前福井県議会議員 さとう正雄 福井県政に喝!

前福井県議会議員・さとう正雄の活動日誌。ご意見・情報は smmasao.sato@gmail.com までお願いします。

日中友好運動、文化運動に献身。さようなら、粟田栄さん

2013年03月04日 | Weblog
  昨日は、亡くなられた粟田栄さんの告別式に連れ合いとともに参列しました。また、議会質問の準備などもすすめました。

 粟田さんは京都、福井で日中友好協会の活動を長年事務局としてやられており、全国各地からの参列者、たくさんの弔電がとどいていました。

 遠距離結婚のお連れ合いの藤原さんは弔辞で、粟田さん依頼の中野鈴子とゆきのしたの脚本が完成したことを語り、粟田さん自身が登場するその一節を読み上げました。

 うたごえや共産党の仲間も多数参列。涙、涙のお別れでした。

 ご親戚に男性が少なかったので、棺を霊柩車まで運ぶ役目を、藤岡党地区委員長、松本坂井市議とともにつとめさせていただきました。

 私が福井に戻られた粟田さんと出会ったのはメーデー会場、「福井に帰ってきました。日中友好協会を再建したいので力を貸してください」と頼まれ、以来、再結成の会合に参加し、会員となりました。ただ、行事にもほとんど参加できず、「不良会員」で申し訳なかった、と思います。
日中平和友好の志を受け継いでがんばっていきたいと思います。
 私のブログもよく読まれており、「毎日書いてますね。読んでますよ。がんばってください」とたびたび励ましていただきました。ありがとうございました。合掌。

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 葬儀式場では、福井センター合唱団の辻勲さんが、追悼ニュースをだしていました。

闘病のことにふれつつ、「粟田さんは本当にいつも笑顔でした。そして明るく、考えること、行動がすべて前向きでした」と書かれていました。

 そこに紹介されていた粟田さん自身のお話しです。


■粟田さん自身が書かれた文書の一部を抜粋して紹介します。(2002年)

  私は、京都で1999年6月までの「ゆきのした文化協会」の活動をニュース等で知っていました。ときおり郷土劇や戦後生活展参観に福井に戻っていましたが、直接当事者として活動には参加していませんでした。 偶然といいますか、奇遇なことに、33年間暮らした京都での生活を終え郷里の福井に帰る準備をしていた1999年6月、「ゆきのした」から送られてきた会報の「物置、倉庫などないかな」のお知らせに目が止まりました。 館の移転を迫られ、諸資料の保管場所を探していたのです。 丸岡の私の家では、細巾織物業をやっていましたが、不況などで20年前に閉鎖し、工場が空いていました。さっそく郷里の母に電話をして、意向を伝えると「お役にたつなら使っていただきなさい」との返事だったので、加藤会長に申し出ました。 母は、戦前、少女時代に軍事工場で働かされ厭な戦争体験をしていましたので、平和のためになるならの思いもあり、息子が浦島太郎の心境で帰福する心境も察しての判断もあったのかと思います。自らゆきのした文化協会・日中友好協会の会員になり、私で出来ることはと、ニュース発送作業などを手伝ってくれています。母とはありがたい存在だとつくづく思っています。

 日中友好運動の分野では、草の根の日中友好を全国的にすすめている日中友好協会が福井県では25年前に崩壊しておりましたので、再建活動を始めました。加藤会長と私の母と私の三人で準備会を結成し活動を始めました。 支部再建後、ゆきのした文化協会の全面的バックアップで、中国・長春市の偽満皇宮博物院からラストエンペラー溥儀の実物資料を借りて、「満州帝国展」を開催できました。偶然に出来たのでなく、これまでの良き出会いがあったからだと思っています。

 今から12年前の1990年9月、「日中不再戦の旅」で中国東北地方を訪問し、731部隊罪証陳列館(ハルピン)、平頂山殉難同胞遺骨館、9・18 事変博物館、偽満皇宮博物院などを参観し、日本が過去に引き起こした事柄の 歴史認識を新たにしました。「満州は日本の生命線」「王道楽土」と100万人近くの満蒙開拓団員が中国東北部へ送り込まれた。 歴史に翻弄されたラストエンペラー溥儀の生涯もこのとき知りました。二度と戦争はしてはいけない、これからは過去の歴史を踏まえての友好が大事だと胸に刻み込みました。 偽満皇宮博物院で、入り口で求められるままに、その思いを「日中不再戦」と揮毫しました。後に恥ずかしいのですが、中国で出版された本に掲載されていたことを知りました。 そのご縁もあって、偽満皇宮博物院院長の李立夫ら中国マスコミ文化代表団を、1999年10月に、ゆきのした文化協会が福井に招き、「平和文化史料館準備館」に来ていただいてもいます。 そうしたことから、2000年8月に福井で「満州帝国展」が開催できたのでした。同博物院から趙継敏同院副院長、王斌学芸員をお迎えしました。 2001年1月、再度長春を訪問し、昨年の夏に敦賀と福井で開催しました海外初展示の溥儀直筆日記なども借りられました。 マイナス20度の厳冬の長春。でもお互いの友好の燃えるような友情の交流で胸が熱くなった思いが心をよぎります。

 こうした出会いによる積上げが、昨年の京都市・敦賀市・福井市・名古屋市で大きな話題を巻き起こし、確かな友誼の一歩になったのだと思っています。 今年も、中国から731部隊関係の実物史料をかりて「悪魔の飽食」展を開くことが出来ました。 その他、中国語・太極拳・気功などの各教室、中国映画会、きりえ展、田植え・稲刈り会、春節祝賀交流会(昨年300人、今年550人の参加者)、中国から音楽家を招聘しての「ピアノと二胡のリサイタル」(実行委員会主催)など多彩な取り組みをすすめる中で、日中友好協会福井支部は約100人の会員組織になりました。現在、福井県在住の中国人は3400人おられますので、交流を深め合い、共に平和友好をすすめていきたいと思っています。・・・・