このところ時間が空いたら、先日調達してきた男鹿市史を読み始めています。今回は弥生時代に該当する部分からスタートですが、弥生、古墳時代に該当する部分は文献的に、また考古学的にも確たる史料が出ていないので、市史ではサラッと扱われる感じになっていました。
男鹿の名前が歴史に最初に出てくるのが日本書紀。過去に読んだ秋田県史でもここは取り扱われていました。男鹿市史を読もうと思った理由の一つが、その部分がどれだけ細かく書かれているかを確認することでした。ちなみにもう一つ男鹿市史を読もうと思った理由は、鎌倉から室町、戦国時代にかけてこの地を中心に沿岸部を支配した安東氏の話ですが、これはもう少し時間が必要になります。
男鹿市史のこの部分の著者は、著者個人の見解を述べることより、他の研究者の考えをいくつか紹介して、阿倍比羅夫の北征についての見方を描こうとしています。多くの自治体史では、著者の考えを中心に書かれることが多いようで、気を付けないと偏った味方になってしまいがちです。悪口を言えば、今回の男鹿市史では著者は何も述べていない、とも言えますが、素人にとっては、いろいろな見方を知ることもでき、面白い取り組みとも言えそうです。
さて、阿倍比羅夫の北征とは、5世紀から6世紀に連合国家であったとみられるヤマト(大和)政権が推古天皇の御代(592-)になり、厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子)や蘇我馬子らに政治改革を委ね、冠位12階の制(603)や憲法17条の制定(604)を行なったり、遣隋使派遣→隋滅亡(618)→遣唐使派遣、更に645年にはいわゆる大化改新で唐の制度を採り入れ、天皇を中心とする中央集権国家を目指し諸々の改革を進めた時代の事。
日本書紀によれば、『658年(斉明4年)に、越国司(越前・越後を合わせた場所の知事)であった阿倍比羅夫が船180隻で蝦夷と戦い、齶田(秋田)、渟代(能代)を攻めて、齶田浦の蝦夷酋長恩荷が服従を誓ったため、冠位(小乙上)を与え、渟代、津軽2郡の郡領(こうりのみやっこ、今でいう郡長官)に任命したとのこと。』
この日本書紀の文章は、専門家の間でもいろいろな解釈がなされており、素人が読んでも突っ込みどころ満載。「恩荷」がオガ/オンガと読めることから男鹿の名前の初見とされるが、「オニ」と読む説があったり、郡領任命権が一国司にあるはずない、などなど。
細かいことは専門家に任せるとして、この北征の意義として考えられるのが、一つは朝鮮半島との関係によるもの。4世紀以来ヤマト王権は朝鮮半島に傀儡ともいえる任那を有していたが、562年に新羅によって滅亡し、朝鮮半島での権益を失った。その穴埋めとして、東北地方の支配を目論んだ、というのが一番理解しやすいようです。別な見方の中には、比羅夫一行は交易をも目的としたというものもあるようです。当時蝦夷地からの毛皮などは都でもてはやされていたようですが、これが主たる目的となるなら、都の人々はどれだけ欲深かったと。
ちなみにヤマト王権やその前の伝説上の話も含めると、秋田を含む東北地方に征伐としてきたのは、これが3回目。最初は(伝説上の)景行天皇25年(西暦95年)の武内宿禰による北陸、東北の視察派遣で、この際に「日高見国あり」とした記述が日本書紀に残り、その後蝦夷征伐を進言したため、景行天皇の子の日本武尊(やまとたける)が東征で宮城県辺りまで来たという話があるが、存在自体も伝説との説もあり、明確に東北に兵を連れてきたのは阿倍比羅夫が最初となるようです。ちなみによく知られた坂上田村麻呂の蝦夷征伐は平安時代初期の801年と阿倍東征から140年ほど後の事。教科書では学ばなかった東北の歴史です。
時々
一時