夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

蘭図陽刻三田青磁花瓶

2012-05-24 04:46:31 | 陶磁器
昨日、書店で手に取った本が「ま、いっか。」(集英社文庫 浅田次郎著)・・面白そうです。

最初のエッセイに
「男は容姿ではない。・・・私見によれば、若い頃にイケメンとされていた男ほど、中年に至ってからの凋落ぶりが甚だしく、さして目立たなかったやつが妙にカッコいいオヤジになっているように思えるのである。・・年齢とともにカッコ良くなり、容姿に応じて晩成した男たちには、みなリングサイドのトレーナーのごとき伴侶がついているように思える。」とあります。

私の同級生達を見ていても共鳴できる文章です。「女性は男友達に人気の男を伴侶に選びなさい」は私の持論ですが、この最初のエッセイは世の男性陣が共鳴し、世の女性陣に読ませたくなる文章です。

さて本日は掛け軸ばかり続いたので、久しぶりに陶磁器です。青磁を取り上げてみました。

近くにあった中国で焼成されたらしい七官青磁?と本作品を比較してみました。今まで投稿してきた三田青磁と比較しても同じ釉薬のようですが、こうして比べると見た青磁の色の特色が良く解ります。

蘭図陽刻三田青磁花瓶
口径152*高台径110*高さ320

青磁と称される作品群は私が知ってるだけでも多種に及び、日本でも肥前の鍋島青磁から京青磁の三田青磁があり、中国を加えると計り知れないくらいの種類があります。

青磁だけでもそのような数ですから、白磁なども入れるととんでもない種類になります。

文献には青磁の特色を詳しくの述べていますが、実物を見て、時には比較してみないとわからないものです。



首の部分のあるリング状の文様から三田青磁と判断されます。

時代そのものは不詳ですが、三田焼自体が昭和初期で途絶えたのでその頃までの作品でしょうが、明治頃のころくらいまでの時代はありそうです。本作品を観ていると基本的に青磁は美しいものでなくてはならないとつくづく思わされる作品です。適度の入った貫入はきれいです。貫入がだらしなく見えるものはまずダメな作品です。



下記は三田青磁関する文献の記述です。

『三田焼:兵庫県三田市三田の青磁。寛政(1789-1801)初年、三田の豪商神田惣兵衛は陶工内田忠兵衛(志手原窯小西金兵衛の弟子)の青磁焼成の悲願にほだされ巨額の資金を投じて陶業を助けることになり、天狗ヶ鼻に窯を築いました。これが三田焼の起こりであります。

惣兵衛は青磁研究のために忠兵衛を有田に遣わし、有田から陶工太一郎・定次郎を招いました。1801年(享和元)忠兵衛は香下村砥石谷において青磁の原石を発見し、文化(1804-18)初年には青磁の試焼に成功しました。
1810年(文化七)惣兵衛は京都の奥田頴川に指導を受け、その弟子の欽古堂亀祐を迎え、いよいよ青磁の製作は本格的になりました。文化・文政年間(1804-30)は三田青磁の最盛期でありました。

しかし1827年(文政一〇)頃には亀祐が京都に帰り、1829年(同一二)に惣兵衛が没するに及んで、以来三田窯は次第に衰順に傾いました。天保年間(1830-44)には向井喜太夫がこれを譲り受け、安政{1854-六〇}頃には田中利右衛門がこれを継いだが業績振わず、明治に三田陶器会社が設立され、1889年(明治二二)にはその出資者の一大芝虎山がこれに専念しました。虎山の没後、有志が相寄って一窯焼いたのを最後に昭和8年に三田窯の煙はまったく絶えました。青磁の上がりは天竜寺手調で、亀祐来窯以後細工物にも秀作が生まれた。種類には、香炉・茶器・花器・皿・鉢・文具、大物・動物置物などがあります。また呉須手写しも焼いています。』



別の記述も参考までに投稿します。

『三田焼の特徴である型物は京焼の陶工欽古堂亀祐(1765-1873)によってもたらされた技術によるところが大きい。「欽古作之 文化三玄夏」(1806)などの土型が伝わっている。

欽古堂亀祐は京の名工奥田頴川の弟子であり、頴川門下として他に青木木米(1768-1833)、仁阿弥道八(1783-1855)、永楽保全(1795-1854)などが知られている。亀祐は道八、木米とともに頴川門下の三羽ガラスといわれ、互いにその腕を競っていた。(そういえば本ブログで道八の作品を投稿していないことに気がつきました・・

寛政12年(1800)に神田惣兵衛は頴川のもとを訪れ、三田青磁焼成のため、しかるべき陶工を紹介してほしいと依頼したところ、選ばれたのが亀祐であった。

一説によると木米の青磁焼成技術があまりにも「唐物写し」として名高く、木米の指導により三田青磁が唐物との区別がつかなくなることを憂えた頴川の判断によるともいわれる。そして翌寛政13年に今度は紀州藩から陶工派遣の依頼が頴川のもとに持ち込まれたときは木米が派遣されている。

頴川にすれば木米の技量が三田青磁をつくりあげることで、木米の技術も固定化し、また技術力の増した三田青磁が中国産のものと紛れて流通した場合の責任を恐れたのかもしれぬ。当時粟田口で京の名工として名をはせていた頴川のもとにも三田青磁の評判は轟いていたにちがいない。』
とあります。

三田青磁か否かの検証

三田青磁は複雑で、豊かな造形や色調に魅力があって、型物成形の製品が多く、全体の出土量の3分の1を土型が占めているそうです。

土型を用いた成形は、ロクロでは作り出せない複雑かつ巧妙な形のものを一つの型から数多く生産しています。

緑青色をした美しい釉調の青磁は、中国明代の天竜寺手青磁に似ていると、人々から讃えられました。

三田青磁の魅力はその色の深さもさることながら、土型成型による多様性にあると考えられています。


判別の仕方

1.釉肌:単一な色目になってない事が重要です。

濃い部分や、薄い部分が微妙に入り混じって、見た目に不安定感が漂います。近代の作品は焼成技術が高いので、焼成が難しい青磁とは言え、ほぼ均質に焼けてしまいます。古い物は、逆に不均質に焼けます。高麗青磁などのような例です。

濃いとこ、薄いとこ、釉溜まりに釉切れ、磁肌だけで、微妙な変化が見受けられます。この“不均質さ”にこそ、品物の奥行きが生まれます。青磁に限らず、この奥行きが味を醸成していることがいい作品の条件と言われています。



2.釉薬の色目:青ではなく緑っポイ色。これが三田青磁の典型的な色目です

ルーペで見ますと、大小の泡が絡み合うように混在しています。この釉薬の中の気泡が、緑色に深みを与えています。このことは他の青磁、白磁にも同じことが言えます。




3.浮き模様:瀬戸製の三田青磁写し(時代はある)や、今出来の三田青磁はこの浮き模様がクッキリ見えませんが、三田青磁は模様が複雑で細かいにも関わらず、ハッキリ見えます。技術の高さは伺えます。



4.土味:写し物の三田青磁は、均一な色、ベタとした朱色っポイ土ですが、三田焼は朱色と白っポイ部分が交互に出ており、カリッカリに焼けてます。

*三田青磁の場合、時代的な古さより、三田青磁であるか否かが重要だとも言われています。

と文章にするとこうなりますが、ともかく手元にないと解らないのが骨董です。
しかも比較するものがないと飲み込めないものです。手元にある贋作と真作をを比べて初めて「のみ込める」ことが多々あるのです。とくに私のような飲み込みの悪い人間は・・

世の中にいる骨董収集と称する人のの99%は質の悪いものばかり集めていますが、その「のみ込み」が悪いか、「のみ込まないか」の差だと思っています。要はいかに「のみ込み」の悪い人が多いかです。


さて、本日の三田青磁や如何に・・・。


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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
三田青磁 (くらふと)
2012-05-24 08:46:07
兵庫の三田でこのような立派な青磁が作られていたことはしらなかったです。中国の物にひけをとらないですね。

青磁でも厚みの薄いものもありますが、製法に違いがあるのでしょうか?
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製法 (夜噺骨董談義)
2012-05-25 07:10:13
青磁は基本的には発色の青を出すために釉薬が厚く、焼成温度が高温です。
そのため胎土の強度が強くなくてはいけません。最初は陶土であり、作品はそれなりに厚かったようです。その後磁器の変わり、それ従って薄く出来るようになったといえます。一概に全部がそうとはいえないかもしれませんが、徐々に技術や釉薬と胎土に相性によって薄くすることが可能になったようです。
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製法 (くらふと)
2012-05-25 09:38:03
お答え有難うございます。いつも色々な素人の質問にお答えくださいまして感謝しております。
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質問 (夜噺骨董談義)
2012-05-26 17:44:10
質問はなんでも結構ですので、遠慮なくコメントを下さい。
こちらもそれほど知ってる訳ではありませんので勉強してお答えできるものはお答えできるようにしています。
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