想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

運命は変えられないが、想いは自由

2022年08月12日 | エッセイ
コロナ3年8月12日(ウクライナ元年)
 オギャーと生まれてこの方、75年を無事ここまで生きて来ました。感謝感謝と畏敬の念の毎日です。
    困った時の神頼みという言葉がありますが、それは、私が嫌う言葉です。そんな自己中な願いが叶うはずもありません。自分の想いでやっているつもりでも、長いスパンでとらえれば、結果的にはお釈迦様の手のひらで遊ばされているのです。実は途轍もない大きな力によって生かされているのが見えないだけです。赤い糸は恋の世界だけのお話ですが、我々が生活する世界はもっと崇高な世界から見えない糸で操られているのです。通常はなかなかこのことに気付けないのも人間です。
 困った時の神頼みのように、自分の想いだけで、そんな身勝手なことが出来ることでもないのです。だから、畏敬の念を捧げても、〇〇してくださいとお願いはできないのです。だから、彼には感謝と畏敬の念しか表しようがないのです。
 仮にお願いして一時的にせよ、自分の欲求が通ったとしても、それは刹那のものであり、やがて、それはあるべき所に落ち着いてゆくのです。ペンキもいつかわ剥がれて行くのです。形あるものはいつかはこわれるのです。まさに諸行は無常であり、とどまりたるためしなしです。
 じゃんけんの勝ち負けも回数が少ないうちは強い弱いがあるでしょう。しかし、それも、回数を重ねれば重ねるほどに必ず勝ち負けの確率は確実に1/2に限りなく近づいてゆきます。火山の噴火も同じです。圧縮、爆発の後はまた、もとの静かな状態に戻ります。
 人生は自分で生きていいるようでいて大きく捉えれば、結果生かされているのです。小さなエゴと大きな偉大な力の間で大きな力に引き寄せられていくのです。それが定めであり運命でもあるのです。よく考えれば大きな力に見守られているといってもいいと想います。
 では、個人の尊厳は個人の自由はないのではといわれるかもしれません。そんな事はありません。その大きな力の中で自由に羽を伸ばせばいいのです。そして、その大きな力に後は任せればいいのです。後は大きな力に感謝し畏敬の念を持って尽くせばいいのです。それで、人の心は落ち着くものです。「人智を尽くして天命を待つ」まさにそれです。人智を尽くすのが個人の自由さや意思であり、天命を待つのが運命です。大きな力は物理でいえば自然の摂理であり宗教的に言えば信仰でもあり、神様でもあるのです。
 だから、個人は大きな力から与えられた自分という自らの分け前でもあり、かけがえのない個人でもあります。そう考えると、必然的に個人の自由とは大きな意思の範囲内での自由になります。その範囲内で自己は成長の伸びしろを広げてゆけばいいのです。その範囲内で想う存分自分を発揮させればいいのです。それが個を活かす事であり、そのように設計されてこの世に誕生していいるのです。個人の尊厳とはそのことなのです。
 最初から神様が決めてくれた人生だからと他力になるのでなく、自分で切り開くのが人生だけど、大きくはお釈迦様の掌で行動しているんだという謙虚さも大切です。
 だから、私はいつも神社やお墓で手を合わせる時、そんな気持ちで合掌礼拝をしています。そうすると、自ずと、謙虚な自分と大きな力が見えてきます。成るべくして成っている今の自分が浮かんでくるのです。自分で生きているようでこの世は結果生かされているのだなという気持ちです。
 そんなことは私は信じないという人もあるでしょう。それはエゴでそう言っているだけであって根本は人間である限り、その手のひらからは逃れられないのです。それが見えるか見えないかの問題なのです。それは、肉体と精神のバランスの問題であり、肉体>精神の状態がそうしているのです。仏教ではそれを欲とか煩悩だとか言っています。
 そんな時、いつも浮かんで来る言葉があります。それは亡き父の「幸せは東にも西にも北にもない、南(皆身)にある」と、いう言葉です。酒好きで、意思の弱い父が生前いつも言っていました。
 そんな父でも、酒が覚め朝になると、毎日仏壇に向かって般若心経を唱えているのです。摩訶不思議といえば不思議です。幼少期はそんな父を毎日見て育ってきました。
 そんな父でしたが、駅で弁当の売り子をやっていた時期もあったようです。また、家具職人でもあった父は、若い頃、単身、家具道具を持って、ふるさと浜松から京都へ向かいそこで働いたこともあるようです。
 偶然といえば偶然ですが、私も3か月会社員として、京都に勤務したことがありました。また、亡き兄も、数年、染色デザイナーとして京都にいたことがありました。今思えば、京都と何かと縁があったのでしょう。不思議な縁です。裏で大きな力が働いていたのでしょうか。
 さて、話は変わって、どんな状況になっても、幸せは皆身、すなわち我が心に中にあるのです。それを他に求めてはいけませんという事です。幸せは他に求めるのでなく自分で切り開き創り出していくものなんです。
 自分で自分の心はどうにも変えることはできるのです。不幸と想えば不幸になるし幸せだと想えば幸せになります。それが精神という可塑性なのです。今流にいえばフレキシブルに対応ができのるのが、質量も形も持たない心(たましい、霊魂)でもあるのです。
 現世に生きているという事はこの肉体と心が一緒になって存在しているということです。現世では肉体が邪魔をして心を支配している状態が色々な問題を起こしています。肉体>精神の状態です。これを肉体=精神のバランス状態に持っていくことが大切です。
 また、老いて行くにしたがって肉体は劣化していくわけですので、肉体<精神の状態に持っていくのが老後の素直な生き方かなと想います。形あるものはいつか滅びゆくのですが、反面、精神は歳を重ねても。磨けば磨く程輝いていくのです。その輝いた、いい遺伝子を肉体に刻み、次世代の残すのが我々世代の役目です。
 そして、それはやがてまた、新しい物に生まれかわり諸行無常に変化してゆくのがこの世です。生物は一世代を終わるとその現実を生きた遺伝子に残して次世代へと繋げていくのです。ですから、できるだけ、いい遺伝子を残すように現世のエネルギーをそこに注ぐべきです。


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