《卷二嘉祥三年(八五〇)九月壬午【八】》○壬午。遣宮主正六位下占部雄貞。神琴師正六位上菅生朝臣末繼。典侍正五位下藤原朝臣泉子。御巫无位榎本連淨子等。向攝津國祭八十嶋。
(日本文徳天皇實録~『増補 六国史 巻八』(佐伯有義、朝日新聞社)
《承平三年六月》廿五日庚午。典侍滋野朝臣於難波津行八十嶋祭。
(日本紀略~『新訂増補 国史大系 第11巻』国史大系刊行会、1929年)
(長和二年十月)二十九日、丁亥。
左仗座に着した。官奏を奏上した。夜に入った。これは、文書の上申が遅々としていたことによるものである。内裏から退出した。八十島祭使を出立させた。典侍一人と女官たち、それに蔵人と神祇官の官人たちであった。中宮と東宮の使も出立した。諸宮の使は出立しなかった。もしかしたら出立すべきだったのであろうか。未だ決定していない。
(御堂関白記〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)
《建久二年》十一月九日甲寅。被立八十嶋祭使。掌侍従三位藤原保子。蔵人左衛門尉源仲景。
十一日丙辰。八十嶋祭也。宮主神祇権大祐兼基。陰陽助済憲等向祭庭。云々。
(百錬抄~『新訂増補 国史大系 第11巻』国史大系刊行会、1929年)
《元久二年八月》廿九日。被立八十嶋祭使。御乳母典侍前大納言隆房卿娘。上皇於鳥羽殿御見物。
(百錬抄~『新訂増補 国史大系 第11巻』国史大系刊行会、1929年)
後白河院御時、やそしまのまつりにすみよしにまかりて読侍ける 権中納言長方
神垣やいそへの松にことゝはんけふをは世ゝのためしとやみる
(新勅撰和歌集~国文学研究資料館HPより)
後白河院御時、やそ島の祭に、住吉にまかりてよみ侍ける 権大納言隆季
住の江に八十島かけてくる人や松をときはの友とみるらん
(新拾遺和歌集~国文学研究資料館HPより)
後白河院位御時、八十島の使にて住吉にまうてゝ読侍ける 従二位朝子
すへらきの千世のみかけにかくれすはけふ住吉の松をみましや
(玉葉和歌集~国文学研究資料館HPより)
建久二年、やそ島のまつりに住吉にまかりて読侍ける 西園寺入道前太政大臣
君か代は八十島かくる波の音に風しつかなり住の江の松
(新拾遺和歌集~国文学研究資料館HPより)
後鳥羽院御時、やそしまのまつりに読侍ける 津守経国
あめのしたのとけかるへし難波かた田蓑の島にみそきしつれは
(新後撰和歌集~国文学研究資料館HPより)
四条院御時、八十島祭使の事承て侍けるに、ことたかひてさも侍らさりけれは、そのゝち住吉にまうてゝ、我家に代々このつかひつとめ侍ける事なと思ひつゝけてよみ侍ける 兵部卿隆親
みそきせし末とたにみよ住吉の神もむかしを忘れはてすは
(続古今和歌集~国文学研究資料館HPより)
住吉の行宮におましましける頃人々色々心ばへを尽して風流の破子ども奉りける中に神主国量八十島の祭のかたを作りて奉りけるを御覧じて 後村上院御製
御祓する八十島かけていましもや浪治まれる時は見えけり
この御製をうけたまはりて 従三位国量
君が代のあり数なれやみそぎする八十島広き浜のまさごは
(新葉和歌集~校註国歌大系9)