1988年の皐月賞・1990年の天皇賞(秋)の2つのG1を制したヤエノムテキが腸閉塞により死去した。
ヤエノムテキは僕が競馬を本格的に始めた時期に応援していたこともあり、愛着という意味では今でも一番の馬である。ヤエノムテキの思い出というか全てのレースについて語るとかなり長くなるので、ヤエノムテキが出走した23レースのうち4レースを紹介する。
Ⅰ.沈丁花賞 1988年
ヤエノムテキという馬を知るきっかけとなったレースである。
クラッシック目前の2月下旬にデビューしたヤエノムテキは、阪神競馬場で行われたダートの新馬戦を圧勝し、2走目に選んだのが中京競馬場で行われた沈丁花賞(ダート 1700メートル)であった。
新馬戦での勝ちっぷりが評価されたのか、中日スポーツの印も全員が◎でいかにして勝つかが焦点だった。レースは鞍上の西浦騎手が4角で後ろを振り返る余裕で、2着に2秒以上の大差をつける圧勝で、テレビ観戦した僕に相当なインパクトを残したレースだった。
Ⅱ.皐月賞 1988年
沈丁花賞を圧勝後、連闘で臨んだ毎日杯は初の芝と道悪が影響し、笠松から来た怪物オグリキャップの4着に敗れたが、次のレースは強気にも皐月賞に登録をし、6分の3の抽選を潜り抜けて皐月賞の出走権を得た。
ヤエノムテキに幸いしたのは、この年は皐月賞が中山競馬場が改修中の為、東京競馬場で行われたことと、1枠1番という絶好枠を引いたことである。運を味方につけたヤエノムテキは、ディクターランド以下の追撃を抑え、皐月賞馬の栄冠に輝いた。
皐月賞でこの馬の本格的なファンになった。
Ⅲ.宝塚記念 1990年
皐月賞を制した後、菊花賞の大敗以外は、UHB賞(オープン特別)・京都新聞杯(G2)・鳴尾記念(G2)・大阪杯(G2)を制すなど、4歳の前半までは順調だったが、宝塚記念で1番人気を裏切り大敗すると、微妙にスランプ状態に陥り、勝ちきれないレースが続くようになった。
5歳になり、日経新春杯・マイラーズカップ・大阪杯と2・3着が続いた結果、これまで鞍上を務めていた西浦騎手から岡部騎手にチェンジするという荒療治に出た。安田記念(G1)では、オグリキャップには勝てなかったものの2着を確保し、次に出走したのが、宝塚記念であった。
当時、関西圏に住んでいたので、ヤエノムテキが出走するということもあり、阪神競馬場まで見に行ったのが今でも良い思い出となっている。当時の競馬人気はすさまじく、パドックもかなりの人だかりで、馬が豆粒レベルの大きさでしか見えなかったので、ヤエノムテキの実物の印象はない。レースはオグリキャップの圧勝と思われていたが、伏兵のオサイチジョージが快勝し、オグリキャップが2着、ヤエノムテキは3着だったが、ゴール前ではオグリキャップに迫るシーンもあり、あきらめずにゴールまで走るヤエノムテキにそれなりに満足して家路についた。
Ⅳ.天皇賞(秋)
宝塚記念の後は休養をはさんで、ぶっつけ本番で天皇賞(秋)に出走した。レースは京都競馬場のターフビジョンで見ていたが、直線に向いたときに一瞬のすきを突いて先頭に立った時には、「よしっ!行け!」という感じだったが、東京競馬場の直線は長い。しかし、断然人気のオグリキャップは後方で伸びず、後方から迫ってきたメジロアルダンをギリギリ頭差しのいだところがゴールだった。府中の2000メートルでの2つ目のG1制覇の瞬間であった。
その後、ジャパンカップでは6着、最後のレースとなった有馬記念では鞍上の岡部騎手を振り落とす一人引退式を勝手に敢行し、ターフに別れを告げた。G1レースは2勝しかできなかったが、オグリキャップ・スーパークリーク・サクラチヨノオー・サッカーボーイ・バンブーメモリーなど同期の強豪に囲まれての結果でもあり、素晴らしきライバルがいたからこそ、ヤエノムテキの存在感も脇役であることが多かったものの光る部分があったのでは・・・と思う。
引退後は新冠畜産センターに会いに行くなど何度かヤエノムテキを訪問し、種牡馬として成功することを願っていたが、残念ながら種牡馬としては準オープン馬・地方競馬の重賞勝ち馬は輩出したものの、さほど成功することもなく、ヤエノムテキの血を引く馬も絶滅寸前状態となっている。
種牡馬を引退したのちは有志の支えもあり、余生を無事過ごすことができたのは、ヤエノムテキにとってもヤエノムテキの一ファンであった僕にとっても幸せなことだったと思う。
「29歳まで元気で生きてくれてありがとうムテキ。 ご冥福をお祈りします。」
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます