どんぴんからりん

昔話、絵本、創作は主に短編の内容を紹介しています。やればやるほど森に迷い込む感じです。(2012.10から)

大木の秘密・・山形

2024年03月27日 | 昔話(北海道・東北)

        山形のむかし話/山形とんと昔の会・山形県国語教育研究会共編/日本標準/1978年

 

 中津川の山の上に大きなスギの木が生えていた。一晩たつと一尺、二尺のびして、くにじゅうのどこからも見えるほどになった。「大スギのために、酒田の海がみなかげになってしまって、魚がよりつかなくなった。このへんの漁師が困っているから、スギの木を切ってくれ」と、いわれた中津川の村の人が相談するがなんともならない。

 そこで、酒田と中津川から若いもんをだして、大スギの木にのこぎりを入れることにした。ところが毎日ズイコズイコとのこぎりでひいても、つぎの朝になると、みんなきのうののこぎりのあともみえないように、もとどおりになってしまった。切りはじめてから、ひと月ふた月たっても、スギの木はびくともしないで、のびてのびて、先の方は天まで届いてしまった。

 お盆が来る頃になったとき、たんぼのほとりに生えたミソハギが、村の一本松からうわさを耳にした。一本松がいうことには「毎日のこぎりを入れられているから、山じゅうの木という木が毎晩見舞いにいっているから、おらも今晩見舞いに行く」という。そこでミソハギも、一本松と見舞いにいくと、山じゅうの木はみんな集まって、今日の昼にでたのこぎりくずをひろってきては、大スギの切り口に、べたべたはりつけている。

 大スギは、ミソハギをぎょろりとみて「おめえはだれだ。このあたりでは見たことがねえが」というもんで、「一本松と見舞いにきた」というと、「ミシハギざあ、木の仲間でねえべな。草でねえが」と、さげすむようにいった。おこったミソハギは、すぐ村に帰ると、木切の若いもんに教えたそうだ。「夜になったら、山の木が見舞いにきて、のこぎりくずをひろって、みなべたべたはりつけるのよ。だから、その日ののこぎりくずは、その日のうちに燃やしてしまえば、あの大スギもたおれんべ」。

 それから村の衆は、その日ののこぎりくずをその日のうちに焼いてしまったから、さしもの大スギも、一週間めには、どうとたおれてしまった。それからは、村にも日がさし、酒田の海にも、また魚がよってくるようになった。

 ミソハギは多年草で、湿地や田の畔などに生えているという。

 一寸の虫にも五分の魂といったところか。


なら梨とり

2024年03月27日 | 昔話(日本)

 病気の母親のために、兄弟がなら梨をとりにでかけ、三人兄弟の末っ子が、なら梨を持ち帰るのに成功するのですが、でかけていく途中のリズムが楽しい話です。

なら梨とり(子どもに語る日本の昔話3/稲田和子 筒井悦子/こぐま社/1996年初版)

 病気の母親のため、三人兄弟がなら梨をとりにくという出だし。
 「いげっちゃガサガサ」「いぐなっちゃガサガサ」というフレーズが話の世界にひきこんでくれます。
 こぐま社版では、青笹、からす、ふくべが道をしめしてくれます。


山梨もぎ(かたれやまんば/藤田浩子)

 行く方向をしめしてくれるのが笹、鳥、滝で、ちんこいわらしが大きくなって、上の二人をのみこんでしまいます。

 三人兄弟が、病気の母親のために、山へ梨を取りに行きますが、次男の扱いは、長男と同様とそっけないものがあるなかで、藤田さんのものは次男についても丁寧にふれられています。しかし同様の繰り返しが続くので、さらっといきたい場合もあります。

 藤田さんのは、読んでいて楽しいのですが、福島弁なのでどうしたものか悩むところ。

 藤田さんは、子どもや大人など、そのときの相手によって、こまかいところにこだわらず、あなたの言葉で、あなたの思いで語ってみてくださいというのですが、いざとなると難しい。
 
なら梨とり(日本の昔話4 さるかにかっせん/おざわとしお・再話 赤羽末吉・画/福音館書店/1995年初版)

 この再話では、おばあさんではなく、おじいさんが道を示してくれます。
 羽をいためたすずめがでてきて、上の二人はすずめを見捨てますが、末っ子がこのすずめを助けたことから、このすずめに助けられます。青鬼、赤鬼が上の二人を呑み込んでしまうという展開。

・ほうらじ山の山ナシ(宮城のむかし話/「宮城のむかし話」刊行委員会編/日本標準/1978年)

 病気の母親が、ほうらじ山の山ナシを食べたいというので、一番上の太郎がほうらじ山にでかけます。

 茶屋のおどっつぁまに教えられて山ナシをとりにいきますが大きなオニに呑み込まれてしまいます。二番目の次郎も同じ運命に。

 三郎もオニに吞み込まれそうになりますが、三郎はオニに組みついて池のなかに投げ込んでしまいます。

 ほかの話では、ここで山ナシを母親のもとへとどけるのですが、ここからまだ話が続きます。

 オニを追いかけた三郎は、オニの屋根裏にあがって、オニが焼いたもちを竹でズックリさして食べてしまいます。さらに唐戸で寝たオニの鼻にお湯をそそぎ、お湯をつぐのをやめると、太郎、次郎がオニの鼻の穴からでてきます。そこで三人で家に帰ります。

 最後は「牛かたと山姥」風。

 行く方向を示してくれるのは、「帰れやささくさ、帰れやささくさ」「行けやささくさ、行けやささくさ」と、笹だけです。

 山への距離感も半端ではありません。これまでのなかでいちばん長い話です。

・ナラナシとり(山形のむかし話/山形とんと昔の会・山形国語教育研究会編/日本標準/1978年)

 ナシはざんざん山にあります。兄弟の行く道をしめしてくれるのが白い髭を生やした老人。牛がねていたり、フジつるがでてきます。牛のしっぽをふんで、おきたらいけばいいし、おきなければもどってくるようにアドバイスされます。さらに滝の音が、「いくな ざんざん いけざんざん」と聞こえてきます。

ならなしとり(女の子の昔話 日本につたわるとっておきのおはなし/中脇初枝・再話/偕成社/2012年初版)

 ちょっとかわっていて兄弟を姉妹に置き換えて?再話されています。

 確かに兄弟を姉妹に置き換えても違和感がないのですが、それでは姉妹が活躍する話を、兄弟におきかえてみても違和感がないのでしょうか。展開の仕方によっては、必ずしもそうはならないと思いますが、「ならなしとり」では気になりません。
 
 他の話で、兄弟、姉妹を置き換えたり、一人であっても女と男を置き換えてみたいと思いました。
 
 ご自身も語りを行いながら創作もされているという作者ですが、話を聞いてみたいものです。

  

     ならなしとり/峠 兵太・文 井上洋介・絵/佼成出版社/1993年初版

 「ならなし」のある場所をしめしてくれるのは、まっしろい髪のばあさま。
 太郎、次郎を吞み込むのは沼の魔物。
 道を示してくれるのは、笹、からすが巣をかけている木、ひょうたん。

 次郎は、あっというまに 吞み込まれます。そして魔物のなかから太郎と次郎がでてきます。

 兄弟のきりりとした顔が力強く描かれています。

 「ならなし」は奈良の都の梨を意味すると、西本鶏介さんの解説にありました。