九条前内大臣家に、壬生二位参て、和歌のさたありけるに、二月の事なりけるに、雪にあまづらをかけて、二品にすゝめられけり。食ひはてゝ、「この雪猶候はゞ、給(たまはり)て二条中納言定高のものへつかはし候はむ。彼(かの)卿は雪くひにて候なり」と申ければ、すなはち硯蓋にもちて、いだされたりけるを、つかはしたりければ、彼(かの)卿の返しに、
心ざしかみのすぢともおぼしけりかしらの雪かいかのこの雪
よまれにたりとて、二品しきりに興に入けり。
(古今著聞集~岩波・日本古典文学大系)
建保二年二月内裏に詩歌をあはせられ侍りけるに、野外霞をよみはへりける 前中納言定家
松の雪きえぬやいつこ春の色に都の野へはかすみ行比
(玉葉和歌集~国文学研究資料館HPより)
二月にくらまにまうてしに岩まの水のしろくわきかへりたるか雪のやうにみえしに
きえはてぬ雪かとそみる谷川の岩まをわける水のしら波
(赤染衛門集~群書類従15)
(二品有智子)内親王は、嵯峨太上天皇の寵姫であった交野女王の所生であった。『史記』と『漢書』によく通じ、併せて文章を得意とした。初め賀茂斎院となり、弘仁十四年春二月に嵯峨天皇が斎院の花宴に行幸し、文人に「春日の山荘」の題で詩を作らせたことがあった。それぞれが韻を踏むことに努めたが、内親王は塘・光・蒼の韻を求め得た。すなわちそこで筆に墨して、次の詩を書きつけた。
寂々幽庄水樹裏、仙輿一降一池塘、
栖林孤鳥識春沢、隠澗寒花見日光、
泉声近報初雷響、山色高晴暮雨行、
従此更知恩顧渥、生涯何以答蒼穹。
(後略)
(続日本後紀〈全現代語訳〉承和十四年冬十月戊午(二十六日)条~講談社学術文庫)
(天治元年閏二月)十二日。両院臨幸法勝寺。覧春花。太政大臣(雅実)。摂政(忠通)以下騎馬前駈。内裏中宮女房連車追従。男女装束裁錦繍金銀。於白河南殿。披講和歌。内大臣(有仁)献序。
(百錬抄~「新訂増補 国史大系 11」)
あるところにしのびておもひたつ。なに許ふかくもあらずといふべきところなり。のやきなどするころの、はなはあやしうおそきころなればをかしかるべきみちなれどまだし。いとおくやまはとりのこゑもせぬものなりければうぐひすだにおとせず。水のみぞめづらかなるさまにわきかへりながれたる。いみじうくるしきまゝに、かゝらであるひともありかし、うきみひとつをもてわづらふにこそはあめれと思ふ思ふ、いりあひつぐるほどにぞいたりあひたる。みあかしなどたてまつりてひとすぢ許たちゐするほどいとゞくるしうて、夜あけぬときくほどにあめふりいでぬ。いとわりなしとおもひつゝ法師の坊にいたりて「いかがすべき」などいふほどにことゝあけはてゝ「みのかさや」と人はさわぐ。我はのどかにてながむればまへなる谷よりくもしづしづとのぼるにいとものがなしうて
おもひきやあまつそらなるあまぐもをそでしてわくる山ふまんとは
とぞおぼえけらし。あめいふかたなけれどさてあるまじければとかうたばかりていでぬ。あはれなる人のみにそひてみるぞ我がくるしさもまさる許かなしうおぼえける。
(蜻蛉日記~バージニア大学HPより)
元弘二年の春にもなりぬ。(略)二月の頃、空の気色のどやかに霞み渡りて、ゆるらかに吹く春風に、軒の梅なつかしく香りきて、鴬の声うららかなるも、うれはしき御心地には、物憂かる音にのみ聞こし召しなさる。ことやうなれど、上陽人の宮の中思ひよそへらる。長き日影もいとど暮らし難き御慰めにとや聞こえ給ひけん、中宮より御琵琶奉らせ給ふついでに、いささかなるもののはしに、
思ひやれ塵のみつもる四の緒に払ひもあへずかかるなみだを
げにと思し召しやるに、いと悲しくて、玉水の流るるやうになん。御返し、
かき立てし音をたち果てて君恋ふる涙の玉の緒とぞなりける
(「校註 増鏡」和田英松)
大納言忠頼の七十賀の屏風に、桜の散るを仰ぎて立てる人描けるところ よみ人知らず落窪
桜花散るてふことは今年より忘れてにほへ千代のためしに
(風葉和歌集~岩波文庫)
久寿二年二月、人丸影を清輔朝臣に伝ける時、花下言志といふ事を 左京大夫顕輔
命あれはおほくの春にあひぬれとことし計の花は見さりき
(続古今和歌集~国文学研究資料館HPより)
二月ばかり、人の頼めて来ずなりぬるつとめて
夜(よ)のほどもうしろめたきは花の上を思ひがほにて明かしつるかな
(和泉式部続集~岩波文庫)
二月にもなりぬ。(略)雨いたう降りて、いとのどやかなるころ、かやうのつれづれも紛らはし所に渡りたまひて、語らひたまひしさまなどの、いみじう恋しければ、御文たてまつりたまふ。
(源氏物語・真木柱~バージニア大学HPより)
かくて、きさらぎの頃にや新院いらせおはしまして、ただ御さしむかひ、小弓をあそばして、「御まけあらば、御所の女房たちを上下みな見せたまへ。我まけまゐらせたらば又そのやうに」といふ事あり。この御所御まけあり。(略)
中の御所の広所(ひろどころ)を、びやうぶにへだてわけて、廿四人出でたつさま、思ひ思ひにをかし。さて風流のまりをつくりて、ただ新院の御前ばかりに置かむずるを、ことさら、かかりのうへへ、あぐるよしをして、おつる所を袖にうけて、くつを脱ぎて新院の御前に置くべしとてありし。(略)
南庭の御簾あげて、両院・春宮、階下に公卿両方に着座す。殿上人は、ここかしこにたたずむ。へいのしたを過ぎて南庭をわたる時、みな、めのとども、色々の狩衣にてかしづきに具す。新院、「交名(けうみやう)をうけたまはらん」と申さる。御幸(ごかう)、ひるよりなりて、九献も、とくはじまりて、「おそし、御まりとくとく」と奉行為方せむれども、「いまいま」と申して松明をとる。やがて面々のかしづき、脂燭(しそく)をもちて、「たれがし、ごたちのつぼね」と申して、ことさら御前へむきて、袖かきあはせて過ぎしほど、なかなか、ことのはなく侍る。下八人より、しだいにかかりの下へまゐりて、面々の木の本にゐるありさま、われながらめづらかなりき。まして上下男たちの興に入りしさまは、ことわりにや侍らん。御まりを御前に置きて、いそぎまかり出でんとせしを、しばし召しおかれて、そのすがたにて御酌にまゐりたりし、いみじくたへがたかりし事なり。
(問はず語り~岩波文庫)
屏風に、二月山田うつところにかへるかりなとある所をよみ侍ける 大中臣能宣朝臣
かりかねそけふかへるなる小山田のなはしろ水のひきもとめなん
(後拾遺和歌集~国文学研究資料館HPより)
手を折りてかき數ふれば梓弓春は半ばになりにけるかな
(良寛歌集~バージニア大学HPより)