さて本ブログでは再興九谷にらしき?作品を幾つか紹介していますが、九谷焼は残念ながら当方の専門?とする分野ではありません。
当方の好みでのみ入手しており、体系的に整理する知見を持ち合わせていないので、その真偽や詳細については確証はありません。それらしき作品を入手してもどの程度の作品かは自信のないところですが、少しでも知識を得ようと暗中模索しているところです。
*上記に飾られている作品は木村武山筆による色紙の「菊図」です。
本日の作品は赤絵の見事な絵付けに感銘し入手した作品ですが、購入時の説明ではどうも「八郎手」という作品のようです。「八郎手」とは再興九谷に窯である宮本屋窯の作品で、その名の由来は宮本屋窯の画工であった飯田屋八郎右衛門の名にちなんだもののとされているようです。
お気に入りの作品 再興九谷 宮本屋窯 八郎手雲龍文大皿
誂箱
口径327*高台径*高さ60
本作品は胎土は青みがあるようでもあり、そうでもない感もあります。
*曖昧な表現ですが、だいたい資料の説明は感覚的なものが多く、すみませんが胎土の説明ほどわかりにくいものはないと思っています。
白の釉薬は純白ではありません。赤と金彩とほんの一部のみ黒を用いています。絵付けは全体に精密ですが、詳細部では雑な部分もあります。
なお宮本屋窯についての詳細は下記のとおりです。
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宮本屋窯:九谷焼の様式には、青手もそうですが、色絵磁器とは趣を異にした、赤色を全面に出す赤絵金襴手があります。この様式を極めたのが宮本屋窯です。
なお九谷各窯の年歴の概略は下記のとおりですが、九谷の再興窯については年歴の把握は必須のもののようです。
江戸後期に再興九谷である吉田屋窯の「青九谷」と肩を並べて、宮本屋窯で単一な赤の顔料を用いて制作された赤絵細描の磁器を制作しましたが、それを生み出した飯田屋八郎右衛門の名から「八郎手」と、あるいは、「赤九谷」と称賛されました。その賞賛の大きな理由は、宮本屋窯の赤絵細描に用いられた赤の顔料が特異であり、その色合いが際立って人気があったことにあるといわれます。鉄線描法を用いて細密な図様を描き、これに金彩を交えた一種の金欄手で、特に後年には熟練し、純然たる白磁を用い、赤彩も十分に精良なものを用いて、金色も二度窯で仕上げられ、すこぶる潤沢の感のある作品を生み出したようです。
以下は他の同時期の作品と比べてみました。
まずは再興九谷の「青手」と言われている作品群です。
*下記写真は吉田屋窯(もしかすると松山窯?)によるとされる本ブログの紹介作品
*下記写真は松山窯によるとされる本ブログの紹介作品
再興九谷の中で、青木木米による春日山窯の呉須赤絵、三田勇次郎による若杉窯の伊万里風の色絵、民山窯の金彩を施した赤絵、そして、九谷庄三による小野窯の赤絵細描風の色絵などが加賀赤絵の先駆をなしましたが、いずれも補色を混用したため、色絵に分類され、九谷焼における赤絵金襴手は宮本屋窯において完成したとされます。
*下記写真は小野窯によるとされる本ブログの紹介作品
嘉永そして安政から明治初期にかけて、宮本屋窯の赤絵金襴手がたちまち加賀一帯に広がったことから、九谷焼といえば、赤で単一に塗られた、あるいは、わずかに金彩された宮本屋窯の「赤九谷」であると人々に思い起こさせるほどであったといわれます。このため、この様式はその後の九谷焼に大きな影響を及ぼしたのも自然なことでした。
例えば、九谷庄三は宮本屋窯利八(宇右衛門の子で、開窯当初から経営に携わったといわれます)から赤絵を学んで、作品に活かし、また、浅井一毫は晩年の八郎右衛門からその描写について教えを受け、竹内吟秋とともに、作品にその描写法を取り入れました。このようなことから、明治九谷における赤絵金彩の彩色を生み出した源はこの宮本屋窯の「赤九谷」にあったといわれます。
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釉が純白というほどの洗練された釉薬ではまだないので、後期というよりも前期の頃の作でしょうか?
宮本屋窯なのか後世の一般的な赤絵の九谷なのかは小生には解りかねますが、時代感は十二分にあります。当方では宮本屋窯前期の作と判断しています。
宮本屋窯は古九谷再興九谷の各種窯と同じく短期間で無くなりますが、その詳細は下記のとおりです。
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宮本屋窯の盛衰:天保3年(1832)、元吉田屋窯支配人 宮本屋宇右衛門が前年から閉じられていた吉田屋窯を買収して再開した窯です。
吉田屋窯の末期に、宇右衛門は、吉田屋窯の運営を任されていましたが、その業績が一向に良くならず、ついに窯を閉じざるを得なくなり、吉田屋より窯を譲り受けて宮本屋窯を開きました。宇右衛門は、素地工に若杉窯の陶工であった木越八兵衛、画工に飯田屋八郎右衛門をそれぞれ主工として招き入れ、吉田屋窯時代の青手の製品作りを止め、製品を一変させました。
開窯からしばらくして、素地については、吉田屋窯では使っていなかった、白色でやや青みを帯びたものに変え、彩色については、当時の人々が求めた細描きの赤絵や金襴手に変えたのです。その結果、この窯の製品は吉田屋窯時代の「青九谷」と比肩できるほど「赤九谷」と呼ばれて評判となり、窯の経営も順調になりました。
しかしながら、宮本屋宇右衛門が弘化2年(1845)に歿して、宇右衛門の弟 理右衛門が窯を継いで事業が続けられましたが、嘉永5年(1852)、窯の主軸である八郎右衛門が48歳の若さで没したことから、衰退の方向に向かい始めました。それでも若杉窯の画工「軽海屋半兵衛」が八郎右衛門の代わりとして、絵付にその腕をふるいましたが、安政6年(1859)、理右衛門が歿するにおよんで廃窯となったようです。
いつの時代も後継者というのは重要なファクターですね。
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上記の説明では「素地については、吉田屋窯では使っていなかった、白色でやや青みを帯びたもの」のようです。前述のように分かったような解らないような・・・・。
雑な部分があり、赤絵が十分に熟成されいない時期の作と思いますが、逆に大いに豪放さがあります。
宮本屋窯には著名な陶工(画工)には上述のように下記の2名がいたようです。
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飯田屋八郎右衛門:もとは大聖寺の染物に絵付する職人で、細密描写に優れた手腕を見せたといわれ、宮本屋窯に来てから赤絵細描の絵付を完成させました。従来の赤絵顔料を改良して、古九谷焼以来使用してきた青・紫・黄・緑などを使わず、民山窯の赤絵細描の技法をさらに進歩させて、独自の工夫を施した赤絵を主体に、これに金彩を加えた金襴手を考案しました。いわゆる「八郎手」といわれるものです。
八郎右衛門は、画集『方氏墨譜』(明の方干魚著 全8巻 万暦16年刊)の高尚な題材に啓発され、人物・山水・楼閣または草花・禽獣などを緻密精巧に描きました。特に「百老図」(青木木米が春日山窯でも用いた明末の墨譜にも見られる)を得意としました。九谷焼の中で細密繊巧を極めたものとしては八郎手が最初のものでした。
軽海屋半兵衛:文政のころ若杉窯に従事していましたが、嘉永5年に八郎右衛門が歿したあと、宮本屋窯に移り、この窯が閉ざされるまでいたといわれています。
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赤絵と金彩のみの作品と色絵を加えた作品がありますが、やはり赤絵と金彩のみの作品が貴重なようです。本日の作品は飯田屋八郎右衛門のよるものと思います。
後期になると絵の出来が良くなりますが、純然たる赤と金彩だけの作品は少ないとされます。
作品の特徴は下記によります。
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作品の特色:宮本屋窯の赤は、主色の赤だけを比較してみても、ほかの再興九谷の窯と異なります。春日山窯の呉須赤絵では赤の色あいが濃厚で黒っぽく沈み、若杉窯の赤絵ではペンキ赤と称されるように強烈であり、また、小野窯の赤では姫九谷といわれるほど鮮やかです。一方、宮本屋窯で使われた赤は柿右衛門の赤より濃く、しかも光沢があり、厚く塗られても濁りのなく透き通っています。さらに、赤を主色とする画風から異なる印象を受けるのです。
八郎手と庄三風の二つは、時を同じくして、江沼と能美の二郡にあって加賀赤絵の最たる赤絵金襴手といわれますが、精美な赤絵金襴手を巧みに制作した八郎手を圧三風と比較すると、同じ金襴手であっても、趣が異なります。
八郎手が自由奔放な画風であっても巧みに画題を表現し、雅味を忘れることがないのに対し、圧三風は、間取りに腐心しながら、抑揚をつけた画風をうまく取り込んでいますが、絢爛な点では極度に達するものの、風韻雅致に欠ける恨みがあるといわれます。
ま~、この上記の説明も分かったような解らない説明ですね。
*下記写真は九谷庄三によるとされる本ブログの紹介作品
また、伊万里などの金彩と比べると、八郎手が緻密精巧に赤色で描き、さらに金彩を重ね描きしているのに対し、伊万里は、単にある局部だけに塗って観る者を圧倒するだけで、金彩で描画したものは多くないといえます。
画題は、模様風のものを用いることはほとんどなく、特に間取りものでも、輪郭内に閉じこめることなく、全面に奔放に画様を描いています。そのために、多くの彩釉を用いずに単彩に近くて、あるものには金色を全く省いているものがあります。ですから、この独特の赤絵細描の画風を「八郎手」とか「飯田屋」と呼んでいるのです。ほかに、花鳥・草花文様を主とする色絵、吉田屋窯から受けついだ、緑・紫・黄の三彩を主調とした青九谷系のものもあります。
鉢・徳利などの日用品が多く見られます。裏銘には角「福」字が多く、末期の作品には長い角の中に「九谷」と書かれたものも見られます。
*下記写真の右が本作品の裏銘です。
ちなみに高台内の張り紙は不詳です。
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九谷の作品には赤絵の作品が数多くありますが、再興九谷におけるこのような大きな作品は現存数が少ないとされています。
さて本作品は・・・・???、現在の知見では私は大いに気に入っている作品ですが、家内は同時に入手した松山窯の作品がいいと言っています。
上記写真の左が家内のお気に入りの作品ですが、この作品については後日・・、いろんな窯の話で頭が混乱していますので
当方の好みでのみ入手しており、体系的に整理する知見を持ち合わせていないので、その真偽や詳細については確証はありません。それらしき作品を入手してもどの程度の作品かは自信のないところですが、少しでも知識を得ようと暗中模索しているところです。
*上記に飾られている作品は木村武山筆による色紙の「菊図」です。
本日の作品は赤絵の見事な絵付けに感銘し入手した作品ですが、購入時の説明ではどうも「八郎手」という作品のようです。「八郎手」とは再興九谷に窯である宮本屋窯の作品で、その名の由来は宮本屋窯の画工であった飯田屋八郎右衛門の名にちなんだもののとされているようです。
お気に入りの作品 再興九谷 宮本屋窯 八郎手雲龍文大皿
誂箱
口径327*高台径*高さ60
本作品は胎土は青みがあるようでもあり、そうでもない感もあります。
*曖昧な表現ですが、だいたい資料の説明は感覚的なものが多く、すみませんが胎土の説明ほどわかりにくいものはないと思っています。
白の釉薬は純白ではありません。赤と金彩とほんの一部のみ黒を用いています。絵付けは全体に精密ですが、詳細部では雑な部分もあります。
なお宮本屋窯についての詳細は下記のとおりです。
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宮本屋窯:九谷焼の様式には、青手もそうですが、色絵磁器とは趣を異にした、赤色を全面に出す赤絵金襴手があります。この様式を極めたのが宮本屋窯です。
なお九谷各窯の年歴の概略は下記のとおりですが、九谷の再興窯については年歴の把握は必須のもののようです。
江戸後期に再興九谷である吉田屋窯の「青九谷」と肩を並べて、宮本屋窯で単一な赤の顔料を用いて制作された赤絵細描の磁器を制作しましたが、それを生み出した飯田屋八郎右衛門の名から「八郎手」と、あるいは、「赤九谷」と称賛されました。その賞賛の大きな理由は、宮本屋窯の赤絵細描に用いられた赤の顔料が特異であり、その色合いが際立って人気があったことにあるといわれます。鉄線描法を用いて細密な図様を描き、これに金彩を交えた一種の金欄手で、特に後年には熟練し、純然たる白磁を用い、赤彩も十分に精良なものを用いて、金色も二度窯で仕上げられ、すこぶる潤沢の感のある作品を生み出したようです。
以下は他の同時期の作品と比べてみました。
まずは再興九谷の「青手」と言われている作品群です。
*下記写真は吉田屋窯(もしかすると松山窯?)によるとされる本ブログの紹介作品
*下記写真は松山窯によるとされる本ブログの紹介作品
再興九谷の中で、青木木米による春日山窯の呉須赤絵、三田勇次郎による若杉窯の伊万里風の色絵、民山窯の金彩を施した赤絵、そして、九谷庄三による小野窯の赤絵細描風の色絵などが加賀赤絵の先駆をなしましたが、いずれも補色を混用したため、色絵に分類され、九谷焼における赤絵金襴手は宮本屋窯において完成したとされます。
*下記写真は小野窯によるとされる本ブログの紹介作品
嘉永そして安政から明治初期にかけて、宮本屋窯の赤絵金襴手がたちまち加賀一帯に広がったことから、九谷焼といえば、赤で単一に塗られた、あるいは、わずかに金彩された宮本屋窯の「赤九谷」であると人々に思い起こさせるほどであったといわれます。このため、この様式はその後の九谷焼に大きな影響を及ぼしたのも自然なことでした。
例えば、九谷庄三は宮本屋窯利八(宇右衛門の子で、開窯当初から経営に携わったといわれます)から赤絵を学んで、作品に活かし、また、浅井一毫は晩年の八郎右衛門からその描写について教えを受け、竹内吟秋とともに、作品にその描写法を取り入れました。このようなことから、明治九谷における赤絵金彩の彩色を生み出した源はこの宮本屋窯の「赤九谷」にあったといわれます。
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釉が純白というほどの洗練された釉薬ではまだないので、後期というよりも前期の頃の作でしょうか?
宮本屋窯なのか後世の一般的な赤絵の九谷なのかは小生には解りかねますが、時代感は十二分にあります。当方では宮本屋窯前期の作と判断しています。
宮本屋窯は古九谷再興九谷の各種窯と同じく短期間で無くなりますが、その詳細は下記のとおりです。
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宮本屋窯の盛衰:天保3年(1832)、元吉田屋窯支配人 宮本屋宇右衛門が前年から閉じられていた吉田屋窯を買収して再開した窯です。
吉田屋窯の末期に、宇右衛門は、吉田屋窯の運営を任されていましたが、その業績が一向に良くならず、ついに窯を閉じざるを得なくなり、吉田屋より窯を譲り受けて宮本屋窯を開きました。宇右衛門は、素地工に若杉窯の陶工であった木越八兵衛、画工に飯田屋八郎右衛門をそれぞれ主工として招き入れ、吉田屋窯時代の青手の製品作りを止め、製品を一変させました。
開窯からしばらくして、素地については、吉田屋窯では使っていなかった、白色でやや青みを帯びたものに変え、彩色については、当時の人々が求めた細描きの赤絵や金襴手に変えたのです。その結果、この窯の製品は吉田屋窯時代の「青九谷」と比肩できるほど「赤九谷」と呼ばれて評判となり、窯の経営も順調になりました。
しかしながら、宮本屋宇右衛門が弘化2年(1845)に歿して、宇右衛門の弟 理右衛門が窯を継いで事業が続けられましたが、嘉永5年(1852)、窯の主軸である八郎右衛門が48歳の若さで没したことから、衰退の方向に向かい始めました。それでも若杉窯の画工「軽海屋半兵衛」が八郎右衛門の代わりとして、絵付にその腕をふるいましたが、安政6年(1859)、理右衛門が歿するにおよんで廃窯となったようです。
いつの時代も後継者というのは重要なファクターですね。
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上記の説明では「素地については、吉田屋窯では使っていなかった、白色でやや青みを帯びたもの」のようです。前述のように分かったような解らないような・・・・。
雑な部分があり、赤絵が十分に熟成されいない時期の作と思いますが、逆に大いに豪放さがあります。
宮本屋窯には著名な陶工(画工)には上述のように下記の2名がいたようです。
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飯田屋八郎右衛門:もとは大聖寺の染物に絵付する職人で、細密描写に優れた手腕を見せたといわれ、宮本屋窯に来てから赤絵細描の絵付を完成させました。従来の赤絵顔料を改良して、古九谷焼以来使用してきた青・紫・黄・緑などを使わず、民山窯の赤絵細描の技法をさらに進歩させて、独自の工夫を施した赤絵を主体に、これに金彩を加えた金襴手を考案しました。いわゆる「八郎手」といわれるものです。
八郎右衛門は、画集『方氏墨譜』(明の方干魚著 全8巻 万暦16年刊)の高尚な題材に啓発され、人物・山水・楼閣または草花・禽獣などを緻密精巧に描きました。特に「百老図」(青木木米が春日山窯でも用いた明末の墨譜にも見られる)を得意としました。九谷焼の中で細密繊巧を極めたものとしては八郎手が最初のものでした。
軽海屋半兵衛:文政のころ若杉窯に従事していましたが、嘉永5年に八郎右衛門が歿したあと、宮本屋窯に移り、この窯が閉ざされるまでいたといわれています。
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赤絵と金彩のみの作品と色絵を加えた作品がありますが、やはり赤絵と金彩のみの作品が貴重なようです。本日の作品は飯田屋八郎右衛門のよるものと思います。
後期になると絵の出来が良くなりますが、純然たる赤と金彩だけの作品は少ないとされます。
作品の特徴は下記によります。
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作品の特色:宮本屋窯の赤は、主色の赤だけを比較してみても、ほかの再興九谷の窯と異なります。春日山窯の呉須赤絵では赤の色あいが濃厚で黒っぽく沈み、若杉窯の赤絵ではペンキ赤と称されるように強烈であり、また、小野窯の赤では姫九谷といわれるほど鮮やかです。一方、宮本屋窯で使われた赤は柿右衛門の赤より濃く、しかも光沢があり、厚く塗られても濁りのなく透き通っています。さらに、赤を主色とする画風から異なる印象を受けるのです。
八郎手と庄三風の二つは、時を同じくして、江沼と能美の二郡にあって加賀赤絵の最たる赤絵金襴手といわれますが、精美な赤絵金襴手を巧みに制作した八郎手を圧三風と比較すると、同じ金襴手であっても、趣が異なります。
八郎手が自由奔放な画風であっても巧みに画題を表現し、雅味を忘れることがないのに対し、圧三風は、間取りに腐心しながら、抑揚をつけた画風をうまく取り込んでいますが、絢爛な点では極度に達するものの、風韻雅致に欠ける恨みがあるといわれます。
ま~、この上記の説明も分かったような解らない説明ですね。
*下記写真は九谷庄三によるとされる本ブログの紹介作品
また、伊万里などの金彩と比べると、八郎手が緻密精巧に赤色で描き、さらに金彩を重ね描きしているのに対し、伊万里は、単にある局部だけに塗って観る者を圧倒するだけで、金彩で描画したものは多くないといえます。
画題は、模様風のものを用いることはほとんどなく、特に間取りものでも、輪郭内に閉じこめることなく、全面に奔放に画様を描いています。そのために、多くの彩釉を用いずに単彩に近くて、あるものには金色を全く省いているものがあります。ですから、この独特の赤絵細描の画風を「八郎手」とか「飯田屋」と呼んでいるのです。ほかに、花鳥・草花文様を主とする色絵、吉田屋窯から受けついだ、緑・紫・黄の三彩を主調とした青九谷系のものもあります。
鉢・徳利などの日用品が多く見られます。裏銘には角「福」字が多く、末期の作品には長い角の中に「九谷」と書かれたものも見られます。
*下記写真の右が本作品の裏銘です。
ちなみに高台内の張り紙は不詳です。
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九谷の作品には赤絵の作品が数多くありますが、再興九谷におけるこのような大きな作品は現存数が少ないとされています。
さて本作品は・・・・???、現在の知見では私は大いに気に入っている作品ですが、家内は同時に入手した松山窯の作品がいいと言っています。
上記写真の左が家内のお気に入りの作品ですが、この作品については後日・・、いろんな窯の話で頭が混乱していますので