『洗心』を否定するものではない。
それどころか何十年も実践しつつ推奨しその重要性を説いてきた。
しかし鑑みるにともすれば過去宗教的固持となりやすく 自分の中では
『洗心を超えたところに眞の洗心がある』との逆説的提言も辞さない
心理状況となっている。
まさにこの世の多くの理想を掲げての提言が その実多くの実践家の
足を内から引っ張っている事実を散見する現状がある。
『洗心』にその因があるのではない。
洗心を本来実践するならば「心を洗う」という言葉の概念印象からではなく
『人』が自然量子器械という真実相から紐解き立ち上げねばならないが
表層記憶に捉われるために
生体クライン全体を立体透過(=超客観)することが
なかなか出来ないのが人間の実情なのである。