![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/a5/df1f42fb20a5ef9f3c02731dd728ca1e.jpg)
しばらくいい作品に巡り会えず投稿されていない釧雲泉の作品ですが、本日は久方ぶりに釧雲泉の作品の紹介となります。
文化丁卯山水図 釧雲泉筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1800*横410 画サイズ:縦1120*横300
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/78/313a9a5a84d345f4f52962a52d9fee71.jpg)
賛には「丁卯秋九月寫 於北國之行会 雲泉釧就 押印」とあり、1807年(文化4年)の9月の作。釧雲泉が49歳頃で、亡くなる4年前の晩年の作品のようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/7a/c36f6d2e25d12e286aa79eaa27419e12.jpg)
記録には「文化3年4月(1806年)46歳の頃、大窪詩仏とともに信越に赴き、高崎から安中を抜け碓氷峠を越えて信濃入りし、信濃川を下って越後の柏崎に至っている。その途次各地で画の依頼を受けて制作をしており、詩仏は引き返したが、雲泉は旅を続け三条で秋を過ごした。その後一旦、江戸に帰り、妻子を連れて越後三条に移住し、南画の普及に尽している。この間越後の各地を遍歴し石川侃斎、上田坦山、倉石米山、倉石乾山、行田八海などの門弟を育てている。文化5年(1808年)には燕の素封家の神保家に滞在し画作している。」とあることから「妻子を連れて越後三条に移住し、南画の普及に尽している。」いる頃の作と推察しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/4b/90713a746210afd03760b89e936cb7ba.jpg)
雲泉は「中国南宗画を志向し続け、山水画に名品が多く、比較的若描きのものに評価が高い。」と評されています。本作品のような晩年の作は妙な重苦しさがあると評されていますが、この頃の釧雲泉は油の乗り切った状況と言え、やはり一角ならぬ作行だと思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/ff/e2b68aa266987a93d321d1f6bc5f79e6.jpg)
この頃の作品は本ブログにていくつかの作品を取り上げていますが、その中で年号の入った作品には下記の作品があります。
浅絳山水図 江山肅雨 釧雲泉筆
水墨紙本緞子軸装 軸先竹製 合箱
全体サイズ:縦1980*横637 画サイズ:縦1305*横530
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/b4/fe71615faff9c38514caf3c7c54d50f9.jpg)
印章は「六石居士」の白方印、「仲孚」の白方印が押印されており、賛「江山肅雨 丙寅秋七月鋻 雲泉樵人写」とあり、文化4年(1806年)47歳の秋七月の作です。越後へ旅に出た直後の作品と思われ、山水に静かな雨が降る情景を描いた作品です。遊印は「就之印」と思われます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/73/2435453e899daadd5c17c40b8d67dbe1.jpg)
右が本作品の賛ですが、本作品との描いた時期のずれはほぼ一年です。当方では両作品ともに真作と判断しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/a5/9ecfded6ff1dfe7a1652da3df551e69a.jpg)
釧雲泉と称される作品には模写が非常に多く、真贋には議論の多い釧雲泉の作品です。まだまだですがようやく当方では一定の「識」ができつつあるように思います。
文化丁卯山水図 釧雲泉筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1800*横410 画サイズ:縦1120*横300
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/98/4b6180794f1da7596815a2d179bbce5f.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/78/313a9a5a84d345f4f52962a52d9fee71.jpg)
賛には「丁卯秋九月寫 於北國之行会 雲泉釧就 押印」とあり、1807年(文化4年)の9月の作。釧雲泉が49歳頃で、亡くなる4年前の晩年の作品のようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/77/8f04cda2f0645ce36d479c12180f7b9e.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/7a/c36f6d2e25d12e286aa79eaa27419e12.jpg)
記録には「文化3年4月(1806年)46歳の頃、大窪詩仏とともに信越に赴き、高崎から安中を抜け碓氷峠を越えて信濃入りし、信濃川を下って越後の柏崎に至っている。その途次各地で画の依頼を受けて制作をしており、詩仏は引き返したが、雲泉は旅を続け三条で秋を過ごした。その後一旦、江戸に帰り、妻子を連れて越後三条に移住し、南画の普及に尽している。この間越後の各地を遍歴し石川侃斎、上田坦山、倉石米山、倉石乾山、行田八海などの門弟を育てている。文化5年(1808年)には燕の素封家の神保家に滞在し画作している。」とあることから「妻子を連れて越後三条に移住し、南画の普及に尽している。」いる頃の作と推察しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/4b/90713a746210afd03760b89e936cb7ba.jpg)
雲泉は「中国南宗画を志向し続け、山水画に名品が多く、比較的若描きのものに評価が高い。」と評されています。本作品のような晩年の作は妙な重苦しさがあると評されていますが、この頃の釧雲泉は油の乗り切った状況と言え、やはり一角ならぬ作行だと思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/ff/e2b68aa266987a93d321d1f6bc5f79e6.jpg)
この頃の作品は本ブログにていくつかの作品を取り上げていますが、その中で年号の入った作品には下記の作品があります。
浅絳山水図 江山肅雨 釧雲泉筆
水墨紙本緞子軸装 軸先竹製 合箱
全体サイズ:縦1980*横637 画サイズ:縦1305*横530
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/a8/0a6d56c1021d181fab64aa8394fc54ba.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/b4/fe71615faff9c38514caf3c7c54d50f9.jpg)
印章は「六石居士」の白方印、「仲孚」の白方印が押印されており、賛「江山肅雨 丙寅秋七月鋻 雲泉樵人写」とあり、文化4年(1806年)47歳の秋七月の作です。越後へ旅に出た直後の作品と思われ、山水に静かな雨が降る情景を描いた作品です。遊印は「就之印」と思われます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/ac/ada5da9b52328a48682ae5727da3c102.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/73/2435453e899daadd5c17c40b8d67dbe1.jpg)
右が本作品の賛ですが、本作品との描いた時期のずれはほぼ一年です。当方では両作品ともに真作と判断しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/a5/9ecfded6ff1dfe7a1652da3df551e69a.jpg)
釧雲泉と称される作品には模写が非常に多く、真贋には議論の多い釧雲泉の作品です。まだまだですがようやく当方では一定の「識」ができつつあるように思います。