Mars&Jupiter

おおくぼっちの屋根裏部屋へようこそ!

シベリウスの「6つの歌」作品36を聴きながら星川から横浜まで歩く

2008-03-26 07:18:50 | ジャン・シベリウスの作品
昨日は星川駅から横浜まで歩きました。
そしてその後横浜から原宿、三ツ沢公園を通り、
横浜国大まで歩き、指導教官の部屋を訪ねにいきました。
途中三ツ沢公園の中などで見かける桜の木は咲き始めで、
まだまだ満開ではないが、ここ何日かで満開になりそうだ。

途中聴いたのは、シベリウスの「6つの歌」作品36など。
BISから以前発売されたシベリウスの傑作をあつめた
15枚組のセットの中から歌曲をあつめたCDを聴いた。
「6つの歌」作品36は1899年の作品で、
メゾ・ソプラノとピアノの伴奏で聴くことができる。
1曲目の「黒いばら」はメンデルスゾーンを感じさせる曲。
2曲目の「だが、私の小鳥は姿を見せない」もロマン派的だ。
4曲目の「葦よそよげ」は、叙情的な歌で、
水が流れるようなピアノの伴奏が、印象的だ。
以後、印象に残った作品について触れる。

「7つの歌」作品17の作品は、
1890年代に作曲された初期の作品であるが
ピアノ伴奏によるメゾ・ソプラノの歌唱で聴く6曲目の
「夕べに」 に代表されるように素朴な作品が多い。
1曲目の「あれから、私はたずねたことはなかった」は、
管弦楽付きのソプラノ独唱で聴くことができるが、
やはり素朴な短い歌であるが、管弦楽が伴うことで
より北欧らしい自然の風景が目に浮かんでくるようである。
1903年から1904年にかけて作曲された「5つの歌」作品38で、
管弦楽とソプラノによる「秋の夕べ」は、
ドラマティックに歌う場面もあるが、内省的な作品である。
それは管弦楽とバリトンによる「海辺のバルコニーで」も同じである。

1909年に作曲されたメゾ・ソプラノ独唱による「水の精」は、
ピアノの伴奏が水を想起させ、軽快な曲である。
「アリオーゾ」作品3は1911年に作曲されたようだが、
室内楽的な伴奏が北欧風で心地よく、情緒的な曲。
1902年に完成した「5つの歌」作品37は、
ピアノ伴奏によるメゾ・ソプラノの歌唱で聴くことができる。
第1曲の「初めてのくちづけ」、第4曲の「夢だったのか」は、
それぞれロマン的な作品で、かつ情熱的な曲である。
そして第5曲目の「逢い引きから帰ってきた娘」は、
恋する娘と母親との会話が歌詞の内容のようである。
交響曲などにみせる世界とは違って、
感情的な高まりや情熱的な部分が、
ストレートに伝わってくるのが、
シベリウスの歌曲の魅力かもしれない。
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アーッレ・メリカントの「創世記」を聴きながら星川から横浜まで歩く

2008-03-25 05:48:44 | 古典~現代音楽フィンランド編
昨日は星川駅から横浜まで歩きました。
途中聴いたのは、アーッレ・メリカントの「創世記」。
メリカントは1893年生まれのフィンランドの作曲家である。
彼が晩年の1956年に作曲した「創世記」は、
ソプラノ、合唱および管弦楽のための作品である。
肺癌におかされた彼の晩年は、
つらい毎日であったに違いない。

トイヴォ・リューという詩人の詩に曲をつけたこの曲は、
晩年の彼の胸中を表しているようにも思える。
宇宙のような浮遊した音楽は不思議な魅力を持ち、
ソプラノ独唱と合唱は美しい音楽をつくりだす。
歌詞には星が象徴的に扱われるが、
それは人生の中で出会った人であり、
小さな星は詩人が生んだ子どもを表しているようだ。

人ではないが、作曲家は多くの作品を生み出す。
それぞれの作品は、愛着を持ちつづけた、
自分の子どものようなものかもしれない。
それらとも別れを告げなければいけない。
そんな時期が彼の晩年かもしれない。
歌詞の最後に出てくる「彼らとともに私の心のかけらと、
私の星のかけらが去っていった」ということば。
そして、「それほど過去ではないけれど、
はるか彼方にいってしまった
あの無限の星、あの美しい星!」という歌詞は、
人生とは何だったのかと振り返った時の、
きっと彼にも深く共鳴するものがあったに違いない。

生成と消滅は原理であり、避けることはできない。
何かが生まれ、何かが失われていく。
この「創世記」という作品にあるような気がするのは、
そのような悲しさであるが、それを深く思わせないようにか
音楽は穏やかに、そして最後は消えるようにして終わる。
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グリーグの「はじめての出会い」を聴きながら星川から横浜まで歩く

2008-03-24 10:39:44 | エドヴァルド・グリーグの作品
昨日は星川駅から横浜まで歩きました。
途中聴いたのは、グリーグの歌曲「はじめての出会い」。
ロシア編は前回で終わりにし、今回からは北欧編に入る。
グリーグの「はじめての出会い」は、1870年に作曲された
「4つの歌」作品21の中の最初の曲である。
ピョルソンの詩にもとづくソプラノ独唱によるものだが、
ヤルヴィ盤では管弦楽付きの歌曲となっている。
この管弦楽版は1894年から1895年に作曲されたようだ。
恋人との最初の出会いを歌ったものだが、
管弦楽付きになると北欧的な感じが増していい。

管弦楽に編曲された作品は、このあと4曲続く。
「モンテ・ピンチョより」はバリトン独唱の曲。
1870年に作曲された「6つの歌曲」作品39の中の1曲目だ。
ピョルンソンの詩にもとづくもので、
モンテ・ピンチョはローマの郊外にある丘のようで、
部分イタリア風なところもあり、軽快な曲である。
「白鳥」は1876年に作曲された「6つの歌曲」作品25の中の
2番目の曲で、イプセンの詩にもとづくソプラノ独唱の情緒的な曲。
「春」は1880年に作曲された「6つの歌曲」作品33の中の
2番目の曲で、ヴィニエの詩によるソプラノ独唱の曲だ。
弦楽合奏曲としても作品になっているので有名な曲だ。
とはいえ聴いてみると、この歌曲版の方がいい感じがする。
バリトン独唱によるヘンリク・ヴェルゲランドは、
1893年から1894年に作曲された「ノルウェー」作品58という歌曲の
3番目の曲だが、北欧の壮大な自然を感じさせる曲である。

あとバリトン独唱による「山の精に捕われた人」作品32が
続けて入っているが、1878年に作曲されたこの作品は、
歌詞の内容についてはわからないが、沈鬱な感じである。
また、ソプラノとコントラルトと合唱のための
「南の修道院の門前で」作品20は1870年に作曲された作品。
ピョルンソンの詩によるものである。
合唱が加わるところで急に音楽が明るくなり、
救いのような音楽になり、美しい曲である。

ところで人間によって出会いは不思議なものである。
もちろん、この時期となれば別れもあるのだが、
自分の人生が一人の人の出会いによって
大きく変わることもあるからだ。
もちろん、いい出会いばかりではないだろうが、
人との出会いはどこで先の人生で、
また関わるかわからないから大切にしたいものだ。
昨日は久しぶりに電車の中で再会した人もいて、
懐かしいとともに時の流れを感じたりしたが、
そんな再会という瞬間も大切なものだ。
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ハチャトゥリアンの「喜びの頌歌」を聴きながら新橋から品川まで歩く

2008-03-23 06:06:03 | 古典~現代音楽ロシア編
昨日は新橋から品川駅まで歩きました。
馮先生の講演を聴きにいった帰りに、
歩いたものなのだが、1時間くらいかかった。
中国の冷凍餃子の問題もとりあげたが、
講演やその後の議論を聞くと、
つくづく一人一人が真実を見極める力を
つけないといけないんだなあと感じるのである。

途中聴いたのは、ハチャトゥリアンの「喜びの頌歌」。
「喜びの頌歌」作品88は、1956年に作曲された。
メゾ・ソプラノと合唱による作品である。
最初はヴァイオリンのユニゾンで始まり、
ピアノやハープがそのあと加わってくる。
そしてソプラノの独唱が加わり、
民謡調の歌が歌われるようになる。
伴奏の方はやがてフルオーケストラになっていき、
コーラスも加わった壮大な曲となって、
盛り上がって終わるのであり、なかなかである。

3つの演奏会用アリア作品66は、1946年に作曲された。
「詩曲」、「伝説」、「熱狂的な詩歌」の3つから
構成されている曲で、沈鬱な感じも受けたりする。
「祖国のバラード」作品97はテノールの独唱による曲で、
ロマンティックな感じを漂わせる曲である。
「詩曲」は、1961年の作品で、緊張感のある曲である。
ショスタコヴィッチぽくもある終わり方である。

詩曲は1961年に作曲され、ブランスバンド向きの曲でもある。
金管楽器の活躍がめざましく、映画音楽ぽくもある。
民謡風の中央アジア的な旋律も聴こえる。
これはアゼルバイジャンの民謡を使用しているようである。
中間部で曲は、速いテンポとなり、
ラテン的な明るい曲調も加えて勢いを増す。
やがて合唱も加わり、壮大なカンタータとなり、
最後は映画音楽のようなロマンティックさを持ち、
華やかさを保ちながら、曲を終わる。

なお、前回とりあげた声楽曲・合唱曲ロシア編
に関するCD等の情報は、以下のアドレスに載せてあります。
http://www1.ocn.ne.jp/~bocchi07/vocal-music-cd-shoukai.html

を参考にしていただければ幸いです。
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ショスタコーヴィッチの歌曲集「ユダヤの民族詩より」を聴きながら横浜から星川まで歩く

2008-03-22 10:48:36 | ショスタコーヴィチの作品
昨日は横浜から星川駅まで歩きました。
途中聴いたのは、ショスタコーヴィッチの歌曲集。
「ユダヤの民族詩より」作品79は、
1948年に作曲されたが、この曲が初演されたのは、
スターリンが亡くなってから2年後の1955年である。
ソプラノ、コントラルト、テノールと管弦楽のための作品で、
歌詞の内容からみると暗い影のある音楽だ。
マーラーの「亡き子をしのぶ歌」を想起させる。
しかし、内容的にはそれとは違っているし、
彼らしく管弦楽の伴奏もすばらしく、
なかなか聴きごたえのある作品である。

第1曲「死んだおさな子を嘆く」は、
オーボエが奏でる悲しい旋律とともに
管弦楽の伴奏にのってソプラノとコントラルトが、
息子を失った母親の嘆きが沈鬱な感じで歌われる。
第2曲「心配性の母と叔母」では、
ソプラノとコントラルトが子どもの体を心配する
母親の姿が、東洋的な旋律にのって淡々と歌われる。
第3曲「子守歌」もオーボエが東洋的な旋律を奏でて始まる。
コントラルトにより歌われるのは子守歌ではあるが、
歌詞をみると父親は今シベリアの牢獄にいるのだと
母親が子どもに話すのだから、けっして明るくはない。
第4曲「長い別れの前」は、ソプラノとテノールによる曲。
男女二人の別れを告げる場面が、嘆きとともに歌われる。

第5曲「警告」は、東洋風の旋律にのってソプラノが、
外出しようとする子どもに警告する歌である。
第6曲「捨てられた父親」は、
コントラルトとテノールによる曲。
娘に捨てられた父の手を振りほどいて、
父親から去っていく娘の姿と父親の嘆きが歌われる。
第7曲「貧乏の歌」は、テノールによる短い歌。
管弦楽の伴奏は彼らしい軽快な諧謔的な曲であるが、
内容は生活の苦しさを歌っているのだから暗い。
第8曲「冬」は、瞑想的な感じの曲であるが、
歌詞の内容はまた冬の厳しい寒さが
戻ってきたことの絶望感が、
テノールとソプラノで歌われている。

第9曲「よい暮らし」はテノールの曲で、前曲までとは違い、
絶望的な歌曲集にようやく救いが訪れたような感じである。
第10曲「娘の歌」は、コントラルトの曲で、
東洋的な旋律の管弦楽の伴奏にのって、
今の生活に満足している娘が心境を語る。
第11曲「しあわせ」は、コントラルトと、
ソプラノ、テノールによる歌で、終曲にふさわしい。
息子が医者になったことを母親が喜び、
自分たちの上に星が輝いていると今の幸せを歌う。
第1曲目の暗さとは正反対に、
ハッピーエンドで華やかに終わる。
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