夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

伝天啓赤絵 草花文角皿 清初 ? 

2021-12-22 00:01:00 | 陶磁器
本日の作品は分類として「天啓赤絵」とするか「南京赤絵」とするか、はたまた広義の「五彩手」とするかを迷うところです。素人ながら当方にて考察してみました。



伝天啓赤絵 草花文角皿 清初?
誂箱
幅180*奥行180*高台角*高さ39



この作品について入手先の説明には
「この品は明末清初時期に天啓赤絵から南京赤絵への変換期で制作された作品です。絵付け様式は天啓赤絵風から脱却していないものの、装飾文様などは丁寧で文人風が現れていることから、南京赤絵の始まりかと思われます。平等青の使用から、清の順治時期(1650年頃)と感じ取れます。」
とあります。



当方の分類では染付を用いていることから天啓赤絵に分類することにしました。



天啓赤絵とは「景徳鎮で焼成された色絵磁器に倣った景徳鎮の民窯にて焼かれた赤絵の作品のこと。厳密には明末の天啓年間(1621‐27)から清初にかけてのわずか7年間に製作された作品を俗に「天啓赤絵」と称しています。」とされています。

萬暦まで続いた官窯様式から脱却した古染付に朱・緑・黄にて上絵付を施している作品です。その特徴は古染付とほぼ同様ですが、古染付と比してその生産量はかなり少ないものです。また天啓赤絵は中国にはほとんど遺品がなく、日本にしかみられないことから、日本からの注文品とみなされています。

粗雑な器皿,福建省あたりでは奔放な絵付の呉須赤絵が焼造されましたが,これらも日本の茶人たちに愛好され,日本の赤絵の発展に大きな影響を与えました。古九谷もまさに影響を大きく受けた作品群です。天啓赤絵はわりと斬新で大らかな絵柄が多く、絵付けは粗いものの、朱色・緑色・黄色・青色などが使われています。

土青による濃青な発色をうまく使い、様々な器形に合わせて絵画的な表現を用いて絵付を行っています。それまでの型にはまった様式から一歩踏み出し、自由奔放な筆致で明末文人画を例にとった山水や花鳥、羅漢・達磨など描いており、それ以前の景徳鎮ではこのように自由な作例はみられず、民窯であったからこそ陶工の意匠を素直に表した染付や赤絵を生み出すことができたと思われます。

天啓で使われていた陶土は決して上質のものではなく、そのため焼成時に胎土と釉薬の収縮率の違い、特に口縁部は釉が薄く掛かるために気孔が生じて空洞となり、冷却時にその気孔がはじけて素地をみせるめくれがのこってしまう。本来、技術的には問題となるところを当時の茶人は、虫に食われた跡と見立て鑑賞の対象としました。このことが「虫喰い」と称して、古染付・天啓赤絵に特有の特徴であることも知られています。高台は、当時の通例の如く、細砂の付着した砂高台で、高台内には鉋の跡が見られるのが特徴ですが、必ずしもそうでない作品もあるようです。

南京赤絵は清朝まで続きますが、天啓赤絵は清初までであり、清朝に本格的には入らず、他の赤絵の南京赤絵等、明末窯の注文作品よりも製作期間が短く、圧倒的に数が少なく貴重な作品群となっています。無論、古染付と比してもその生産量はかなり少ないようです。

同時期の天啓赤絵と南京赤絵の区別は、天啓赤絵は古染付の上に色釉を施し、南京赤絵は色釉だけで彩画した赤絵で有ると分類されていますが、例外は勿論有る様です。南京赤絵の染付は銘など一部に限られており、南京赤絵は華麗な意匠のものが多く、口縁には鉄砂で口紅が施されるもの、金彩を加えた豪華なものもあります。同時期の作品群は色絵祥瑞等も含め、少しややこしいですが、それぞれの作風を持っています。

*天啓赤絵は古染付をベースとし、呉須が色絵の基本を成し、口縁には南京赤絵と違い鉄砂で口紅が施されていない作品が多い。

高台内に銘について:古染付には「大明天啓年製」「天啓年製」あるいは「天啓年造」といった款記が底裏に書かれていることがあり、この他にも「天啓佳器」といったものや「大明天啓元年」など年号銘の入ったものも見られます。また年号銘でも「成化年製」「宣徳年製」など偽銘を用いた作例もあり、優品を生み出した過去の陶工に敬意を払いつつもそれまでの様式にとらわれることはなかったようです。これら款記は正楷書にて二行もしくは三行であらわされるのが慣例とされていましたが、款記と同じく比較的自由に書かれており、まるで文様の一つとして捉えていたようにも思えます。天啓赤絵もまた同様と考えられますが、一般的には「天啓年製」などの銘を伴うものが多く、無銘であれば清朝初期の品であると言われています。

*高台が砂付が少ない、銘がないことなどから清初めの天啓赤絵と推測されます。

天啓赤絵、南京赤絵、そして五彩手と本作品の分類にはいろんな分類が考えられますが、以上により当方では清初の天啓赤絵としておきます。縁の文様の華麗さから「五彩手」ということも考えられますが、口縁が鉄砂で口紅が施されていないのが該当しません。

過渡期の作品なので比較対象とする作品が見当たりませんが、下記の「なんでも鑑定団」に出品された南京赤絵の角皿と比較すると解りやすいかもしれません。

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参考作品                 
なんでも鑑定団出品作 2011年03月20日
南京赤絵の角皿



評価金額:500万円

評:17世紀に入ると各地で農民の反乱が相次ぎ明王朝は衰退しその結果景徳鎮の官窯は消滅した。 しかし民窯はしたたかに生き残りむしろ自由闊達な赤絵を作りはじめた。これを南京赤絵といい、今から350年くらい前の中国明時代末期から清王朝初期に掛けて景徳鎮の民窯で作られた南京赤絵。

当時の主要な輸出品で西欧諸国に売ったものは壷や花生けや蓋ものなど大作が多い。ところが日本に輸出したものは茶道具あるいは鉢や小皿中皿など食器が多く、デザインも日本人好みの余白を十分とった絵画的な構成になってるという。 縁は鉄釉いわゆる口紅というもので隈取してある。これは南京赤絵の手法とのこと。

寸法は1辺20センチでこれが1辺12センチの同じような皿だとわずかに30万円になる。

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評価金額のけた違い(せいぜい一桁下の金額)はいつものことですが、本作品と比較すると解りやすく、たしかに冒頭の「南京赤絵の始まり」という推測も頷けますね。



呉須赤絵から始まった当方の蒐集は寄り道をしながらも、古染付、餅花手、南京赤絵、天啓赤絵と基本勉強しながら多岐にわたってきました。



作品の保管をキチンしておき、新たな作品の入手では常に比較検討を怠らないようにしています。そのためには解りやすく作品を分類、保管しておく必要があります。



それでも覚えの悪い小生は過ちを犯すようです・・・





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