「ソ満国境15歳の夏」という映画がある。夏八木勲の遺作ともなった。新京第一中学の生徒120人が関東軍の南下のためのカモフラージュとして国境へ勤労動員として送られた。ソ連の参戦によって逃避行の末、生き延びたその歴史を私たちはどう学ぶのか?実際にその生徒の一人であった倉科武夫さんのお話を聞きました。(動画あります)
新京第1中学校の生徒120人余が勤労動員としてソ連と満州の国境近くに送られた。1945年5月5日牡丹江で電車に乗ると憲兵が来てブラインドを降ろされた。隙間から覗くと50両以上の貨物列車に兵隊と野砲などの火器が積み込まれ南の方へ向かって行った。「東寧は大丈夫か、兵隊のいない所へ学生を送らないだろう」と噂をしていた。
しかし現実は、関東軍は満州の3分の1を放棄し、南下していたのである。8月8日ソ連の参戦で逃避行が始まる。夕食を食べていたらソ連の方から轟音が鳴る。サーチライトが夜空を照らし、戦車のキャタピラの音がする。夜中、兵舎に触れそうな低空飛行で戦闘機が飛んで行った。「関東軍が攻撃に行った」と思っていたが、ソ連軍が攻撃をした後の帰還であった。
教官は「すぐに荷物をまとめろ」というが、中隊長は「麦刈りに行け」という。教官は「この子たちは親から預かっている」と主張して前線を引き上げることになった。
逃避行の末、ソ連軍につかまり収容所へ送られる・・脱走を試みたが捕まり、銃殺になる寸前に収容所の責任者のニコライの配慮で助かる。その後、脱走した人の情報で、新京の家族に安否が伝わり、迎えが来た。そのとき既に衰弱していた仲間は父親の腕の中で息を引き取った・・・
?なぜ新京第一中学の生徒が前線に送られたのか
日本が満州を放棄し関東軍が前線を離れることと兵力の弱体化を隠す囮に使われたのではないか。
?120人が奇跡的に生き延びることができたのはなぜか
指導教官の斉藤先生が、東寧の駅で夕食を食べているとき「国からも、軍隊からも見捨てられた。悔しかったら新京へ帰る。こんな国は勝てない。どんな国にするか考えろ」と言われ、とにかく生きて帰ることを考えていた。
・・・関東軍が満州を捨てる時には、陸軍の中でも日本が負けることを知っていて、1年生だけに「ソ連が攻めてきたら負ける」と語った隊長もいたそうだ。
映画「ソ満国境15歳の夏」松本上映のご案内
4月23日(土)①10:00~ ②14:00~ ③18:30~
松本ピカデリーホール
10:00、14:00上映後、奥原一男監督(松本市波田出身)のトークあり