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抜き書き帳『正岡子規』(その2)

2016年04月26日 | O60→70(オーバー70歳)
【110ページ】
◯桑の実を食いし事 信州の旅行は蚕時(かいこどき)であったので道々の桑畑はいずこも茂っていた。木曽へ這入ると山と山との間の狭い地面が皆桑畑である。その桑畑の囲いの処には幾年も切らずにいる大きな桑があってそれには真黒の実がおびただしくなっておる。見逃ことではない、余はそれを食い始めた。桑の実の味はあまり世人に賞翫されぬのであるが、その旨さ加減は他に較べる者も無いほどよい味である。余はそれを食い出してから一瞬時も手を措かぬので、桑の老木が見える処へは横路でも何でもかまわず這入っていって貪られるだけ食った。何升食ったか自分にもわからないがとにかくそれがためにその日は6里ばかりしか歩けなかった。寝覚めの里へ来て名物の蕎麦を勧められたが、蕎麦などを食う腹はなかった。もとよりこの日は一粒の昼飯も食わなかったのである。木曽の桑の実は寝覚蕎麦より旨い名物である。

[ken] 子どもの頃、私も近所の桑の実を食べましたが、正岡子規さんのように貪るほど口にしたことはなかったです。たしかに、小さな桑の実の大きく黒ずむほど熟した桑の実があり、何度かは美味しいと感じたことはあるのですが、何升も、昼飯代わりになるほど腹一杯食べた経験はありません。桑の実は数粒食べただけでも、舌に紫色の痕跡が残りますので、本書のように大量に食べたら舌どころか、胃腸の壁もすべて紫色になってしまったのでしょうね、きっと。栃木県に23年ほど住んでいましたので、ちょうど3年前だったと記憶していますが、散歩の途中、東北新幹線高架下で桑の実を目にし、一粒食べてみました。栃木県もかつては養蚕県だったようで、今でも桑畑が残っています。薄甘い感じで懐かしい味はしましたが、つづけて食べるほど美味しくありませんでしたね。(つづく)
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ママたちが非常事態!?

2016年04月26日 | O60→70(オーバー70歳)
▼3月25日放送のNHKスペシャル「ママたちが非常事態!?~最新科学で迫るニッポン」がとても興味深かったです。人類がチンパンジーと枝分かれしたのは、今をさかのぼること700万年前のことだそうです。
▼人類は集団的保育という文化を身につけ、出産後5年間も母親が付きっきりで子育てする(その間は妊娠しない)チンパンジーとは異なり、毎年のように妊娠・出産できるようになったことで、爆発的な人口増加が可能になって、生物界の頂点に上り詰めたとのこです。
▼つまり700万年かけた習慣が、近現代の100年足らずで「核家族」が進み、集団的保育から単体での保育へと社会的システムが激変してきたのですね。もともと、一つの家庭で子育てを完遂することは、人類にとって「無理がある」のです。日本における急速な少子高齢化の根底には、このような原因が横たわっているのですね。
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また一つ喫煙所が消えました!

2016年04月26日 | たばこの気持ち
昨日のお昼休み、JR田町駅東口から新芝運河に向かって歩いていたら、交差点横の喫煙所が閉鎖されていました。また一つ、気軽に立ち寄れる喫煙所が消え、とても寂しく感じました。
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横浜市泉区郊外の博多の黒ラーメン!

2016年04月25日 | ここで一服・水元正介
▼店外のシズミーランド掲示板が面白いです。テーブルの上には、ステンレス缶の灰皿が置かれています。
▼店内には「明日から本気だす。」という「ラーメン自由人社訓」が掲示されています。今日は頑張らなくていい、という自分に優しい社訓ですね。
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抜き書き帳『正岡子規』(その1)

2016年04月25日 | O60→70(オーバー70歳)

3月初旬、最寄りの図書館で『正岡子規』(ちくま日本文学、2009年10月発行)を借りましたが、一回目の返還日までに読み終えず2週間延長の手続きをしました。それでも抜き書きカ所が多く、延長期間をさらに数日伸ばして、やっと4月8日の出勤前、返却ポストに投入できました。都合26回にわたり、本書の抜き書きと私の感想を添えて投稿いたしますので、よろしくご拝読願います。

【93ページ】「死後」(明治34年2月)
附添の一人がに向かって「屋さん、何だか凄い天気になって来たが雨は降りゃアしないだろうか」と問うと、はスパスパと吹かしていた煙管を自分の腰かけている石で叩きながら「そうさねー、雨になるかも知れない」と平気な声で答えている。

【106ページ】「くだもの」(明治34年3~4月)
軽井沢に一泊して善光寺に参詣してそれから伏見山まで来て一泊した。これは松本街道なのである。翌日猿が馬場という峠にかかってくると、なにしろ呼吸病にかかっている余には苦しい事いうまでもない。少しずつ登ってようよう半腹に来たという時分に、路の傍に木いちごの一面に熟しているのを見つけた。これは意外な事で嬉しさもまた格外であったが、--------。やや躊躇していたが、このあたりには人家も畑も何も無い事であるからわざわざかような不便な処へ覆盆子(いちご)を植えるわけもないという事に決定してついに思う存分食うた。喉は渇いておるし、息は苦しいし、この際の旨さは口にいう事も出来ぬ。

【108~109ページ】
それからまた同じように山路を二三町も行た頃であったと思う、突然左側の崖の上に木いちごの林を見つけ出したのである。あるもあるも四五間の間は透き間もなきイチゴの茂りで、しかも猿が馬場で見たような痩いちごではなかった。嬉しさはいうまでもないので、餓鬼のように食うた。食うても食うても尽きる事ではない。時々後ろの方から牛が襲うて来やしまいかと恐れて後振り向いて見てまた一散に食い入った。もとより飽く事を知らぬ余であるけれども、日の暮れかかったのに驚いていちご林を見棄てた。

[ken] 第1回目は、たばこが登場している場面と木イチゴの食べっぷりの良さを抜き書きしました。93ページの煙管たばこについては、すでに私が小学生の頃あたりから見受けられなくなりました。そして、道端になっている各種果実を取って食べることについては、中山間地で生まれ育った私にも経験があったことから、むしゃぶり付くように食らいついた記憶がよみがえりました。木イチゴには黄色や赤い果実のいくつか種類があり、本書のイチゴは比較的大きな木や茂みに育つ赤いイチゴだと推察しています。今春、横浜市郊外を散歩していたら、道端にキンカンがなっていました。ちょうど食べごろだったので、一つ二ついただこうとしたら、一緒に歩いていたカミさんから「ちょっと、ちょっと、大のおとなが止めてください。それに人の私有地だし、道路近くなので排気ガスや農薬散布もあるでしょう」と強く制止されました。仕方がないので、後日、職場近くのスーパーで宮崎県産のキンカンを見つけ、消費税込400円で買って美味しくいただきました。でもね~っ、道端や山道の木イチゴなどの果実は、何といっても太陽の味が濃くて「捨てがたい」ですよね。(つづく)
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やまと豚、三元豚、親子蓋!

2016年04月24日 | O60→70(オーバー70歳)
▼各業界によって、他の人たちには皆目見当のつかない専門用語が、多々ありますね。もっとも、あまりにストレート過ぎて、かえって「えっ、それでいいの?」という呼び方もありました。
▼過日、新宿御苑へ入ろうとしたら「アルコール持ち込み厳禁」ということで、仕方がないから新宿御苑の外周を散歩したとき、見かけないマンホールがあり、下水道工事を専門とする会社社長の友人が「これは『親子蓋(おやこぶた)』といって、小さい方が作業員の出入りする蓋で、大きい方が機材搬入用の蓋、それが一つの蓋になってるんだ」と説明してくれました。
▼文字通りの『親子蓋』というわけですね。世の中、知らないことが多過ぎます、本当に!
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抜き書き帳『金子光晴』(その17/完)

2016年04月24日 | 小説・映画等に出てくる「たばこ」
《女へのまなざし》茨木のり子

【465ページ】
最晩年は、なぜかエロ爺さんを演じてマスコミにもてはやされた。それをにがにがしく思う人は多かったし、批判もされた。戦時中たった一人、反戦詩を書いていた人として、敗戦後にわかに脚光を浴びた時、
「ジャーナリズムの玩具(おもちゃ)にはなりたくない」
と言い放った人としては、確かに矛盾していた。だが、若い時、
「つまらない人間になってやろう」と決心して、さまざま実行したら、ひとびとが次々離れ去ってゆき、そのひりひりした感触を十分に味わった人としては、首尾一貫している。

【466~467ページ】
今のような長寿社会になってみると、あまりに年若く逝った人の作品は、なんとなく物足りなくなってくるようである。
「堕落することは向上なんだ」といい、絶望しながら意気軒高という逆説を生き抜き、80歳を過ぎてもおどけまくったその生涯と作品こそは読むに足るものになってゆくのかもしれない。生きかたそのものが詩であり、なにしろ日本人の幅を大きく拡げてくれた人なのだから。
道草をくい、てくてく歩き廻り、よそ見ばっかりして、いわゆる大人の分別からも遠く、いったい何だやら----のところもあるのだが、ベルトコンベヤに乗り、グリーン車で終着駅まで、あとはさっさと墓場に入っていったつまらない人達に比べたら、彼はゆったりと、美味しい実を、確実に、いっぱい採ったのだ。危険を冒しながら。
それは後の世の人々をも潤してくれるドリアンのような果実である。

[ken] 茨木さんの述べる「エロ爺さん」「つまらない人間」に、私もなりたいと思いました。また「堕落することは向上」というのは、坂口安吾さんの『堕落論』に書かれていたことを思い出しました。そして「絶望しながら意気軒高」「道草、てくてく歩き廻り、よそ見、分別からも遠く」を、自分の老後を過ごしていく考え方の参考にしていきたいです。(終わり)
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四文字熟語のインパクト!

2016年04月23日 | O60→70(オーバー70歳)
▼TBS火曜ドラマ『重版出来』が面白いです。
タイトルの「重版出来(じゅうはんしゅったい)」という四文字熟語を初めて知りました。また、主人公の座右の銘もダブル四文字熟語「精力善用・自他共栄」で、柔道の父である嘉納治五郎さんの言葉が、ドラマの芯になっています。
▼第1話のなかでは、「書けなくなったのではなく、書く角度がおかしかった」という発見によって、巨匠漫画家のスランプを救います。このドラマは、人気マンガを原作にしており、日本のマンガやアニメの底力を再認識しました。
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樋口一葉を初めて読む!

2016年04月23日 | 小説・映画等に出てくる「たばこ」
正岡子規さんの本の次は、五千円札の樋口一葉さんと決めていました。同じく、ちくま日本文学シリーズです。最初の数ページで、「うーん、これは読めないかも?」と戸惑うほどの文章でしたが、すぐに慣れスラスラとページが進みだしたので一安心です。聞けば、樋口一葉さんは大のたばこ好きで、テェーンスモーカーのように、たばこを吹かしながら執筆していたそうです。
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抜き書き帳『金子光晴』(その16)

2016年04月23日 | 小説・映画等に出てくる「たばこ」
《日本人の悲劇 より》(昭和42年2月)

【419~420ページ】「岡島家の人々」
銀座の岩谷(天狗岩谷煙草といって、ちょうど、四丁目の角の三越デパートのへんに、等身大の天狗人形を軒先にかざってあった、専売以前のたばこ店で、老人ならばおぼえている人もあるでしょう)の主人も、大勢の妾に大勢の子を生せて、道であいさつされて、知らない顔を相手をじろじろみていると、あなたの四十何番の息子ですよと言われたという、笑話のような話がのこっています。

【434ページ】「大黒屋の人々」
人はただ変わりものあつかいをしていたようですが、生きる場がちがってしまって、うまく新しい方向についてゆけないような武骨な教育をうけて、きせる屋の押込みになるか、北海道開拓の移民になるか、安藤のような寄宿者(いそうろう)になるかは、人それぞれの持ち前の性質と、ちょっとしたアブストラック(抽象的)な姿なのかもしれません。

[ken] 明治時代に入ると、口付きたばこのみならず、刻みたばこの製造技術は欧米の先進技術も取り入れ大幅に進歩したそうです。419~420ページの岩谷松平さんの「天狗岩谷煙草」と、村井吉兵衛さんの「村井兄弟商会」の宣伝合戦は、女性のヌードポスターをはじめとして、後の世まで語り草になっているほどです。その岩谷松平さんが、40人以上もの子どもを作ったというのは、平成の世にいる私たちの想像を超えていますね。
また、434ページの「新しい方向についてゆけない」人たちについては、現在でも多数生まれ続けていますし、ある意味では私だって例外ではありません。「ついてゆけないのが悪くて、ついてゆければそれで良いのか?」といえば、決してそうではありませんから、現役世代を卒業した人たち、うまく世の中に適応できず、結果的に弾き(はじき)出された人たちなどと、一緒に共生していくことが肝要だと思います。(つづく)
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