一関の朝。この日、岩手では各紙一面トップ、昨日には地元紙が
号外を出していた「平泉」。中尊寺金色堂へ。
1124年。奥州藤原氏が、それまでに起こった大きな紛争での死者を
弔う意味で建てたそうだ。堂々と世界遺産に値する素晴らしい建築物だと
思ったし、広い境内一帯がとても平和的で、うれしかった。
・気仙沼の避難所、中学校
一関に戻り、災害支援NGOで働くYさんと合流。
彼女たちが支援している場所のひとつ、気仙沼市内の中学校に行く。
避難所と、学校と。共存の難しさなどを聞く。
なんというか、「どうするべきだ」「どうした方がいい」といったことは、
外の人ではわからないというか、言えない部分が多い。
中にいる人たち同士でなければ。
五百人もいる避難者たちや、自身らも被災しているはずの先生たちや生徒たち。
そこから、改善や前に進むための動きが出てくるしかない。
「こうしましょうよ」、とうまく持っていくには、やっぱり、ほかの地元の人の
力がいるのではないかな。
私のような「外の人」は、被災者がそういう気力が出てくるように、
周りからじわじわと(?)何か助けになれることをするしかない。
これを無力感というのかもしれないけど、仕方がない。
・陸前高田
陸前高田を通って一関に帰り、そこから夜行バスに乗るべく仙台へ。
陸前高田は、川に沿って津波が奥へ奥へ、入り込んだのだろう。
市内中心部の川を渡るのにだいぶ上流まで車を走らせ、
そのどこもが津波の被害にあっていた。
ここにはまだ、警察のチームがところどころにいて、おそらく捜索活動をしている。
広くて、途方もない。
気仙沼から十五分ほどで来られるが、ここは気仙沼に比べれば
海沿いから高台までの距離が遠い。
「だから避難が遅れて、死者が増えてしまった」という新聞の記述を
読んだ気がするが、どうやったらもっと、きちんと伝えられるのだろう。
新聞では無理なのかもしれない。それなら、新聞の得意分野をもっと
追求しなくちゃいけない。
これを書いている途中、NHKのお昼のニュースで、陸前高田での小学校の
始業式が映された。あの瓦礫の町を、スクールバスで通うのだそうだ。
それ自体が私にとっては苦しいことに見えたが、体育館に並ぶ子供たちを見て
少なくとも、これだけの子供は生きていて、学校に来られる状態なのだと
思うと非常に安心する。
被災後の、車が通れる程度には瓦礫が片付けられた後が、初めての「陸前高田の景色」
という私にとっては、やっぱり生気を感じられなかったから。
無事仙台でバスに乗り、山形経由で金沢に帰りました。
目的のひとつであった「東北でお金を使う」だけは、結構達成できました。
ちゃんとビジネスホテルOR観光ホテルに泊まったし。
つらつらとした文章にお付き合いありがとうございます。
続いて、「考えたこと」編を書くつもりです。
号外を出していた「平泉」。中尊寺金色堂へ。
1124年。奥州藤原氏が、それまでに起こった大きな紛争での死者を
弔う意味で建てたそうだ。堂々と世界遺産に値する素晴らしい建築物だと
思ったし、広い境内一帯がとても平和的で、うれしかった。
・気仙沼の避難所、中学校
一関に戻り、災害支援NGOで働くYさんと合流。
彼女たちが支援している場所のひとつ、気仙沼市内の中学校に行く。
避難所と、学校と。共存の難しさなどを聞く。
なんというか、「どうするべきだ」「どうした方がいい」といったことは、
外の人ではわからないというか、言えない部分が多い。
中にいる人たち同士でなければ。
五百人もいる避難者たちや、自身らも被災しているはずの先生たちや生徒たち。
そこから、改善や前に進むための動きが出てくるしかない。
「こうしましょうよ」、とうまく持っていくには、やっぱり、ほかの地元の人の
力がいるのではないかな。
私のような「外の人」は、被災者がそういう気力が出てくるように、
周りからじわじわと(?)何か助けになれることをするしかない。
これを無力感というのかもしれないけど、仕方がない。
・陸前高田
陸前高田を通って一関に帰り、そこから夜行バスに乗るべく仙台へ。
陸前高田は、川に沿って津波が奥へ奥へ、入り込んだのだろう。
市内中心部の川を渡るのにだいぶ上流まで車を走らせ、
そのどこもが津波の被害にあっていた。
ここにはまだ、警察のチームがところどころにいて、おそらく捜索活動をしている。
広くて、途方もない。
気仙沼から十五分ほどで来られるが、ここは気仙沼に比べれば
海沿いから高台までの距離が遠い。
「だから避難が遅れて、死者が増えてしまった」という新聞の記述を
読んだ気がするが、どうやったらもっと、きちんと伝えられるのだろう。
新聞では無理なのかもしれない。それなら、新聞の得意分野をもっと
追求しなくちゃいけない。
これを書いている途中、NHKのお昼のニュースで、陸前高田での小学校の
始業式が映された。あの瓦礫の町を、スクールバスで通うのだそうだ。
それ自体が私にとっては苦しいことに見えたが、体育館に並ぶ子供たちを見て
少なくとも、これだけの子供は生きていて、学校に来られる状態なのだと
思うと非常に安心する。
被災後の、車が通れる程度には瓦礫が片付けられた後が、初めての「陸前高田の景色」
という私にとっては、やっぱり生気を感じられなかったから。
無事仙台でバスに乗り、山形経由で金沢に帰りました。
目的のひとつであった「東北でお金を使う」だけは、結構達成できました。
ちゃんとビジネスホテルOR観光ホテルに泊まったし。
つらつらとした文章にお付き合いありがとうございます。
続いて、「考えたこと」編を書くつもりです。