の高い収穫をもたらした。有機栽培の技術も向上し、収穫量は従来の農法時代を上回るようになった。
ある日、地元のスーパーマーケットのバイヤーが清の農場を訪れた。「最近、安全な食品を求めるお客様が増えています。佐藤さんの野菜を特別コーナーで販売したいのですが」という申し出だった。
これをきっかけに、清の野菜は「佐藤さんの奇跡の野菜」と呼ばれ、市場で高値で取引されるようになった。一時的な後退が、予想もしなかった前進をもたらしたのだ。
「後退は、より大きく跳ぶための踏み出し」と清は悟った。
清の体験は地域の農家たちにも影響を与えた。最初は「無謀だ」と笑っていた近隣の農家たちも、清の成功を目の当たりにして、少しずつ有機農法に関心を示すようになった。清は喜んで自分の知識と経験を共有した。
「一人が変われば、周りも変わる。それがスパイラルのように広がっていく」
清は、自分一人の成功ではなく、地域全体の持続可能な農業への転換という大きな目標に向かって進み始めていた。それはまさに、個人の小さな変化が社会全体の大きな変化につながるという、スパイラル的な進化の象徴だった。
借金返済も順調に進み、さらに7年後、清の農場は見事に復活を遂げた。有機農法による高品質な野菜は全国的な評判となり、借金も完済できた。一時は「無謀な挑戦」と言われた有機農法への転換は、結果的に清の人生を豊かにしただけでなく、彼の住む地域の農業のあり方さえも変えたのだ。
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「人生も運転と同じなんだよ。目の前の小さなことに気を取られていると、本当に大切なものが見えなくなる。遠くを見つめていれば、自然と進むべき道がわかる。でもな、人生はまっすぐじゃないんだ。一歩後退して二歩前進する。螺旋階段のように上っていくものなんだよ」
「でも、後退するのって怖いよね」と優子は正直に言った。「失敗するのが怖いし、みんなに笑われるのも嫌だし...」
清は微笑んだ。「そうだな。怖いものだ。おじいちゃんも怖かった。でも、知ってるか?動物の世界を見てみると、多くの動物は跳躍する前に、必ず一度しゃがみ込むんだ」
「しゃがみ込む?」
「ああ。猫や犬が高いところに飛び乗る前、まず後ろ足に体重をかけて、一度下がるだろう?あれは次の大きな跳躍のためのエネルギーを蓄えているんだ。人間のランナーだって、スタートダッシュの前には少し身体を後ろに引くだろう」
清は立ち上がり、窓際に歩み寄った。「自然の中には、この『引くことで前に進む』という知恵が満ちているんだよ」
「波も同じだ。海岸に打ち寄せる前に、必ず一度引くだろう。その引く力が次の波の力になる。潮の満ち引きも、月の引力と地球のバランスで起こる自然のリズムだ」
優子は真剣な表情で清の話に聞き入っていた。「本能的に理解できる気がする」と彼女はつぶやいた。
「大学で何を専攻するか迷っているって言ってたよね?」
優子は驚いた顔をした。「どうして知ってるの?」
「お母さんから聞いたよ。やりたいことがたくさんあって迷っているんだろう?」
優子はうなずいた。「医学部に行きたいけど、環境科学にも興味があるの。でも医学部は浪人したら時間の無駄だし、環境科学だけじゃ収入が不安で…どっちにすべきか全然わからなくて」
清は窓の外を指差した。「あの蜘蛛の巣を見てごらん」
木の枝の間に、朝露に濡れた蜘蛛の巣が輝いていた。複雑な幾何学模様を描きながらも、完璧なバランスを保っている。
「蜘蛛は巣を作るとき、まず一本の糸を風に乗せて飛ばすんだ。その糸がどこかに引っかかるまで、何度も何度も挑戦する。一度引っかかれば、その糸を基点に、少しずつ巣を広げていく。最初の一本が通らなければ、巣全体は作れない」
清は優子の目をまっすぐ見つめた。「大切なのは、最初の一歩を踏み出す勇気だ。その一歩がどこに続くかは、歩いてみなければわからない。でも、一歩踏み出せば、次の道が見えてくる」
「蜘蛛の巣のように、人生も一本の糸から始まって、徐々に広がっていくんだね」と優子は言った。
「そうだ。そして面白いことに、蜘蛛の巣は螺旋状に作られているだろう?中心から外へ、外から中へ。まっすぐではなく、円を描きながら広がっていく。それでいて、すべての糸はつながっている」
清は続けた。「今、環境科学を選んだとしても、それは医学への道を永遠に閉ざすわけじゃない。むしろ、一見遠回りに見えても、環境と医学を結びつける新しい道が見つかるかもしれない。蜘蛛が巣を作るように、一本の糸から始めて、徐々に自分の世界を広げていけばいい」
優子は考え込むように窓の外を見つめた。
「おじいちゃんの若い頃に比べたら、今の世の中はもっと複雑で、選択肢も多くて、プレッシャーも大きいと思うよ」と清は続けた。「だからこそ、目の前のことだけじゃなく、遠くを見る勇気が必要なんだ」
「でも、どうやって正しい選択をすればいいの?」
清は静かに笑った。「ミツバチの話を知っているかい?」
優子は首を傾げた。
「ミツバチは花から花へと飛び回りながら、蜜を集めていく。ときには、蜜の少ない花にも立ち寄る。一見すると非効率に見えるだろう。でも実は、その『無駄』な動きこそが、花粉を運び、自然の循環を支えているんだ」
清は優子の肩に手を置いた。「人生でも同じことが言える。回り道や寄り道が、実は思わぬ出会いや発見をもたらすことがある。完璧な選択なんてないんだよ。大切なのは、どんな選択をしても、そこから学び、成長する心構えを持つこと。それが人生のスパイラルを上昇させる力になる」
清はポケットから小さな羅針盤を取り出した。若い頃に使っていたものだ。
「これをあげよう。道に迷ったときは、この羅針盤のように自分の内なる声に耳を傾けるんだ。羅針盤の針は、いったん揺れても、最後は必ず北を指す。それと同じように、君の心も、揺れることがあっても、最後は君が本当に進むべき方向を教えてくれる」
優子は目に涙を浮かべながら羅針盤を受け取った。「でも、おじいちゃんの大切なものを...」
「大丈夫さ。この羅針盤は、もう十分におじいちゃんを導いてくれた。これからは君の番だ」
「ありがとう、おじいちゃん。試験、頑張ってくる」
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その日の夕方、優子は晴れやかな顔で帰ってきた。
「合格したよ、おじいちゃん!」
清は嬉しそうに優子を抱きしめた。
「緊張しなかった?」
「ちょっとだけ。でも怖くなった時、おじいちゃんの言葉を思い出したんだ。近くじゃなく、遠くを見るって。そしたら不思議と落ち着いて、自然と体が動いたの」
優子は続けた。「それに決めたよ、将来のこと。環境医学という新しい分野があるって調べたの。環境と健康の関係を研究する学問なんだ。最初は環境科学を専攻して、その後医学の大学院に進むつもりよ」
「長い道のりになりそうだね」と清は言った。
「うん。でも、おじいちゃんが言ったように、一見遠回りに見えても、それが私の道なら構わないの。蜘蛛の巣のように、一本の糸から始めて、少しずつ広げていくつもり」
清の目に涙が浮かんだ。優子は一見遠回りに見える道を選んだが、それは彼女らしい、独自の道だった。
「一歩後退して、二歩前進ね」優子は微笑んだ。「結局は前に進んでいるんだもの」
その夜、清は久しぶりに車を運転した。優子を隣に乗せて、高速道路に乗り、遠くに見える街の灯りを見つめながら、彼は思った。
人生も運転も、結局は同じこと。遠くを見つめながら進み、時には立ち止まり、時には回り道をしても、自分の信じる道を歩み続けることが、最も豊かな人生をもたらすのだと。
優子が窓から見える田園風景を眺めながら、ふと言った。
「おじいちゃん、ほら、あそこを見て」
夕日に照らされた田んぼの向こうに、螺旋状に伸びる一本の道が見えた。その道は丘を登り、遠くの地平線へと続いていた。まるで人生の道のように。
「あの道、どこに続いているんだろう」と優子は尋ねた。
清は微笑んだ。「それは、歩いてみないとわからない。でも、きっと素晴らしい景色が待っているよ」
車はゆっくりと螺旋状の道に向かって走り始めた。優子は羅針盤を握りしめながら、遠くの地平線を見つめていた。
(終)