
『花火』②
【438~439ページ】
日比谷の公園外を通る時一隊の職工が浅葱(あさぎ)の仕事着をつけ組合の旗を先に立てて隊伍整然と練り行くのを見た。----。
米騒動の噂は珍しからぬ政党の教唆(きょうさ)によったもののような気がしてならなかったが、洋装した職工の団体の静に練り行く姿には動かしがたい時代の力と生活の悲哀とが現れているように思われた。わたしは既に一昔も前久しぶりに故郷の天地を見た頃考えるともなく考えたいろいろな問題をば、ここに再び思い出すともなく思い出すようになった。目に見る現実の事象はこの年月耽り(ひたり)に耽った江戸回顧の夢からついにわたしを呼覚ます時が来たのであろうか。----
花火はしきりに上がっている。わたし刷毛を下に置いて煙草を一服しながら外を見た。夏の日は曇りながら午(ひる)のままに明るい。梅雨晴(つゆばれ)の静かな午後と秋の末の薄く曇った夕方ほど物思うによい時はあるまい----。(大正8年7月稿)
[ken]私は再雇用期間を含めれば、40年以上も労働組合本部のスタッフをしてきましたので、本節はなおさら真剣に読みました。分かる人、考えるひとは散歩をしながらでも、世の中の動をきちんと把握しているのですね。そして、自分とはまったく無関係であると述べ、時流の勢いと組織や団体の力を認めつつ、その限界についても書き記していんのです。
今年の2月28日、笹川記念館で労働団体の2016春闘総決起集会があり、私も参加してきましたが、会場前の第一京浜では東京マラソンの応援で大にぎわいでした。その情景は同じようなものしょうが、永井荷風さんの感じとった「時代の力と生活の悲哀」はなく、それだけ組織された労働者が恵まれたポジションにあるのかな、と私は考えさせられました。また、結びの段落に煙草を登場させ、物思う作者の雰囲気を醸し出しています。その煙草はゴールデンバットだったのでしょうか。