夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

再興膳所焼 象乗唐子色絵香炉 

2018-03-20 00:01:00 | 陶磁器
箱のない作品の中から選りすぐって、箱を用意して収納しています。真田紐などは自分で調達しています。



中のクッション材、紙、布を用意して、保護紙をあてて、写真を張り付けて、内部には説明書きを添えて保存しています。



基本的には本ブログで紹介された作品ばかりですが、資料を見直していますので遅々として進まない作業のひとつです。

松竹梅図茶巾筒 古清水焼
口径40*底径65*高さ75



水屋に置かれて普段使いに使っていますが、徳利かなにかの円筒形の器の上部を切り取り茶巾筒に見立てた作品でしょう。保護紙は中にあったものに合う折り紙などを鳩居堂などから探してきています。こういうことはじっくりとやるのが良いと思いますが、あまりストイックになってもいけない作業のようです。



さて本日紹介する作品もまた京都の焼き物に縁のある作品です。

型に入れて大量生産したこの手の作品は柿右衛門の作品などにもよくあります。ただこの作品は膳所焼の再興に関連することでその意味合いが面白くなります。再興膳所についての最低限のことは知っておきたいですね。

再興膳所焼 象乗唐子色絵香炉 
補修跡有 由来識箱
幅160*奥行95*高さ150



箱裏には「日本麻糸 帝国製麻 為合併記念 大象も つながんほどに 麻糸を たばぬるひとの こうろうにこそ 大正癸亥(みずのとい、きがい)秋 春挙画伯賛 押印(春挙好)」とあり、1923年(大正12年)秋に製作されたものと推察されます。「香炉」と「功労」をかけた歌になっています。な~一種のダジャレのようなもの・・。

膳所焼が再興されたのは大正8年からですから、再興された膳所焼の最初の頃の作品と思われます。なお大正12年9月1日に関東大震災が起きていますが、そのことと本作品の関連は不明です。



本ブログにても投稿されている画家の山元春挙も再興に尽力していますので、その関連の作品でしょうが、古い膳所焼は黒味を帯びた鉄釉が特色であるのに対して、京焼の二代伊東陶山の指導で再興された再興膳所窯であり、本作品はいかにも京焼風の作品になっています。



象の尻尾部分や香炉の蓋部分に金繕いの補修跡がありますが、それなりに大切に保存されていた作品であったものと推察されます。記念に際して製作された作品ですので、多数作られた作品であったことと推定されますが、再興されたばかりの膳所焼の佳作のひとつと言えるでしょう。



膳所焼の詳細は山元春挙の投稿記事にも記されていますが、再度簡単に記述しておきます。

**********************************

膳所焼:(ぜぜやき)滋賀県大津市膳所にて焼かれる陶器。茶陶として名高く、遠州七窯の一つに数えられる。黒味を帯びた鉄釉が特色で、素朴でありながら繊細な意匠は遠州が掲げた「きれいさび」の精神が息づいている。元和7年(1621年)膳所藩主となった菅沼定芳が、御用窯として始めたものを膳所焼(御庭焼)と言う。

また、膳所藩領国内で安土桃山時代から江戸時代初期に焼かれた大江焼(瀬田大江(現大津市瀬田)の陶器、1620年代には築窯されていたとされる。)・勢多焼・国分焼(石山)の3古窯と、膳所焼復興を目指した梅林焼・雀ケ谷焼・瀬田焼の総称としても用いられている。



菅沼定芳は、膳所藩主となった後の寛永6年(1629年)、膳所相模川の左岸に御用窯を築いた。定芳は本阿弥光悦・小堀遠州・松花堂昭乗との交友に影響を受け茶器を焼いたと言われている。

菅沼定芳移封後、寛永11年(1634年)新たに石川忠総が膳所藩主となった。忠総の実父大久保忠隣は、小堀遠州の師であった古田織部門下の大名茶人であり、忠総自身も小堀遠州と親交が深かったことから遠州の指導を受け茶器焼き物に力を注いだ。



膳所焼は遠州七窯の一つとして評判を上げ、茶入や水指などは諸大名らの贈答品として重宝され]。しかし、膳所焼の隆盛は忠総治世時に留まり、慶安3年12月(1651年2月)忠総が死去し、慶安4年4月(1651年6月)後継の石川憲之が伊勢亀山藩に移封すると、膳所焼は徐々に衰退していった。

**********************************

古膳所焼は黒味を帯びた鉄釉が特色で風味に満ちた作品となっていますが、再興膳所焼は京焼の伊東陶山が指導していることもあってか、京焼の風味が強い作風です。

**********************************

膳所焼(再興):大正8年(1919年)、膳所の人岩崎健三氏が膳所焼の廃窯を惜しみ、友人である日本画家、山元春挙画伯とはかり、別邸に登り窯を築き、京都の陶工二代伊東陶山が技術的な指導を行い、膳所焼の復興に生涯尽力した。



別邸の敷地内に登り窯を築いて再興した。 邸内には「東海道名所絵図」にも描かれた名勝「陽炎の池」(かげろうのいけ)があることから、春挙により「陽炎園」と命名された。 岩崎氏はその生涯をかけて膳所焼の復興に尽力した。健三の後、息子の岩崎新定に継承され、新生膳所焼は今日に至っている。膳所焼美術館にて作品を閲覧することができる。



**********************************

現代の膳所焼と比べるとやはり古膳所焼が数段も上の作行と言わざる得ませんね

**********************************

伊東陶山(二代目):明治4年~昭和12年(1871-1937陶芸家。二代陶山。初代陶山の養子。名は信助。初代に師事する。帝展審査員。昭和12年(1937)歿、68才。近江膳所藩の家老の四男に生まれ、日本画を志ましたが その後陶芸家とし初代の伊東陶山に見込まれて、養子に入り二代目を継承。大正9年には 膳所焼きの復興に尽力。

**********************************

山元春挙については下記に簡単に記しますが、本ブログでの他の投稿記事を参考にしてください。

**********************************

山元春挙:日本画家。滋賀県生。名は金右衛門。別号に一徹居士。初め野村文挙に学び、のち森寛斎の門人となる。円山派の伝統に通暁し、風景画・山岳画に秀で、竹内栖鳳と共に京都画壇の重鎮として活躍した。早苗会画塾主宰。京都絵専教授。帝国美術院会員・帝室技芸員。昭和8年(1933)歿、63才。

秋山清影図 山元春挙筆 その3
絹本着色軸装 軸先合成樹脂 共箱
全体サイズ:横643*縦2320 画サイズ:横502*縦1390



**********************************

量産された作品であろうと推察されますが、それ相応の立派な箱に収められています。



**********************************

帝国製麻:「1907年(明治40年) - 日本製麻株式會社と北海道製麻が合併して、帝國製麻株式會社を設立する。」という資料がありますが、大正8年の日本麻糸と帝国製麻の合併についての詳細は不明です。

**********************************

ただ押印(春挙好)というのはいかにも俗っぽい・・





香炉してはよくできています。はやり京焼の伝統のデザインでしょうね、秀作と言えます。象の下腹部には印があります。



現代の膳所焼は京焼とも高取焼ともはたまた瀬戸焼とも・・、わけのわからぬ作品ばかりで、見るべきものがまったくないですが、本作品は京焼風とはいえ少なくても再興に意欲的だったことが感じられる作品です。



膳所の人岩崎健三氏の邸内には「東海道名所絵図」にも描かれた名勝「陽炎の池」(かげろうのいけ)があることから、前述のように春挙により「陽炎園」と命名されました。岩崎氏はその生涯をかけて膳所焼の復興に尽力し、現在は二代目岩崎新定氏が窯を引き継いでいます。膳所焼の箱書きには、「淡海ぜ々 陽炎園造」と記されているものが多い。

 

このような関連を作品ひとつからいろいろと知ることができますが、少しでも知っていないと数千円での出費ですが、入手の触手はのばせません。少しの間展示室において飾ってみようかという気にさせてれる作品です。

ところで本ブログで紹介された下記の清水焼の作品と並べてみました。

古清水焼(栗田焼) 色絵布袋唐子香炉
合箱入
幅170*奥行130*高さ146



基本的に京焼はあまり好みではない魑魅魍魎たる陶磁器群ですが、釉薬の色調がよく似ています。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。