日本のサッカーは我が認識以上に弱いと以前に記述したが、今回のオリンピックやワールドカップの予選では早くも露呈してきています。原因はサッカーに関わる日本人の人格の低さにあるという当方の私的がどうも的を得ているようです。今回も審判のせいにしているようですが、人格の低さ・・、それゆえまったく組織力が生かせないのです。
これは民間の会社組織も同じです。人格の低い人間の集団は会社の組織力が全く生かせないものです。懲罰主義、会議ばかりの時間割、教育・委任のないトップダウンのおしつけがましい方針など・・。
さて男の隠れ家のぐい吞の続編です。
洒落たデザインの作。
今右衛門となると柿右衛門。
酒井田柿右衛門は商売上手。かなりの作が本人作ではなく工房作品。こちらも工房作品? 落款や印章に違いがあるらしいが当方はあまり詳しくはしりません。
あまりにもビジネスライクな陶芸家ゆえ十四代柿右衛門は小生は蒐集対象とはしていません。
三右衛門というのをご存知でしょうか?
十三代を三作品揃えて販売したこともあったようです。こちらの柿右衛門は十四代ではなく十三代です。膳に食器揃いに当方であるのは十三代画多いようですが、稀に十二代があったかも?
さて本日は初期の頃の寺崎廣業の作品です。寺崎廣業は「その45」となりました。徐々に系統立てて作品が整理できるようになってきました。
西王母之図 寺崎廣業筆
絹本水墨着色軸装 軸先 合箱
全体サイズ:縦2180*横635 画サイズ:縦1250*横500
落款部分には「甲午夏日写 宗山生廣業 押印」とあり30歳(1894年:明治27年)頃の作品と推察されます。この頃の作品が遺されているのは非常に珍しいかもしれません。
同じ年の冬に描かれた作品が本ブログで紹介されています。下記の作品がその作品で、上記写真右がその落款と印章です。本作品の印章は「廣業」の朱文白丸印が押印されています。
桃下唐人図→酔李白図 寺崎廣業筆 その24
絖本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱入
全体サイズ:横290*縦1180 画サイズ:横170*縦225
廣業の「業」の字が二本線の場合は俗に言う「二本廣業」で、明治35年頃から42年頃までの7年くらいの間に描かれたといわれていますが、本作品はさらにそれ以前の作品と思われ、「廣」の字も馴染みのある字体と違います。他の所蔵作品「酔李白図」と同一落款であり、同一時期に描かれた作品です。
線がかたくまだ稚拙な点はあり、ひと目見たときには本作品が寺崎廣業?と思われる作品かもしれません。
まだ未熟とはいえ美人画としての名を上げていた頃でもあり、代表作品「秋苑」(1899年 東京国立博物蔵)は本作品から5年後の作となります。
寺崎廣業の美人画には贋作が多くあり、さらには版画、印刷作品などが数多く見受けられます。
美人画以降の、この頃の寺崎廣業の作品は加速度的に絵が上達していきます。努力の画家と称せられる由縁でもあるのでしょう。
画題も挿絵のような美人画から優雅な美人へ、そして風景画へと移行しています。
書き込みも非常に細密になったかと思うと、すっきりした画風へと変化します。
狩野派から近代画風へ、そして洒脱な画風へと・・。
晩年は多作となり、席画のような作品を乱発して後世には大衆画家と呼ばれ、不評を買うようになり、現在は人気は下火です。
それはまるで江戸時代の谷文晁と重なる部分があるように思います。寺崎廣業、谷文晁、十四代酒井田柿右衛門のいずれも多作であったことは共通しています。乱発な多作はいけませんね。
これは民間の会社組織も同じです。人格の低い人間の集団は会社の組織力が全く生かせないものです。懲罰主義、会議ばかりの時間割、教育・委任のないトップダウンのおしつけがましい方針など・・。
さて男の隠れ家のぐい吞の続編です。
洒落たデザインの作。
今右衛門となると柿右衛門。
酒井田柿右衛門は商売上手。かなりの作が本人作ではなく工房作品。こちらも工房作品? 落款や印章に違いがあるらしいが当方はあまり詳しくはしりません。
あまりにもビジネスライクな陶芸家ゆえ十四代柿右衛門は小生は蒐集対象とはしていません。
三右衛門というのをご存知でしょうか?
十三代を三作品揃えて販売したこともあったようです。こちらの柿右衛門は十四代ではなく十三代です。膳に食器揃いに当方であるのは十三代画多いようですが、稀に十二代があったかも?
さて本日は初期の頃の寺崎廣業の作品です。寺崎廣業は「その45」となりました。徐々に系統立てて作品が整理できるようになってきました。
西王母之図 寺崎廣業筆
絹本水墨着色軸装 軸先 合箱
全体サイズ:縦2180*横635 画サイズ:縦1250*横500
落款部分には「甲午夏日写 宗山生廣業 押印」とあり30歳(1894年:明治27年)頃の作品と推察されます。この頃の作品が遺されているのは非常に珍しいかもしれません。
同じ年の冬に描かれた作品が本ブログで紹介されています。下記の作品がその作品で、上記写真右がその落款と印章です。本作品の印章は「廣業」の朱文白丸印が押印されています。
桃下唐人図→酔李白図 寺崎廣業筆 その24
絖本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱入
全体サイズ:横290*縦1180 画サイズ:横170*縦225
廣業の「業」の字が二本線の場合は俗に言う「二本廣業」で、明治35年頃から42年頃までの7年くらいの間に描かれたといわれていますが、本作品はさらにそれ以前の作品と思われ、「廣」の字も馴染みのある字体と違います。他の所蔵作品「酔李白図」と同一落款であり、同一時期に描かれた作品です。
線がかたくまだ稚拙な点はあり、ひと目見たときには本作品が寺崎廣業?と思われる作品かもしれません。
まだ未熟とはいえ美人画としての名を上げていた頃でもあり、代表作品「秋苑」(1899年 東京国立博物蔵)は本作品から5年後の作となります。
寺崎廣業の美人画には贋作が多くあり、さらには版画、印刷作品などが数多く見受けられます。
美人画以降の、この頃の寺崎廣業の作品は加速度的に絵が上達していきます。努力の画家と称せられる由縁でもあるのでしょう。
画題も挿絵のような美人画から優雅な美人へ、そして風景画へと移行しています。
書き込みも非常に細密になったかと思うと、すっきりした画風へと変化します。
狩野派から近代画風へ、そして洒脱な画風へと・・。
晩年は多作となり、席画のような作品を乱発して後世には大衆画家と呼ばれ、不評を買うようになり、現在は人気は下火です。
それはまるで江戸時代の谷文晁と重なる部分があるように思います。寺崎廣業、谷文晁、十四代酒井田柿右衛門のいずれも多作であったことは共通しています。乱発な多作はいけませんね。