休日には家でお薄・・・。
やりたいといつも言い出すのは息子・・。
たまには小生も・・。
とうとう息子もやりだしました。
最初にしては上出来。
さて本日紹介する作品ですが、紙に色鉛筆で描いた簡単な作品ながらいかにも梅原龍三郎らしい作品です。
お気に入りの作品 坐裸婦 梅原龍三郎画
紙本色鉛筆額装 左下印 東京美術倶楽部鑑定書添付 誂タトウ+黄袋
画サイズ SM:横152*縦211
梅原龍三郎は1930年代には木版と合羽版(彩色版)の複合版からなる裸婦図を石原求龍堂から刊行したていますが、この時の彫り摺りを平塚運一が担当したようです。
1935年(昭和10年)には帝国美術院(現・日本芸術院)会員となる。1944年(昭和19年)には帝室技芸員となり、またこの年には東京美術学(現:東京芸術大学)教授にもなっています。 1952年(昭和27年)に日本が主権を回復し海外渡航が再びできるようになると、梅原は早速東京美術学校教授を辞任して渡欧、ヴェネツィア・ビエンナーレの国際審査員を務めました。同年には文化勲章を受章しえちます。
翌1953年(昭和28年)に長野県軽井沢町にアトリエを設けた。1957年(昭和32年)には日本芸術院会員をはじめさまざまな役職を辞し、以後は渡欧を繰り返して自由な立場から制作に励んだ。少年時代からの良きライバルだった安井曽太郎とともに洋画界の頂点を極め、「日本洋画壇の双璧」と謳われたのもこの頃です。
人気ゆえ贋作も数多くあると予想されます。本作品は印章のみ作品となります。
よって東京美術倶楽部の鑑定書が真作の根拠となりますが、出来から明らかに梅原龍三郎の作と判断されます。
小品ながらちょっとしたところに飾って置くと「粋」かもしれませんね。
平櫛田中の箱書きのある大黒天との取り合わせ・・。この額は似合っているような似合っていないような・・?? ちょっと額を変えてみようかと思っています。
額に重厚さがないため、タトウやプレートを誂えて額は入れ替えました。このよう誂えは蒐集家の仕事ですね。
やりたいといつも言い出すのは息子・・。
たまには小生も・・。
とうとう息子もやりだしました。
最初にしては上出来。
さて本日紹介する作品ですが、紙に色鉛筆で描いた簡単な作品ながらいかにも梅原龍三郎らしい作品です。
お気に入りの作品 坐裸婦 梅原龍三郎画
紙本色鉛筆額装 左下印 東京美術倶楽部鑑定書添付 誂タトウ+黄袋
画サイズ SM:横152*縦211
梅原龍三郎は1930年代には木版と合羽版(彩色版)の複合版からなる裸婦図を石原求龍堂から刊行したていますが、この時の彫り摺りを平塚運一が担当したようです。
1935年(昭和10年)には帝国美術院(現・日本芸術院)会員となる。1944年(昭和19年)には帝室技芸員となり、またこの年には東京美術学(現:東京芸術大学)教授にもなっています。 1952年(昭和27年)に日本が主権を回復し海外渡航が再びできるようになると、梅原は早速東京美術学校教授を辞任して渡欧、ヴェネツィア・ビエンナーレの国際審査員を務めました。同年には文化勲章を受章しえちます。
翌1953年(昭和28年)に長野県軽井沢町にアトリエを設けた。1957年(昭和32年)には日本芸術院会員をはじめさまざまな役職を辞し、以後は渡欧を繰り返して自由な立場から制作に励んだ。少年時代からの良きライバルだった安井曽太郎とともに洋画界の頂点を極め、「日本洋画壇の双璧」と謳われたのもこの頃です。
人気ゆえ贋作も数多くあると予想されます。本作品は印章のみ作品となります。
よって東京美術倶楽部の鑑定書が真作の根拠となりますが、出来から明らかに梅原龍三郎の作と判断されます。
小品ながらちょっとしたところに飾って置くと「粋」かもしれませんね。
平櫛田中の箱書きのある大黒天との取り合わせ・・。この額は似合っているような似合っていないような・・?? ちょっと額を変えてみようかと思っています。
額に重厚さがないため、タトウやプレートを誂えて額は入れ替えました。このよう誂えは蒐集家の仕事ですね。