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古典和歌をメインにブログを書いてます。歌題ごとに和歌を四季に分類。

古典の季節表現 冬 十一月下旬

2015年11月30日 | 日本古典文学-冬

十一月廿八日左大臣集於兵部卿橘奈良麻呂朝臣宅宴歌一首
高山の巌に生ふる菅の根のねもころごろに降り置く白雪
 右一首左大臣作
(万葉集~バージニア大学HPより)

 しも月廿三夜ふけ行けしき松のあらしとしほのみつにこゝろすこくて
月まつとおほえす更る冬のよのしほにことふるうらの松影
(源孝範集~群書類従15)

正応二年十一月廿八日、賀茂臨時祭の還立またせ給程、上達部殿上人あまたさふらひて夜もすから御歌合なと有ける朝ほらけ、雪さへふりていとおもしろく侍けるを、おなし五年のおなし月日、臨時祭にて雪ふりて侍けれは、おほしめしいつる事ありて、御硯のふたに雪を入て、浄妙寺関白其比こもりゐて侍けるにつかはさせ給ける 伏見院御歌 
めくりあふおなし月日は思ひいつや四とせふりにし雪の明ほの 
御返し 浄妙寺関白前右大臣 
つもれともつかへしまゝのこゝろのみふりてもふりぬ雪の明ほの 
(風雅和歌集~国文学研究資料館HPより)

 宝治二年十一月二十日頃、紅葉御覧じがてら、宇治に御幸し給ふ。をかのや殿の摂政の御程なり 上達部、殿上人、思ひ思ひ色々の狩衣、菊紅葉のこきうすき、縫物、織物あやにしき、かねてより世の営みなり。二十一日の朝ぼらけに出でさせ給ふ。御烏帽子直衣、薄色の浮織物の御指貫、網代庇の御車に奉る。まづ殿上人、下臈より前行す。中将為氏、浮線綾の狩衣、右馬頭房名、基具、菊のから織物、内蔵頭隆行、顕方、白菊の狩衣、皇后宮の権の亮通世、右中弁時継、薄青のかた織物、紫の衣、前の兵衛の佐朝経、赤色の狩衣、衛門の佐親継、二藍の狩衣、成俊、ひはだ、具氏、左兵衛の佐親朝は、結び狩衣に、菊をおきものにして、紫すそごの指貫、菊を縫ひたり。上達部は、堀川の大納言具実直衣、皇后宮の大夫隆親直衣、花山院の大納言定雅、権大納言実雄、花田の織物の狩衣、から野の衣、土御門の大納言顕定 左衛門の督実藤 うすあを、衛門の督通成 かれ野の織物の狩衣、別当定嗣直衣、雑色に野剣を持たせたり。皇后宮の権の大夫師家 萌黄綾の狩衣、浮織物の指貫、紅の衣、土御門の宰相の中将雅家 香の織物の狩衣、御随身、居飼、御厩舎人まで、いかにせんと、色々を尽す。院の御車のうしろに、権大納言公相 緋紺の狩衣、紅の衣、白きひとへにて、えもいはぬ様して仕うまつり給ふ。検非違使北面などまで、思ひ思ひに、いかで珍らしき様にと好みたるは、ゆゆしき見物にぞ侍りし。衛府の上達部は、狩衣の随身に、弓、胡〓を持たせたり。人だまひ二輛、一の車に、色々の紅葉を、濃く薄く、いかなる龍田姫か、かかる色を染め出でけんと珍らかなり。二の車は、菊を出だされたるも、なべての色ならんやは。その外、院の御乳母大納言の二位殿、いとよそほしげにて、諸大夫、侍、清げなる召し具して参り給ふ。宰相の三位殿と聞ゆるは、かの若宮の御母、兵衛の内侍殿といひし、この頃は三位し給へり。今一きはめでたくゆゆしげにて、北面の下臈三人、諸大夫二人心ことにひきつくろひたる様なり。建久に後鳥羽院宇治の御幸の時、修明門院、そのころ、二条の君とて、参り給へりし例を、まねばるるとぞ聞えける。また大納言の典侍とは、藤大納言為家のむすめ、そも別にひきさがりて、いたく用意ことにて参らる。宇治川の東の岸に、御舟まうけられたれば、御車より奉り移る程、夕つかたになりぬ。御船さし、色々の狩襖にて、八人づつ、様々なり。基具の中将、院の御はかせもたる、顕朝御〓参らす。平等院の釣殿に、御船寄せておりさせ給ふ。本堂にて御誦経あり。御導師まかでて後、阿弥陀堂、御経蔵、懺法堂まで、ことごとく御覧じわたす。川の左右の岸に、篝しろくたかせて、鵜飼どもめす。院の御前よりはじめて、御台ども参る。しろがねの錦のうちしきなど、いと清らにまうけられたり。陪膳権大納言公相、役送は殿上人なり。上達部には御台四本、殿上人には二つなり。女房の中にも、色々様々の風流のくだもの、衝重など、由ある様に、なまめかしうしなして、もて続きたる、こまかにうつくし。院の上、梅壺の放出に入らせ給ふ。摂政殿、左の大臣、皆御供に候ひ給ふ。
 又の日の暮つかた、又御船にて、槙の島、梅の島、橘の小島など御覧ぜらる。御遊び始まる。船の内に楽器ども設けられたれば、吹きたてたるものの音世に知らず、所がらは、まして面白う聞ゆるに、水の底にも耳とむるものやと、そぞろ寒き程なり。かの優婆塞の宮の、「へだてて見ゆる」と宣ひけん、「をちのしら浪」も、艶なる音を添へたるは、万折からにや。
(増鏡~和田英松「校註 増鏡 改訂版」)

今年三位入道はこゝのそぢよはひになんみち侍此道にかばかりたくみなる人のいまにより残れる事きし方行末ありがたかめるをこぞの比までは御会のたびにつよづよしげにてまいられしが今年となりてはすこしのみじろぎまなばずとてかきたえまいられずそれにつけても此よのめいぼくをきはめはてさせんとおぼしめしてかの光孝天皇の御時はなの山の僧正仁壽殿にめして賀をたまはれるを例として和歌所にして賀を給べき仰を下さる霜月の廿日あまり三日とさだめられてまづ屏風の歌とてめされ侍り
(略)
(源家永日記~続続群書類従15)

建仁三年、和歌所にて、釈阿に九十賀給はせける時よませ給ける 後鳥羽院御製
百年の近つく杖の代ゝの跡にこえてもみゆる老の坂かな
(新千載和歌集~国文学研究資料館HPより)
建仁三年、和歌所にて釈阿に九十賀給はせける時、銀の杖の竹の葉にかき付へき歌めされけるに 大蔵卿有家
百とせのちかつく坂につき初て今行末もかゝれとそ思ふ
(続後撰和歌集~国文学研究資料館HPより)
和歌所にて、皇太后宮大夫俊成に九十賀給はせける時 後京極摂政前太政大臣
百年に十とせをよはぬ苔の袖けふの心やつゝみかねぬる
(風雅和歌集~国文学研究資料館HPより)
建仁三年十一月、和歌所にて九十賀給はりける時つかうまつりける 皇太后宮大夫俊成
百とせにちかつく人そおほからん万代ふへき君か御代には
 正三位経家
和歌のうらによる年なみをかそへしる御代そうれしき老らくのため
(新拾遺和歌集~国文学研究資料館HPより)
建仁三年十一月、和歌所にて尺阿九十賀たまはせける時よみ侍ける 前中納言定家
君にけふ十とせの数をゆつり置て九かへりの万代やへん
(続拾遺和歌集~国文学研究資料館HPより)

 同(おなじき)三年十一月卅日、院にて舎利講をおこなはれけり。人びとまゐりて後、信西をもて平調・盤渉調の間、さだめ申べきよし仰られければ、内府は、この道にふかゝらずとて、さだめ申されず。左大将雅定・中御門大納言宗輔ぞ平調よろしかるべしと申されける。侍従中納言成通は、盤渉調たるべきよし申されけるとかや。平調たるべきよし、勅定ありけり。内大臣・左大将笙、侍従中納言・左衛門督笛、季行朝臣篳篥、事はてゝ読経ありけり。大納言伊通卿朗詠せられけり。右衛門督公教・季兼朝臣今様をうたふ。次壱(壹)越調・又盤渉調曲などもありけり。左大将、多近方に命じて、国風(くにぶり)をうたはせられけり。さても今度曼歳楽三反ありけるに、その第三反に、雅楽大夫清延、猶半帖を用(もちゐ)たりける、人あやしみとしけり。
(古今著聞集~岩波・日本古典文学大系)

(延暦十一年十一月)乙亥(二十四日) 雪が降った。勤務についている近衛府の官人以下の者に、身分に応じて物を下賜した。
丙子(二十五日) 大雪となり、輿(こし)を担ぐことを任とする駕輿丁(かよちょう)以上の者に、身分に応じて綿を下賜した。
(日本後紀〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)

(天長二年十一月)丙申(二十八日) 嵯峨太上天皇の四十の御齢(おとし)を祝賀した。祝宴は、太陽が西に傾くと、燭(しょく)を点(とも)して続行した。雅楽寮(うたりょう)が音楽を奏し、中納言正三位良岑朝臣安世が冷然院正殿の南階(みなみのきざはし)から降りて舞い、群臣もまた連れだって舞った。日暮れになると雪が降りだし、そのなかを妓女が舞器(ぶき)をもって舞った。夜になって終わり、身分に応じて禄を下賜した。詔りがあり、解由を得ていない四、五位の者たちにも禄を賜わった。また参議以上の者には冷然院の御被(みふすま)を賜わった。
(日本後紀〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)

(長和元年十一月)廿五日戊午。(略)左大臣第詩宴。題云。依酔忘天寒。
(日本紀略~「新訂増補 国史大系11」)

(寛元元年十一月)二十七日、丁丑。
内裏に参った。(略)また天皇の召しが有って御前に参った。作文を行なった。題は、「雪は是れ遠山(えんざん)の花」であった。右衛門督・中宮権大夫・勘解由長官・左大弁(藤原忠輔)・右大弁が伺候した。丑剋に作文会が終わった。すぐに退出した。内御所所(うちのごしょどころ)でも、作文会があった。
(御堂関白記〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)

二十一日 乙巳。雪降ル、 幕府ノ南面ニ於テ、和歌ノ御会有リ。重胤、朝盛等、祗候スト〈云云〉。
(吾妻鏡【承元四年十一月二十一日】条~国文学研究資料館HPより)

三十日。甲戌。霽。今朝初メテ雪降ル。 
(吾妻鏡【貞応元年十一月三十日】条~国文学研究資料館HPより)

二十九日 乙亥 早旦ニ、雪聊カ降ル。庭上偏ニ霜色ニ似タリ、将軍家、林頭ヲ覧タマハン為ニ、永福寺ニ渡御シ御フ。水干、御騎馬ナリ。武州、去ヌル夜ヨリ未ダ退出シ給ハズ、即チ扈従ス。式部ノ大夫、陸奥ノ五郎、加賀ノ守康俊、大夫判官基綱、左衛門尉定員、都筑ノ九郎経景、中務ノ丞胤行、波多野ノ次郎朝定已下、和歌ニ携ハルノ輩ヲ撰ビ召キテ、御共トス。寺ノ門ノ辺ニ於テ、卿ノ僧正快雅参会シ釣殿ニ入御シ、和歌ノ御会有リ。但シ雪気、雨脚ニ変ズルノ間、余興未ダ尽キズ還御。而シテ路次ニ於テ、基綱申シテ云ク、雪雨ノ為ニ全キコト無シト〈云云〉。武州、之ヲ聞カシメ給ヒ、仰セラレテ云ク
  アメノ下ニフレバゾ雪ノ色モミル
  三笠ノ山ヲタノムカゲトテ    基綱
今日六波羅ニ、成敗ノ法、十六箇条、之ヲ仰セ下サルト〈云云〉。
(吾妻鏡【貞永元年十一月二十九日】条~国文学研究資料館HPより)


「山尾」用例

2015年11月25日 | 日本国語大辞典-や・ら・わ行

 「山尾(やまを)」という語は、「山の峰。山の稜線。」という意味です。日本国語大辞典・第二版では、『兼好法師集』(1349年頃か)からの例が早いのですが、さらに、300年以上さかのぼる用例があります。

あしひきのやまをのきぎすなきとよむあさけのすがたみればかなしも
(4・古今和歌六帖、第二、きじ、1183)
『新編国歌大観 第二巻 私撰集編 歌集』角川書店、1984年、210ページ


「薄葺き」という単語

2015年11月23日 | 日本国語大辞典-あ行

 「薄(うす)葺(ぶ)き」という単語は日本国語大辞典・第二版には立項していませんが、以下の用例があります。

くるはるは-かつらきやまや-こえつらむ~(略)~まきのうすふき-めもあはて~
(久安百首、郁芳門院安芸)~日文研HP・和歌データベースより

やまさとの-まやのうすふき-まはらにて-あはぬおもひの-なそやひまなき
(万代集・1820)~日文研HP・和歌データベースより

なお、いわゆる広島県の屋根屋には、厚葺きを主とする高田派と、比較的薄葺きの音戸派があるということを白木町で聞いたが、 (略)
(Ⅲ・生活の諸相)
『広島県史 民俗編』編集・発行 広島県、1978年、991ページ


「苫葺(とまぶき)」用例

2015年11月23日 | 日本国語大辞典-た行

 「苫葺(とまぶき)」という単語の語釈は「苫で屋根を葺(ふ)くこと。また、その葺いた屋根。」とのことで、日本国語大辞典・第二版では、『日葡辞書』(1603-04年)からの例を早い用例としていますが、もっとさかのぼる用例があります。

暁に成にけらしな苫葺(とまぶ)きの蘆刈(あしか)り小舟島つたふ也
(雑廿首、暁、顕仲、1286)
『和歌文学大系15 堀河院百首和歌』明治書院、2002年、236ページ

つるかのおきを-いつるふなひと/とまふきの-やかたにおける-あつさゆみ(「続草庵集」・577)
(日文研HPより)

秋の田のあしのまろ屋のとまふきに雨もらぬまてかくるいねかな(「草根集」9772)
今朝みれは山田の庵とまふきに初霜ふりぬおくてかるへく(「草根集」9783)
(日文研HPより)


「笹葺き」用例

2015年11月23日 | 日本国語大辞典-さ行

 「笹葺き」という単語の語釈は「笹の葉で屋根を葺(ふ)くこと。また、その屋根や家。」で、用例は日本国語大辞典・第二版では、『春夢草』(1515-16年)からの例が早いのですが、さらに、100年以上さかのぼる用例があります。

小山田のいほのささぶき露さむみなれていくよをもりあかすらん
(39・延文百首、藤原実夏、雑十首、田家、1896)
『新編国歌大観 4私家集編2、定数歌編 歌集』角川書店、1986年、570ページ