せちは
五月にしくはなし。菖蒲蓬などのかをりあひたるもいみじうをかし。九重の内をはじめて、いひしらぬ民の住家まで、いかでわがもとに繁くふかんと葺きわたしたる、猶いとめづらしく、いつか他折はさはしたりし。空のけしきの曇りわたりたるに、后宮などには、縫殿より、御藥玉とていろいろの糸をくみさげて參らせたれば、御几帳たてまつる母屋の柱の左右につけたり。九月九日の菊を、綾と生絹のきぬに包みて參らせたる、同じ柱にゆひつけて、月ごろある藥玉取り替へて捨つめる。又藥玉は菊のをりまであるべきにやあらん。されどそれは皆糸をひき取りて物ゆひなどして、しばしもなし。御節供まゐり、わかき人々は菖蒲のさしぐしさし、物忌つけなどして、さまざま唐衣、汗衫、ながき根、をかしきをり枝ども、村濃の組して結びつけなどしたる、珍しういふべきことならねどいとをかし。さても春ごとに咲くとて、櫻をよろしう思ふ人やはある。辻ありく童女の、ほどほどにつけては、いみじきわざしたると、常に袂をまもり、人に見くらべえもいはず興ありと思ひたるを、そばへたる小舎人童などにひきとられて、泣くもをかし。紫の紙に樗の花、青き紙に菖蒲の葉、細うまきてひきゆひ、また白き紙を根にしてゆひたるもをかし。いと長き根など文の中に入れなどしたる人どもなども、いと艶なる返事かかんといひ合せかたらふどちは、見せあはしなどする、をかし。人の女、やんごとなき所々に御文聞え給ふ人も、今日は心ことにぞなまめかしうをかしき。夕暮のほどに杜鵑の名のりしたるも、すべてをかしういみじ。
(枕草子~バージニア大学HPより)
五月五日、軒の菖蒲(あやめ)も今年は珍しき樣に葺きたり。菖蒲の御輿かき立てて、殊におもしろし。もとへの女官ども、藥玉の菖蒲持ちて行きかふ。御藥玉の花どもまゐらす。
(中務内侍日記~有朋堂文庫「平安朝日記集」)
五月五日、宮の権大夫時忠のもとより、薬玉まきたる筥のふたに、菖蒲の薄様しきて、おなじ薄様にかきて、なべてならずながき根をまゐらせて、
君が代にひきくらぶればあやめ草ながしてふ根もあかずぞありける
かへし 花たちばなの薄様にて
心ざし深くぞみゆるあやめ草ながきためしにひける根なれば
(建礼門院右京大夫集~岩波文庫)
あくれば五日のあかつきにせうとたる人ほかよりきて「いづらけふのさうぶはなどかおそうはつかうまつる、夜しつるこそよけれ」などいふにおどろきてしやうぶふくなれば、みなひともおきてかうしはなちなどすれば「しばしかうしはなまゐりそ、たゆくかまへてせん、御らんぜんにもともなりけり」などいへどみなおきはてぬればことおこなひてふかす。昨日のくもかへすかぜうちふきたれば、あやめの香はやうかゝへていとをかし。すのこにすけとふたりゐて天下のきくさをとりあつめて「めづらかなるくすだません」などいひてそゝくりゐたるほどに、このごろはめづらしげなうほとゝぎすのむらどりくそふくにおりゐたるなどいひのゝしるこゑなれど、そらをうちかけりてふたこゑみこゑきこえたるはみにしみてをかしうおぼえたれば「山ほととぎすけふとてや」などいはぬ人なうぞうちあそぶめり。
(蜻蛉日記~バージニア大学HPより)
はかなう五月五日にもなりにければ。おほみやよりひめみやにとて。くすだまたてまつらせ給へりそれに
そこふかくひけどたえせぬあやめぐさちとせをまつのねにやくらべん
御かへし中宮より
としごとのあやめのねにもひきかへてこはたぐひなのながきためしや。
(略)かみをみればみすのへりもいとあをやかなるに。のきのあやめもひまなくふかれて。こゝろことにめでたくおかしきに。御くすだましやうふの御こしなど。もてまいりたるもめづらしうて。わかき人々けうず。
(栄花物語~国文学研究資料館HPより)
五月四日、夕つかたになりぬればさうぶふきいとなみあひたるを見れば、こぞの今日、何事思ひけん、菖蒲の輿(こし)、朝餉の壺にかきたてて、殿ごとに人々のぼりて隙なくふきしこそみづ野のあやめも今はつきぬらむと見えしか。又の日も空はさみだれたるに、軒のあやめ、雫もひまなく見ゆるに、
五月雨の軒のあやめもつくづくとたもとにねのみかかる空かな
とのみおぼゆ。
(讃岐典侍日記~岩波文庫)
たかさともねやのまにまにあやめくさけふひきかけぬひとはあらしな
さはへなるみこもかりてはあやめくさそてさへひちてけふやとるらむ
(古今和歌六帖~日文研HPより)
久安百首歌奉りし時 左京大夫顕輔
かくれぬにおふるあやめもけふは猶尋ねてひかぬ人やなからん
(新後撰和歌集~国文学研究資料館HPより)
題不知 貫之
みかくれておふるさ月のあやめ草なかきためしに人はひかなん
(続古今和歌集~国文学研究資料館HPより)
百首歌めされしついてに 太上天皇
あやめ草いつの五月に引そめてなかきためしのねをもかく覧
(続拾遺和歌集~国文学研究資料館HPより)
文治六年女御入内屏風に、菖蒲かりたる所、又人家にふきたるかたあり 前中納言定家
あやめ草なかき契りをねにそへて千世のさ月といはふ今日哉
(新続古今和歌集~国文学研究資料館HPより)
寛喜元年女御入内屏風、五月沼江菖蒲宴ところ 前関白
深き江にけふあらはるゝあやめ草年の緒なかきためしにそ引
入道前太政大臣
幾千世といはかき沼のあやめ草長きためしにけふやひかれん
(新勅撰和歌集~国文学研究資料館HPより)
中宮の根合に よみ人知らず逢坂越えぬ
君が代の長きためしにあやめ草千尋(ちひろ)に余る根をぞ引きつる
(風葉和歌集~岩波文庫「王朝物語秀歌選」)
永承六年五月五日殿上根合によめる 良暹法師
つくま江のそこのふかさをよそなからひけるあやめのねにてしるかな
(後拾遺和歌集~国文学研究資料館HPより)
永承六年殿上にて根合にあやめをよめる 大納言経信
万代にかはらぬ物はさみたれのしつくにかほるあやめなりけり
(金葉和歌集~国文学研究資料館HPより)
五月五日はしめたる女のもとにつかはしける 小一条院御製
しらさりき袖のみぬれてあやめ草かゝるこひちにおひん物とは
(金葉和歌集~国文学研究資料館HPより)
同じ日(五月五日)、忍びたる人に
今日とても引きにやは来る菖蒲(あやめ)草人しれぬねはかひなかりけり
(和泉式部続集~岩波文庫)
五月五日女のもとに遣はしける 石清水の秋の大将
思ひつつ岩垣沼に袖ぬれて引けるあやめのねのみなかるる
(風葉和歌集~岩波文庫「王朝物語秀歌選」)
五月五日に人のもとにつかはしける 和泉式部
ひたすらに軒のあやめのつくつくとおもへはねのみかゝる袖かな
(後拾遺和歌集~国文学研究資料館HPより)
玉鬘の内侍のもとに、ためしにも引き出でつべき根に付けて遣はし侍りける 蛍の兵部卿のみこ
今日さへや引く人もなきみがくれに生ふるあやめのねのみなかれん
(風葉和歌集~岩波文庫「王朝物語秀歌選」)
陽明門院皇后宮と申ける時、ひさしくうちにまいらせたまはさりけれは、五月五日うちよりたてまつらせ給ひける 後朱雀院御製
あやめ草かけしたもとのねを絶て更に恋ちにまとふ比哉
(後拾遺和歌集~国文学研究資料館HPより)
内にひさしくまいりたまはさりけるころ、五月五日後朱雀院の御返ことに 陽明門院
かたかたに引別つゝあやめ草あらぬねをやはかけんと思ひし
(新古今和歌集~国文学研究資料館HPより)
絶て久しくとはぬ人に、五月五日、あやめのねにつけてつかはしける人にかはりて 永福門院左京大夫
しられしな憂身かくれのあやめ草我のみなかきねにはなくとも
(風雅和歌集~国文学研究資料館HPより)
五月五日、雨のいみじう降る日、独り言に
今日はなほあやめの草のねどころも水のみ増さる心地こそすれ
(和泉式部続集~岩波文庫)
男に忘られにける人の、五月五日枕に菖蒲をさしてをきたりけるを見て 赤染衛門
かはくまもなきひとりねの手枕にいとゝあやめのねをやそふへき
(続拾遺和歌集~国文学研究資料館HPより)
こもりゐて後、五月五日、菖蒲の根につけて大納言三位につかはしける 従一位兼教
ねをそへて猶こそ忍へあやめ草忘れぬつまのけふのむかしを
(玉葉和歌集~国文学研究資料館HPより)
五月五日右大将殿よりさうふあはせしたる扇にくす玉をゝきてこれかかちまけさためさせ給へとありしにとのは左大臣におはしましゝかは
左にやたもとのたまも結ふ覧右はあやめのねこそあさけれ
(赤染衛門集~群書類従15)
五月五日、薬玉をつかはすとて 前大納言為定
代々かけて猶こそたのめあやめ草又引人の身にしなけれは
返し 源清氏朝臣
思ふかひなきみこもりのあやめ草引とは何の色にみゆらん
(新千載和歌集~国文学研究資料館HPより)
五月五日ゐんよりひめぎみの御かたにとて。くすたまたてまつらせ給へり
このごろをおもひいづれはあやめくさながるゝおなしねにやともみよ。御かへし
いにしへをかくるたもとはみるごとにいとゞあやめのねこそしげゝれ。
(栄花物語~国文学研究資料館HPより)
五月五日、所々より御かぶとの花・薬玉など、色々に多く参れり。朝餉にて、人々これかれ引きまさぐりなどするに、三条の大納言公親の奉れる、根に露おきたる蓬の中に、ふかきといふ文字を結びたる、糸の様もなよびかに、いと艶ありて見ゆるを、上も御目とどめて、「何とまれ、いへかし」と宣ふを、人々も、およすけて見奉るを、弁の内侍、
あやめ草底知ら沼の長き根にふかきといふや蓬生の露
と、ありつる使ひ、はや帰りにければ、蔵人を召して、殿上より遣はしけり。御返り、公親、
あやめ草底知ら沼の長き根を深き心にいかがくらべん
(増鏡~和田英松「校註 増鏡 改訂版」)
五月五日、世の中今はかくと聞(きこ)えしかば、何の文目(あやめ)もわかれずかきくれたるに、人の許(もと)より白薄様にて、
沼水に生ふる菖蒲の長き根も君が契りのためしにぞ引く
掛けなれし袖のうきねは変らねど何のあやめも分(わ)かぬ今日かな
また奥に、
忘れずは形見とも見よあはれこの今日しも残す水茎のあと
筥の蓋に紅・紫染め分けたる薄様敷きて、薬玉そへらる。返事、
浅き江に引くや菖蒲のうきねをも長きためしと我や掛くべき
残し置く形見ときけば見るからに音(ね)のみなかるゝ水茎のあと
(竹むきが記~(岩波)新日本古典文学大系)
陸奥守橘為仲と申。かのくにゝまかりくたりて。五月四日。たちに廳官とかいふものとしおひたるいてきて。あやめふかするをみけれは。れいの菖蒲にはあらぬくさを。ふきけるをみて。けふはあやめをこそふく日にてあるに。これはいかなるものをふくそと。ゝはせけれは。つたへうけ給はるは。このくにゝは。むかし五月とて。あやめふくこともしり侍さりけるに。中将のみたちの御とき。けふはあやめふくものを。いかにさることもなきにかと。のたまはせけれは。國例にさること侍らす。と申けるを。さみたれのころなと。のきのしつくも。あやめによりてこそ。いますこし。みるにも。きくにも。心すむことなれは。ゝやふけとのたまひけれと。これくにゝは。おひ侍らぬなりと申けれは。さりとても。いかゝ日なくてはあらん。あさかのぬまの。はなかつみといふもの有。それをふけと。のたまひけるより。こもと申ものをなん。ふき侍るとそ。むさしの入道隆資と申は。かたり侍ける。もししからは。ひくてもたゆくなかきね。といふうた。おほつかなく侍り。
(今鏡~国文学研究資料館HPより)
それより出羽国へ越えて、阿古屋の松など見巡りつゝ、陸奥国浅香の沼を過ぐ。中将実方朝臣下(くだ)られけるに、此国には菖蒲の無かりければ、本文に水草を葺くとあれば、いづれも同じこと也とて、かつみに葺きかへけると申伝へ侍るに、寛治七年郁芳門院の根合に藤原孝善が歌に、「あやめ草引く手もたゆく長き根のいかで浅香の沼に生けん」と読るは、此国にも菖蒲のあるにやと、年月不審に覚えしかば、此度人に尋ねしに、「当国に菖蒲の無きにはあらず、されどもかの中将の君下り給ひし時、何のあやめも知らぬ賤(しづ)が軒端には、いかで都の同じ菖蒲を葺くべきとて、かつみを葺かせられけるより、これを葺き伝へたる也」と語り侍しかば、げにもある一義も侍るにや。「風土記」などいふ文にも、その国の古老の伝など書きて侍れば、さる事もやとて記(しる)しつけ侍る也。
(都のつと~(岩波)新日本古典文学大系)
長谷前々大僧正、五月五日人びとにちまきをくばりけるに、俊恵法師きゝて、そのうちにいるべきよし申つかはすとて、よみける、
あやめをばほかにかりても葺(ふき)つべしちまきひくなるうちにいらばや
返し、僧正、
はづかしや院のあやめをゝきながらちまき引(ひく)名の空にたちぬる
(古今著聞集~岩波・日本古典文学大系)
五月五日、粽(ちまき)を人のもとにやるとて
深沢田(ふかさはだ)みぎはがくれの真菰草昨日あやめに引かされにけり
(和泉式部集~岩波文庫)
ことしはせちきこしめすべしとていみじうさわぐ。いかでみむとおもふにところぞなき。「みむとおもはゞ」とあるをきゝはさめて「すぐろくうたん」といへば「よかなりものみつぐのひに」とてめうちぬ。よろこびてさるべきさまのことどもしつゝ宵のましづまりたるにすゞりひきよせて手ならひに
あやめぐさおひにしかずをかぞへつゝひくや五月のせちにまたるる
とてさしやりたればうちわらひて
かくれぬにおふるかずをばたれかしるあやめしらずもまたるなるかな
といひてみせんのこゝろありければ宮の御さじきのひとつゞきにて二間ありけるをわけてめでたうしつらひてみせつ。
(蜻蛉日記~バージニア大学HPより)
行幸に並ぶものは、何かはあらむ。
(略)
五月こそ、世に知らず、なまめかしきものなりけれ。されど、この世に絶えにたる事なめれば、いと口惜し。昔語りに、人のいふをきき、思ひ合はするに、げに、いかなりけむ。
ただ、その日は、菖蒲うち葺き、世の常のありさまだにめでたきを、もとのありさま、所々の御桟敷どもに、菖蒲葺きわたし、万づの人ども、菖蒲鬘して、菖蒲の蔵人、かたちよきかぎり選りて出だされて、薬玉賜はすれば、拝して腰につけなどしけむほど、いかなりけむ。夷の家移り、艾などうちけむこそ、烏滸にも、をかしうも、おぼゆれ。還らせたまふ御輿のさきに、獅子・狛犬など舞ひ、あはれ、さることのあらむ、郭公うち鳴き、頃のほどさへ、似るものなかりけむかし。
(枕草子~新潮日本古典集成)
(なまめかしきもの。)
皐月の節の菖蒲の蔵人。菖蒲の鬘、赤紐の色にはあらぬを、領巾・裙帯などして、薬玉、親王たち・上達部の立ち並みたまへるに、たてまつれる、いみじうなまめかし。取りて、腰にひきつけつつ、舞踏し拝したまふも、いとめでたし。
(枕草子~新潮日本古典集成)
たますだれかけてむかしぞしのばるるおなじあふひのかざしなれども(光経集)
天暦御門かくれ給て、又のとし五月五日に、宮内卿かねみちかもとにつかはしける 女蔵人兵庫
さ月きてなかめまされはあやめ草おもひたえにしねこそなかるれ
(拾遺和歌集~国文学研究資料館HPより)
五月五日服なりける人の許につかはしける 小弁
けふとてもあやめしられぬ袂にはひきたかへたるねをやかくらん
(後拾遺和歌集~国文学研究資料館HPより)
為道朝臣身まかりてのち、五月五日贈従三位為子か許に申をくりける 権中納言公宗母
絶す猶かけてそ忍ふあやめ草引わかれにしけふのうきねを
(続後拾遺和歌集~国文学研究資料館HPより)
五月五日、為道朝臣身まかりて後、三とせめくりぬるおなし日数も哀にて、前大納言為世につかはさせ給ける 後二条院御歌
けふといへは別れし人の名残よりあやめもつらき物をこそ思へ
御返し 前大納言為世
今日はなをあやめの草のうきねにもいとゝ三とせの露そかはかぬ
(風雅和歌集~国文学研究資料館HPより)
楽玉など、えならぬさまにて、所々より多かり。(略)
殿は、東の御方にもさしのぞきたまひて、
「中将の、今日の司の手結ひのついでに、男ども引き連れてものすべきさまに言ひしを、さる心したまへ。まだ明きほどに来なむものぞ。あやしく、ここにはわざとならず忍ぶることをも、この親王たちの聞きつけて、訪らひものしたまへば、おのづからことことしくなむあるを、用意したまへ」
など聞こえたまふ。
馬場の御殿は、こなたの廊より見通すほど遠からず。
「若き人々、渡殿の戸開けて物見よや。左の司に、いとよしある官人多かるころなり。せうせうの殿上人に劣るまじ」
とのたまへば、物見むことをいとをかしと思へり。
対の御方よりも、童女など、物見に渡り来て、廊の戸口に御簾青やかに掛けわたして、今めきたる裾濃の御几帳ども立てわたし、童、下仕へなどさまよふ。菖蒲襲の衵、二藍の羅の汗衫着たる童女ぞ、西の対のなめる。
好ましく馴れたる限り四人、下仕へは、楝の裾濃の裳、撫子の若葉の色したる唐衣、今日のよそひどもなり。
こなたのは、濃き一襲に、撫子襲の汗衫などおほどかにて、おのおの挑み顔なるもてなし、見所あり。
若やかなる殿上人などは、目をたててけしきばむ。未の時に、馬場の御殿に出でたまひて、げに親王たちおはし集ひたり。手結ひの公事にはさま変りて、次将たちかき連れ参りて、さまことに今めかしく遊び暮らしたまふ。
女は、何のあやめも知らぬことなれど、舎人どもさへ艶なる装束を尽くして、身を投げたる手まどはしなどを見るぞ、をかしかりける。
南の町も通して、はるばるとあれば、あなたにもかやうの若き人どもは見けり。「打毬楽」「落蹲」など遊びて、勝ち負けの乱声どもののしるも、夜に入り果てて、何事も見えずなりぬ果てぬ。舎人どもの禄、品々賜はる。いたく更けて、人々皆あかれたまひぬ。
(源氏物語・蛍~バージニア大学HPより)
五月五日にもなりぬれば、いとど何のあやめもかひありて、長き例(ためし)の袖に光を宿したる花の姿ども、今日はいま一際(ひときは)心ことなる。一品宮の御方は、紅の薄様に、菖蒲の表着(うはぎ)、撫子の唐衣、女三宮の御方は、撫子に、卯の花の表着、二藍の唐衣、后の御方は、紫の薄様に、朽葉の表着、菖蒲の唐衣、童、下仕まで、みな色を分きて、さまざま見わたさるるに、あなたこなた許されたる人々、御前近う五、六人ばかり候ひて、三宮と二所、御碁など打ちつつおはしますほどに、(略)
花橘に二藍の御表着、若菖蒲の三重(みへ)の織物の御唐衣奉りて、うちやられたる御袖のかかる御衣(ぞ)の裾まで、言へばえにたをたをと身にもしむばかりにて、御ぐしは、取る手もすべるばかりつやつやときらめきかからせ給へる御後ろ手、裾のそぎ目の、まことに五重の扇とかやを広げたらんやうなるも、こちたう、はなばなとうつくしきのみならず、たをたをと心苦しき方の、何ごとにつけても、なほしもすすませ給へるは、げに何と言ひ続くべしとも覚えず、(略)
御几帳にいと長き根のかかりたるを御手にすさみせさせ給ひつつ、
あやめ草引き別れにしそのままに長き根のみぞ袖にかかれる
(返歌等略)
菖蒲がさね、朽葉の御表着、撫子の御唐衣、御子たちと聞こえんにあかぬことなけれど、にほひやかになどは殊におはしまさず、一筋に気高きばかりにて、あてになまめかしき方はものし給はず。二位中将は、宮の御供に参り給へりつる、御几帳の際なる庇のおましに候ひ給うつる、けはひより始めて、にほひ有様ぞ目もあやにめでたきや。二藍の薄物の直衣に、撫子の織物の指貫、青朽葉の生絹(すずし)の衣(きぬ)、紅の単衣、千入(ちしほ)に色深く着なし給へり。(略)
中将もこなたより出で迎ひきこえ給ふ。大将、これも色濃き直衣、紅の生絹の衣、白き単衣、はなばなとあたりを払ひたる御にほひ有様は、殊に光を放ち給へるさまは、さらに並びきこゆべき人なし。(略)
やうやう日も暮れつ方になるに、久しくかやうのことなかりつるをとて、御琴ども召して、宮たちに奉らせ給ふ。(御遊の記述は略)
五月雨のなごり、曇らはしかりつる空晴れわたりて、夕月夜はなやかにさし出でて、軒のあやめの香りしめやかに、吹き入るる追ひ風の冷やかに、秋よりも身にしむ心地するに、物の音もいよいよ澄みのぼりて、尋ねよる松の響きも雲居に通るばかりなるを、あかぬほどにてやみぬるなごりもいとなかなかなり。
(いはでしのぶ~「中世王朝物語全集4」笠間書院)
比は五月の五日の片夕暮許也。頼政(よりまさ)は木賊色の狩衣に、声華に引繕て参上、縫殿の正見の板に畏て候ず。(略)
菖蒲(あやめ)が歳長色貌少も替ぬ女二人に、菖蒲(あやめ)を具して、三人同じ装束同重になり、見すまさせて被出たり。三人頼政(よりまさ)が前に列居たり。梁の鸞の並べるが如く、窓の梅の綻たるに似たり。頼政(よりまさ)よ其中に忍申す菖蒲(あやめ)侍る也、朕占思召(おぼしめす)女也、有御免ぞ、相具して罷出よと有綸言ければ、頼政(よりまさ)いとゞ失色、額を大地に付て実に畏入たり。思けるは、十善の君はかりなく被思食(おぼしめさるる)女を、凡人争か申よりべかりける。其上縦雲の上に時々なると云とも、愚なる眼精及なんや、増てよそながらほの見たりし貌也、何を験何ぞなるらん共不覚、蒙綸言不賜も尾籠也、見紛つゝよその袂(たもと)を引きたらんもをかしかるべし、当座の恥のみに非、累代の名を下し果ん事、心憂かるべきにこそと、歎入たる景色顕也ければ、重て勅諚に、菖蒲(あやめ)は実に侍るなり、疾給(たまひ)て出よとぞ被仰下ける。御諚終らざりける前に、掻繕ひて頼政(よりまさ)かく仕る。
五月雨に沼の石垣水こえて何かあやめ引ぞわづらふ
と申たりけるにこそ、御感の余に竜眼より御涙(おんなみだ)を流させ給ながら、御座を立たせ給(たまひ)て、女の手を御手に取て、引立おはしまし、是こそ菖蒲(あやめ)よ、疾く汝に給也とて、頼政(よりまさ)に授させ給けり。是を賜て相具して、仙洞を罷出ければ、上下男女歌の道を嗜ん者、尤かくこそ徳をば顕すべけれと、各感涙を流けり。
(源平盛衰記~バージニア大学HPより)
五日の申の時計に垂井の宿(しゅく)に着く。今日は南宮の祭とて見物の輩(ともがら)、物騒がしく立ちさまよひけり。風流の山傘などありとかや。昔のごとくならば此所に遊女などあるべきにや。杜牧が「玉簾十里揚州路」と言へる事を思ひなずらへ侍りて、
あさはかに心なかけ玉簾垂井の水に袖も濡れなん
又軒に菖蒲(あやめ)を葺きわたす事、都にも変らざりければ、
我宿の端(つま)にはあらぬ菖蒲草今夜仮寝に片敷きの床
(藤河の記~(岩波)新日本古典文学大系)
(弘仁十四年五月)戊午(五日)
天皇が紫宸殿に出御して、侍臣と宴を催した。中務省が所司を率いて常のごとく邪気を払う菖蒲(しょうぶ)を献じた。日暮れて、身分に応じて禄を下賜した。
(日本後紀〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)
(嘉祥二年五月)戊午(五日)
天皇が武徳殿に出御して、騎射(うまゆみ)を観覧した。六衛府が旗じるしを掲げ、百官が座につき、勅により王文矩らも宴に陪侍した。天皇が次のように詔した(宣命体)。
天皇が仰せになるお言葉を、渤海使節らが承れ、と申し聞かせる。五月五日に邪気を払う薬玉を身につけ、酒を飲む人は長寿で福に恵まれると聞いている。そこで薬玉を賜い、御酒(みき)を下さる、と申し聞かせる。
(続日本後紀〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)
(長保五年五月)五日、甲申。
左府の許に参った。「端午の日には、必ず馬走(うまはしり)を見る」と云うことだ。そこで相府(道長)は馬を見られた。また、内裏でも御馬御覧が行なわれた。
(権記〈現代語訳〉~講談社学術文庫)
(寛弘二年五月)五日、壬子。
糸所(いとどころ)の者が薬玉を持って来た。禄を下賜した。「中宮(藤原彰子)から賀茂斎院(選子内親王)に薬玉を献上された」ということだ。(略)
(御堂関白記〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)
五月小
四日 戊寅。暁陰 晩ニ及デ、将軍家ヨリ、昌蒲、御枕、〈金銀ヲ鏤ム〉、并ニ御扇等ヲ公家ニ調ヘ進ゼラルト〈云云〉。件ノ御枕ハ、六位ノ定役トシテ、調進スル者ナリ。而シテ御進物ヲ求メラルルノ次ニ依テ、此ノ如シト〈云云〉。
(吾妻鏡【嘉禎四年五月四日】条~国文学研究資料館HPより)
四日 辛巳 今年端午ノ良辰、壬午ニ当ル。必ズ御謹慎有ルベキニ依テ、御勘文、〈故諸陵頭賀茂ノ時定撰ブ〉 一通、并ニ三種ノ神符ノ御護等、 仙洞ヨリ、密密ニ進ゼラル。是レ則チ黄帝ノ秘術ナリト〈云云〉。
去ヌル夜、女房ノ中ニ到来シ、今朝内内進賢スト〈云云〉。
勘文ニ云ク
五月五日丙午壬午ニ当ル年、端午ノ神符ヲ作リテカクレバ、命百年ヲタモツ事
右本文ニ云ク、五月五日丙午壬午ニ当ル年、赤キ紙ヲモチテ、神符ヲ作リテ、カクレバ、寿百歳ナリ。件ノ神符ト云フハ、三徳ナリ。
一ツニハ、辟兵ノ符、此ノ符ヲカクレバ、鉾矢ノ難ヲ、ノガレ、敵人ヲ亡ボシ、我ガ身ニ向フモノハ、ヲノヅカラホロブ。二ツニハ、破敵ノ符、此ノ符ヲカケヌレバ、敵人アヘテヲコラズ。タトヒ弓箭刀兵、我ガ身ニ向フトイヘドモ、害ヲナス事ナシ。皆悉ククダケヲル。三ツニハ、三台護身ノ符、此ノ符ヲカクレバ、三災九厄ノ病難ヲ、ノゾク。三災トハ、盗賊、疾病、飢饉ナリ。此ノ三難ニアヘドモ、一切恐レナシ。皆悉ク消除ス。九厄トハ、諸諸ノ厄難ヲノゾク事ナリ。凡ソ此ノ三種ノ神符ヲ造リテカクレバ、短命ノ者ハ、命ヲ百年ニノベ、敵人有ルモノハ、敵人ヲ亡シテ、我ガ身ハ、ツヅカナク、諸諸ノ厄難ニ逢ヒグラン人ハ、厄難ヲ消除シ、禍殃ヲ、ノゾク事ハ、此ノ神符ノ力ニハ、シカジ。故ニ先例、皆此ノ日ニ当ルゴトニ、此等ノ符ヲ書キテ、御マモリニ用ヒラル。今年ノ五月五日ハ、既ニ壬午ニ当ル。仍テ先例ニマカセテ、公家ニヲコナハルル、誠ニ尤モ此ノ符ヲカケサセ給フテ、百年ノ御寿命ヲ、タモタセ給ヒ候フベク候フ。仍テ注進件ノ如シ。
(吾妻鏡【建長五年五月四日】条~国文学研究資料館HPより)
五月小。五日己酉。晴。鶴岡ノ神事例ノ如シ。越後守〈束帯〉奉幣ノ御使タリ。今日、端午節ヲ迎フ。御所ニ於テ和歌ノ御会有リ。題ハ菖蒲ヲ翫ブ、郭公ヲ聞ク。陸奥ノ式部大夫、相模ノ三郎入道、源ノ式部大夫、後藤ノ大夫判官、伊賀ノ式部大夫入道、波多野ノ次郎経朝、都筑ノ九郎経景等参ズ。両国司披講ノ座ニ候シ給フ。
(吾妻鏡【天福元年五月五日】条~国文学研究資料館HPより)