八月二十日あまりの暁なれば、風の音なひ、冷ややかにしみわたりつつ、鳥の声々もよほし顔なる。月もやうやう山の端(は)近くなれば、さらばと、ゆるし給ふほどのなごりも、いとなかなかなり。
草の葉に露置き帰る暁は暮待つ虫の音(ね)になかれけり
げにぞ、いみじう鳴き枯らしたる声も、取り集め、すごうものあはれなり。女、
身は露の秋の末葉に消え果てて君待つ虫の音(ね)にや絶えなん
と言へる気色もらうたきものから、車の音(おと)の遠うなるまで、聞き臥し給へるに、夜もやうやう明けなんとすれば、今日は白河院へ参りて、しばしも候ひて、秋の気色も心のどかにながめんかしと思しつつ、この院へ御言付けもやと、殿にいとま聞こえさせばやと思すは、まだ夜も明けはなれぬに、心ならずこそと休らはれて(略)、やをら下(しも)におり給ひて、荻の茂りたる中に這ひ入りて、中門の扉に、いささかなる隙(ひま)のあるより見給へば、さながら秋の野辺に埋(うづ)もれたる御前の花、色々露の光もことに置きわたしつつ、虫の声々乱れ合ひたるに、をかしき童(わらは)べの宿直姿なまめかしく、百草(ももくさ)の花よりもけに見えて、小さき虫屋どもをささげて、露かくる気色、しほたれたる花引き直しなどしたるほど、をかしう、絵に書かまほしきに、こなた近き御簾押し張りて、殿をはする。
白き生絹(すずし)どもに、丁子染の御単衣、いといたうしみ返りたるを奉りて、なまめいたる御かたち、言へばえに、若うきよらに、薫れる御にほひなつかしく、光ことにて、小さき呉竹の間近きにかかれる朝顔を、一枝折らせ給ひて、「おのづから栄をなす」とうち誦(ずん)じ給へる御声など、いと、もの異なれど、限りなうめでたきに、奥ざまに向き給ひて、「まれまれめづらしき晴間に、野辺の朝露も曇りなく御覧ぜよかし。ただ一人、心をやりたるもをこがましきに」とて、几帳を押しやり給へれば、やをらすべり出で給へり。
女郎花の御衣(ぞ)のなよらかなるに、映えばかりなる紅(くれなゐ)の単衣、紫苑の織物の小袿、えも言はずうつくしう着なし給ひて、(略)。
(いはでしのぶ~「中世王朝物語全集4」笠間書院)
八月つこもりにてんじやうの人びと。さがのにはな見にいきたるに。中ぐうの大はんどころに。をみなへしのちいさきえだをあふぎのつまをひきやりて。さしたるにかきつけはべる。東宮権大夫
ひとえたのはなのにほひもあるものをのべのにしきをおもひやらなん。かへしこせむのなでしこをおりて源少将
もゝしきのはなやをとれるきりわけてたちまじるらんのべのにしきに。
(栄花物語~国文学研究資料館HPより)
八月卅日に中ぐう行啓あり。蘓芳のこくうすきにほひなとにくさのかうの御そなどたてまつる。いとおかしうなまめかしくめでたき御ありさまなり。月ころのほどにこよなくをとなひさせ給にけるを。あはれにみたてまつらせ給。ふつかばかりおはしましてかへらせ給を。いとあかすくちおしうおぼしめさる。うちの御つかひのきりをわけてまいるもいとおかしうおぼしめさる。
(栄花物語~国文学研究資料館HPより)
八月晦、人のもとに、萩につけて
限りあらむ中ははかなくなりぬとも露けき萩の上をだに問へ
(和泉式部集~岩波文庫)
つごもりがたに風いたう吹て、野わきだちて雨などふるに、つねよりも物心ぼそ うながむるに、れいの御ふみあり。おりしりがほにのたまはせたるに、日比のつみも ゆるしきこへつべし。
なげきつゝ秋のみ空を詠ば雲うちさはぎ風ははげきし
御かへし、
秋風は氣色吹だにかなしきにかきくもる日はいふかたぞなき
(和泉式部日記・図書寮本~バージニア大学HPより)
夜もすがらいみじうののしりつる儀式なれど、いともはかなき御屍ばかりを御名残にて、暁深く帰りたまふ。
常のことなれど、人一人か、あまたしも見たまはぬことなればにや、類ひなく思し焦がれたり。八月二十余日の有明なれば、空もけしきもあはれ少なからぬに、大臣の闇に暮れ惑ひたまへるさまを見たまふも、ことわりにいみじければ、空のみ眺められたまひて、
「のぼりぬる煙はそれとわかねどもなべて雲居のあはれなるかな」
(略)
「深き秋のあはれまさりゆく風の音、身にしみけるかな」と、ならはぬ御独寝に明かしかねたまへる朝ぼらけの霧りわたれるに、菊のけしきばめる枝に、濃き青鈍の紙なる文つけて、さし置きて往にけり。「今めかしうも」とて、見たまへば、御息所の御手なり。
「聞こえぬほどは、思し知るらむや。
人の世をあはれと聞くも露けきに後るる袖を思ひこそやれ
ただ今の空に思ひたまへあまりてなむ」
とあり。「常よりも優にも書いたまへるかな」と、さすがに置きがたう見たまふものから、「つれなの御弔ひや」と心憂し。さりとて、かき絶え音なう聞こえざらむもいとほしく、人の御名の朽ちぬべきことを思し乱る。
「過ぎにし人は、とてもかくても、さるべきにこそはものしたまひけめ、何にさることを、さださだとけざやかに見聞きけむ」と悔しきは、わが御心ながら、なほえ思し直すまじきなめりかし。
「斎宮の御きよまはりもわづらはしくや」など、久しう思ひわづらひたまへど、「わざとある御返りなくは、情けなくや」とて、紫のにばめる紙に、
「こよなうほど経はべりにけるを、思ひたまへおこたらずながら、つつましきほどは、さらば、思し知るらむやとてなむ。
とまる身も消えしもおなじ露の世に心置くらむほどぞはかなき
かつは思し消ちてよかし。御覧ぜずもやとて、誰にも」
と聞こえたまへり。
(源氏物語・葵~バージニア大学HPより)
後一条入道関白身まかりて後、八月末つかた、袖の露も折しも思ひやらるゝよし申たる人の返事に 従二位隆博
思へかしさらてももろき袖の上に露をきあまる秋の心を
(風雅和歌集~国文学研究資料館HPより)
天長六年八月甲戌(二十七日)
貴布禰社・丹生川上雨師社に奉幣した。雨師神には白毛の馬を幣帛に副えて奉納した。これは長雨の止むのを祈願してのことである。
(日本後紀~講談社学術文庫)
承和元年八月己亥(二十一日)
強風と大雨が重なり、樹木が折れたり、根こそぎになり、民の住居が壊れた。このため畿内の名神に急ぎ奉幣し、風雨の止むように祈願した。
庚子(二十二日)
夜、風雨がなお強く、朝になっても収まらず、平安京内の人家があちらこちらで倒壊した。
(続日本後紀~講談社学術文庫)
(安貞元年八月月)廿一日。天晴る。適々秋気に属するの後、草花已に凋零。萩薄の盛りなり。節分の時節、馳するが如し。七旬の余算何日ぞや。
(『訓読明月記』今川文雄訳、河出書房新社)
(正暦五年八月)二十八日。
今日、大臣召の儀が行なわれた。(略)関白(藤原道隆)の二条第において饗饌を設けた。納言以下・弁・少納言・外記・史の座は通例のとおりであった。三献の後、禄事を命じた。史生を召さなかった。禄を下給した後、弁と少納言以下は、通例のとおり下り立つ儀があった。次に卿相が穏座(おんのざ)に着した頃、家公(いえぎみ)の関白がお出ましになった。管絃に堪能な者一、二人が、南階(みなみのきざはし)の下に伺候した。この頃前大納言(源重光)は、家公の召しによって、その座にいた。特別に右四位少将〈宣方。〉・左馬頭〈(藤原)相尹。〉・少納言〈(源)道方。〉を召した。南東の簀子敷に伺候した。宣方が拍子を執った。時に秋風が索々としていた。夜漏、ようやく闌(たけなわ)となって、竹と云い桐と云い、これを唱し、これを調じた。その音を聴くと、錚々(そうそう)としていた。千秋の声が有った。ここで衛門尉(秦)身高が出て、庭中に舞った。身高は年齢がすでに七十歳余りであって、身体は曲折しているものの、春柳の嫋々たるようであった。その際、前大納言は衵を脱いで下給した。次に新大納言〈道頼。〉は、盃を執って源納言に勧めた。「盃が巡行している頃、引出物が有った。小馬〈栗毛。〉であった」と云うことだ。大饗が終わって、各々、分散して帰った。
(権記〈現代語訳〉~講談社学術文庫)
長保元年八月二十九日、己卯。
今夜、院が御出される。内裏に参られた後、今日で七日に当たる。世俗の忌みを避ける為に、左大臣の邸に遷御される。宰相中将と右源中将(成信)が御供に供奉した。この夜、掩韻が行なわれた。深夜に及んだ。秋夜の書懐を題とした。亭青蛍零星醒の六字を定めて韻とし、各々、一首を賦した。明け方、院は土御門第に移御された。
(権記〈現代語訳〉~講談社学術文庫)