洗心 senshin

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二年前の記事。「如何であろうか。」

2024-11-02 10:38:33 | つぶやき

一年前の記事。「如何であろうか。」

 如何であろうか。先ずはこの五感認知の三次元現実をどのように捉えるかだけどやはり二元論的な概念時空として認識してしまっているという現状であるからこの地球時空間......

先ずはこの五感認知の三次元現実をどのように捉えるかだけど
やはり二元論的な概念時空として認識してしまっているという現状であるから
この地球時空間の成り立ちまでを次元的に立体俯瞰していくことそのものが
困難な表層意識に陥っているのではないかと思われる。
 
これらの思考について口火を切ると 膨大な既知概念との闘いになるので
そこは敢えてスルーして簡便な忘備録に徹したい。
(どうでもいいこととまでは言わないが
考えなくても大勢に影響なしと人生経験上観ている)
 
要は あらゆる表層思考既成概念について それほど真剣に意識の深層に
取り込むまでの存在論に拘わるほどの価値性はないということである。
 
明らかなその証左はあなたがたが表層脳現実を洗脳される前に
あなた方自身の深層意識が創造され そこに表層五感のクライン環が
自然成生されて地上に産まれてきたという真実である。
 
つまり(喩えが跳躍するが)知識上で云々する「宇宙」があろうとなかろうと
『今』あるあなたがたの存在構造は何も変わらないのだ。
地球が球体であろうと平盤状であろうとあなたがたのクライン環としての
存在意義は原初創造の神の意中にあるということなのである。
 
であるから 「人間」として表層概念の五里霧中を彷徨うよりも
『人』として自然量子ネットワークに霊魂の底力で繋ぎ合って
元からある創造主の根源愛と叡智を浮上させる方が遥かに合理的であり
存在理念に適うと考えるのであるが如何であろうか。
 
… … … … … 
 
(一年前の感想)
この一年前の文章内容は 吾ながらよく言葉に集約できたと思う。
同じ自分であっても その時々の意識状態により意念内容を言葉に写し取ることは そうは簡単にいかないものである。
 
だからこそ こうして備忘録として日々の意念想念周波数のスケッチが重要なのである。 思いもかけないフレーズが 後から原初光煌めく玉石となって ゆく手を照らしてくれるからである。

(本年の感想)
こうして 一年~二年に亘り備忘録を記録吟味出来るという『自然クライン環』共鳴を地で行く環境に恵まれることは まさに天の廻りであり最高集約の授かりであろう。心して『創造原初』を磨いてゆきたいものである。

一年前の記事。「自然界と周波数共振を心ゆくまで愉しんだ。」

2024-11-02 10:01:13 | つぶやき

自然界との周波数共振を心ゆくまで愉しんだ。

昨日は所用あり 若干の遠出をした。用事を終え 紅葉を楽しもうと山を目指した。暫らく走ると 山間部ののどかな田園地帯。桃源郷へと迷い込んだように気分は異次元界にアクセス......

昨日は所用あり 若干の遠出をした。用事を終え 紅葉を楽しもうと山を目指した。暫らく走ると 山間部ののどかな田園地帯。桃源郷へと迷い込んだように気分は異次元界にアクセスしているかのようである。
 
このまま 導かれるままに走ろう。スマホのナビも入れず 感覚のままに走る。さらに走ると一度も来たこともない初めて見る景色ばかりが遠ざかる。気が付けば山道はどうやら峠を目指しているらしく うねうねと急な登坂が続く。
 
田園地帯では蝶たちも頻繁に翔び交い賑やかであったが 森にさしかかると生態系はがらりと変わる。最近ではクマ目撃情報も多いし気を付けねばと慎重になる。以前はこれほどの山奥に来たならばキノコを求めて入山したものだが 十数年ほど前に深山の精霊たちの声無き声を聴いてからは最近は自重している。
 
結局 何か所かの紅葉スポットを楽しみ 秋の広葉樹の懐かしい匂いを嗅ぎ手付かずの自然界との周波数共振を心ゆくまで愉しんだ。タイミングよくカモシカとも出逢ったが 彼はまだ若く人慣れしていない様子で 一瞥をくれると山の急斜面をありえない跳躍力で駆け下りたのであった。
 
もしかしたら崖に近い急斜面を駆ける雄姿を見て欲しかったのかもしれない。目に焼き付いた彼の姿を後から解析するとそんな気がする。

… … … … … 

やはり 自然は自然である。ただし今の自然は数千年の人為浸食からその手を遁れ 自然本来の姿に還ろうとしている。「人間」は拒否され『人』のみが残される。太古の創造原初に還ろうとしているようだ。

自然はそれらの未来シナリオを自然の本質として 時には見せてくれる。『人』は根源本質に近づけるよう いつ何時も『己』を磨き続けねばならない。