昭和41年、県職員になって、田舎の保健所勤務になった。
保健婦学校卒業したばかりの新米県職員。
保健所保健婦と、町村の保健婦の連絡会議が月1回あって、郡内の保健婦たちが集まった。賑やかだった、いいデスカッションがあった。
保健所の保健婦は、主として、結核患者さんの訪問指導、新米だったけど、未治療の患者さんの所へ、バスとバイクで訪問した。
県と町村の、いいチームワークを感じていた。
3年後、松江市にある松江保健所に転勤になり、当時の八束郡と松江市の管轄の保健所で、保健師さんの数も、田舎の保健所より多かったし、国庫補助の事業も多かった。
でも、だがしかし、予算がないという言葉をよく聞いた。
でも、建築土木の事務所では、臨時職員も雇用され、事務費も予算は十分あると聞いた。
公衆衛生行政は、今や黄昏と。
同じ県の出先機関なのに、どうしてこうも違う?
その時から、縦割り行政、という言葉を聞いた。
それから、県庁勤務になって、財政課から予算を獲得する仕事の体験をした。
それぞれの部のその下の課の、そして係の係長が、具体的な予算案を作った。いわゆる、県の、係長が行政を作っている。沢山予算を取って、それぞれ、出先に分配して、獲得した予算は、全部使いきることが必要だった。でないと、来年予算を削られる。
予算を余さんように、配慮することは、大切なことだった。
どうして、お金が足らなくて困っているのに、余ったなら、回してくれてもいいじゃないか!誰もそう思ったけど、かなわぬ相談で、縦割り行政の税金の無駄使いと思っていても、誰もなすすべもなかった。
縦割り行政という言葉を、もうそれから、50年も経った、今、今、総理大臣になった方から聞くとは!
なんか、昔々の物語の出来事のように、架空の物語のように、私の脳裏をかすめていく、今の、たった今の、総理大臣になった方から聞くとは、聞いた耳を疑った。
この世の行政の税金の無駄使いを修正される方がいる、もう、すでに、それはいくつか是正されて、改革されていたなんて、それが、70歳の菅官房長官のお働きだったとは!
今日の菅さんは素敵でした。
背広の色がきれいなブルー、ネクタイが、黄金色。
なんか、その配色に、涙
相変わらず、単純な私です。
菅総理のこれからに、心から期待いたします。