大分のむかし話/大分県小学校教育研究会国語部会編/日本標準/1975年)
ある日、うそつきな男が、「鍋割坂をとおたら、千びきのザルを見つけた」と、はなしじょうずな男に自慢します。
「千びきザルを見たとは はじめてきいたが、ほんとうにそりゃおったかえ」と、はなしじょうずな男が言うと「俺が、この目で たしかにみたんじゃ」と うそつき男。
「お前のことだから なんぼかうそがあるといかん。七、八百びきくらいは、おったんじゃねえかな」
うそつき男「そんなこといえば、そりゃ千びきじゃないけれど、七、八百びきは ほんとうにおったがのう」
「ふうん、七、八百びきか、ちっとは多いようでないか。五百びきぐらいが ほんとうのところじゃろう」
うそつき男「おおう、そうじゃのう。五百びきぐらいじゃ。もう少なくはできないよ」
「ほんとうか。へえ。三百びきぐらいなら、このへんにおるかわからんけんどのう。五百びきぐらいというと、まあ多いようだ」
うそつき男「ふうん、そういや、三百びきぐらいかもしれん。とてもいっぱい寄ってきたから、数えきれなんだ。」
やりとりが続いて
「百びきどまりだろう」「もうちっと、まけんかよ」
うそつき男「ほんなら百びきにしちょこう。百びきど」
「ほんなら鍋割に、見にいこう」
うそつき男「おまえが見にいっても、おるかおらんかしらんど」
「そんなら、もう五十びきじゃのう」
さらに問い詰めると
うそつき男「十びきぐらいはおったど」
やりとりが続くと、だんだん見たという数が少なくなり、ついには「サルだったと思う」まで。嘘といわれるとムキになるが、それとなく追及していくと、大きな嘘も、だんだん小さくなるのは、嘘つきの心理をついたもの。
軽妙さを楽しめるのは、語りが一番でしょうか。