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刻たばこ、葉巻、紙巻きたばこが混在した時代

2007年09月06日 | 小説・映画等に出てくる「たばこ」
◎ 今回も「荷風随筆集(下)」の中のたばこをとりあげてみたいが(最終章)、煙管とともに刻たばこは長く日本社会や文化に定着していた。それが、明治以降になると、舶来の葉巻や国内外の紙巻きたばこが流通するようになり、結局は紙巻きたばこの隆盛を迎え現在に至っている。

◎ 前々回に引用したけれども、折檻といえば西洋では鞭(ムチ)に代表され、日本では煙管(キセル)であったことなどは、決して忘れてはいけないことだろうし、まさに文化の違いを説明するには最適な事例だと思う。以下の引用は、長煙管で灰吹きの筒を叩くの音が消えていく、葉巻が上流・中産階級と共に表れてくる、手軽な紙巻きたばこは足早に進もうとする時代を予見していることなどが、巧みな荷風氏の文体に織り込まれており、今読んでも新鮮この上ないのだ。

(156ページ)
当時(明治16、7年)ロッチが見た日本の風景と生活にして今はすでに湮滅(いんめつ)して跡を留めざるものも少なくない。ロッチの著作はわたしが幼年のころに見覚えた過去の時代の懐かしき記念である。長煙管で灰吹きの筒を叩く音、団扇で蚊を追う響き、木の橋をわたる下駄の音、これらの物音はわれわれが子供の時日々耳にきき馴れたもので、そして今は永遠に返り来ることなく、日本の国土から消え去ってしまったものである。

(178ページ)
われは舶来の葡萄酒と葉巻のはなはだ高価なるを知ると共に、蓄音機のワグネルと写真版のゴオガンのみにては、到底西洋の新芸術を論ずる事能わざるに心付きぬ。

(228ページ)
更に近所の煙草屋で内々にきいて見れば、宇都宮とやら高崎とやらにて半玉に出ていたりしが、その後のわけは知らず去年帰ってきたこの土地から出たとの事。

(232ページ)
お力を呼ばれたるは中肉の背恰好すらりっとして洗ひ髪の大嶋田に新わらのさわやかさ、頸元(えりもと)ばかりの白粉も栄なく見ゆる天然の色白をこれみよがしに乳のあたりまで胸くつろげて、煙草すぱすぱ長煙管に立て膝の無作法さも咎める人のなきことよけれ。

(262ページ)
その間、抽斗(ひきだし)の草稿は一枚二枚と剥ぎ裂かれて、煙管のヤニを拭う紙縒(こより)になったり、ランプの油壺やホヤを拭う反古紙になったりして、百枚ほどの草稿は今すでに幾枚をも余さなくなった。(270ページ)築地本願寺畔の僑居に稿を起こしたわたしの長編小説はかくのごとくして、ついに煙管のヤニを拭う反古となるより外、何の用もなさぬものとなった。

(273ページ)
(余が父は)役所より帰宅の後は洋服の上衣を脱ぎ海老茶色のスモーキングヂャケットに着換へ、英国風の大きなるパイプをくわえて読書してをられた。

(276ページ)
しかるに我が国当世のさまを見るに、新聞記者の輩(やから)は例の立ち襟の白服にて人の家に来たり口に煙草をくわえ肱を張ってパタパタ扇子を使ふが、中には胸のボタンをはずし肌着のメリヤスのシャツを見せながら平然として話し込むものも珍しからず。(2001 12/18)
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パイレート、煙草盆、岩谷天狗など

2007年09月06日 | 小説・映画等に出てくる「たばこ」
※ 前回に引き続き、「荷風随筆集(下)」の中のたばこ(その2)であるが、煙草屋は街の情報センターであったし、灰皿は煙草盆という日本的なセット形式で身近にあった。銀座通りの記述は、煙草店で働く女店員たちの歓声が聞こえてくるようだし、森鴎外、広津柳浪、福地桜痴にはたばこが似合っていた。
今も昔も文筆業などのクリエーターにとって、たばこは仕事の区切りに欠かせないツールであるようだ。以下の抜粋をとくとお読みいただけば、たばこは健康問題のみで語ってはならないことがわかっていただける、と私は考えているのだ。

(62ページ)
口にくわえた巻煙草のパイレートに火をつけることも忘れていたが、ややあって、「お願いだからもうもうすこし貸してくれ。」
「この次、きっと入れ合わせをするよ。」とわたしともども(質屋に)嘆願した。……
万源の向側なる芸者新道の曲がり角に煙草屋がある。主人は近辺の差配で金も貸しているという。わたしの家をよく知っているから、5円や拾円貸さないことはあるまい。

(67ページ)
突然耳元近く女の声がしたので、その方を見ると、長命寺の門前にある掛茶屋のおかみさんが軒下の床几に置いた煙草盆などを片づけているのである。土間があって、家の内の座敷にはもうランプがついている。

(81ページ)
一幕二幕演じをはりてやがて再び幕となりし時、わが傍らにありける某子突然わが袖をひき隣れる桟敷に葉巻くゆらせし髭ある人を指してあれこそ森(鴎外)先生なれ、いで紹介すべしとて、わが驚きうろたえるを構わずわれを引き行きぬ。われ森先生の謦咳(けいがい)に接せしはこの時をもって始めとす。

(83ページ)
日比谷には公園いまだ成らず銀座通りには鉄道馬車の往復(ゆきき)せし頃、尾張町の四つ角今ライオン珈琲店ある辺りには朝野新聞中央新聞毎日新聞などありけり。やまと新聞社は銀座1丁目の横町いま見る建物なりしかば、表通り岩谷天狗の煙草店に雇われたる妙齢の女店員いつもこの横町に集まりて緋の蹴出しあらわにして、しきりに自転車の稽古するさま折々目の保養となりしも、すでに過ぎし世のこととぞ知る。

(90ページ)
(広津柳浪先生に弟子入り志願したとき)…どうも今の人(実は先生の兄)が柳浪先生らしき気がしてならぬ故そっと建仁寺垣の破れ目より庭越しに内の様子をうかがえば、残暑なほ去りやらぬ9月の夕暮れとて障子みな明け放ちし、座敷の縁先、かの髭ある人は煙草盆引き寄せ、悠々として煙草のみつつ夕風さそふ庭打ち眺めつ。

(96ページ)
福地桜痴先生は風呂より上がりし所と見えて平袖中型牡丹の浴衣に縮緬(ちりめん)の兵児帯を前にて結び大なる革蒲団の上に座し銀のべの煙管にて煙草のみてをられけり。

(98ページ)
着到の太鼓打ち込みてより1日の興業済むまでは厳冬も羽織を着ず部屋にても巻煙草を遠慮し、作者部屋ね座元もしくは来客の方々身ゆれば丁寧に茶を汲みて出しその草履を揃えまた立て作者出頭の折りはその羽織をたたみ食事の給仕をなし終始つき添い働くなり。

(137ページ)
『矢筈草』いよいよこれより本題に入らざるべからざる所となりぬ。しかるに作者にわかに惑うて思案投首煙管くわえて腕こまねくなり。(2001 12/13)
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「荷風随筆集(下)」の中のたばこ

2007年09月06日 | 小説・映画等に出てくる「たばこ」
※ 岩波文庫「荷風随筆集(下)」は、同書の上巻に比べて圧倒的にたばこ(葉巻)に関する記述が多い。そこで、何度かに分けて紹介していきたいが、抜き書きをしながら痛感することは、永井荷風さんの文章に潜む「品格」であった。

(11ページ)
少なくとも日本文化の過去の誇りを残した人々は、皆おのれと同じようなこの日本の家の寒さを知っていたのだ。しかし彼らはこの寒さと薄暗きにも恨むことなく反抗することなく、手錠をはめられ版木を取り壊すお上の御成敗を甘受していたのだと思うと、時代の思想はいつになっても、昔に代わらぬ今の世の中、先生は形ばかり西洋模倣の倶楽部やカフェーの暖炉のほとりに葉巻をくゆらし、新時代の人々と舶来の火酒(ウィスキー)を傾けつつ、恐れ多くも天下の御政事を云々したとて何になろう。われわれ日本の芸術家の先天的に定められた運命は、やはりこうした置炬燵の肱枕(ひじまくら)より外はないような心持になるのである。

(12ページ)
江戸音曲の江戸音曲たる所以は時勢のために見る影もなく踏みにじられて行く所にある。時勢と共に進歩して行く事の出来ない所にある。しかもひと思いに潔く殺され滅されてしまうのではなく、新時代の色々な野心家の汚らしい手にいじくり廻されて、さんざん慰まれ辱められた挙げ句、なぶり殺しにされてしまう痛ましい運命。それから生じる無限の哀傷が、すなわち江戸音曲の真生命である。少なくてもそれは20世紀の今日洋服を着て葉巻を吸いながら聞くわれわれの心に響くべき三味線の呟(つぶや)きである。

(13ページ)
追っ手に捕まって元の曲輪(くるわ)へ送り戻されれば、煙管(キセル)の折檻に、またしも毎夜の憂きつとめ。

(19~20ページ)
先生はのそのそ置炬燵から次の間へ這い出して有り合う長煙管で2、3服煙草を吸いつつ、余念もなくお妾の化粧する様子を眺めた。

(21ページ)
下町の女の立ち居振る舞いには、あえて化粧の時の姿に限らない。春雨の格子戸に渋蛇の目開きかける様子といい、長火鉢の向こうに長煙管取り上げる手付きといい、物思う夕まぐれ襟に埋めるおとがいといい、さてはただ風に吹かれる鬢の毛の一筋、そら解け帯の端にさえ、いうばかりなき風情が生ずる。

(26ページ)
長火鉢の傍にしょんぼりと座って汚れた壁の上にその影を映させつつ、物静かに男の着物を縫っている時、あるいはまた夜の寝床にまず男を寝かした後、その身は静かに男の羽織着物をたたんで角帯をその上に載せ、枕頭(まくらもと)の煙草盆の火をしらべ、行燈(あんどん)の燈心を少しく引込め、引き廻した屏風の端を引き直してから、初めて片膝を蒲団の上に載せるように枕頭に座って、まず一服した後の煙管を男に出してやる……そういう時々先生はお妾に対して口には出さない無限の哀傷と感謝を覚えるのである。

(34ページ)
公衆のために設けられた料理屋の座敷に上がっては、掛け物と称する絵画と置物と称する彫刻品を置いた床の間に、泥だらけの外套を投げ出し、掃き清めたる小庭に巻煙草の吸殻を捨て、畳の上に焼け焦がしをなし、火鉢の灰にタンをはくなぞ、一挙一動いささかも居室、家具、食器、庭園等の美術に対して、尊敬の意も愛惜の念も何もない。(2001 12/12)
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