午後からは現場パトロール、夕刻から打合せ、その後は同僚達と転勤する人との歓送迎会。早めに切り上げて「なんでも鑑定団」を見ました松村呉春、浜田庄司(
未公開)、近藤悠三など何度かは本ブログで登場した画家や陶芸家の作品が出品されており、興味深く拝見しました。いずれもテレビでも真贋は解るものですね。
テレビを観た後は風呂掃除に炊飯、洗濯と忙しいアフターファイブでした。
本日はまたまた双幅の作品のひとつです。双幅は二つ並んでどのような作品かということが愉しみですね。
狩野栄信、狩野養信、狩野雅信の狩野派3代の画家は注目に値します。その後の狩野芳崖、橋本雅邦、そして横山大観、川合玉堂につながることを理解しておかないと日本画を語ることはできませんね
双幅秋冬山水図のうち右幅 秋の図 狩野養信筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦2120*横490 画サイズ:縦1071*横315
狩野養信の作品は本作品のようなさらりとした水墨画のほかに着色された美しい作品があります。むろん、そちらの作品群のほうは評価が高いようです。
下記の補足説明を引用すると
「江戸狩野派の祖・狩野探幽が目指し、狩野元信以来狩野派の課題であった漢画と大和絵の対立を昇華した養信の重要な業績である。しかし、養信はこうした熱心な模写によって身につけた技術や創意を、存分に発揮する場を十分に与えられていたとは言い難い。現実の制作は、「探幽安信筆意通」や「伊川院通」といった命令が下り、先例や将軍の「御好み」が優先され、狩野派の筆頭格である養信は、これらに逆らうことは出来なかった。」
ということです。
つまり自分の描きかった作品がありながら、古来の作風で描きなさいという命令があったということでしょう。いつの世でも体制の下では思うようなことができないことがあるということです。
非常に高く評価してよい画家のひとりですが、高い評価は「漢画と大和絵を融合させた新風を吹き込む作品」にこそありますが、狩野派の最後の名手と言われながら、狩野派に束縛されていたため評価はそれほど高くないという皮肉な結果かもしれません。しかし近年再評価されてきているようです。
消化器系が弱かったという几帳面さがある面、されど水墨画にその洒脱さが見受けられ、水墨画として小生が好きな画家のひとりです。
いずれにしても狩野派の最後の名手と評され、そして狩野芳崖、橋本雅邦へとつながるキーポイントとなる画家です。山水の描法に橋本雅邦、狩野芳崖に受け継がれた技法がうかがえます。
「晴川院法印筆」と落款のあることから、天保5(1834)年法印になった後、38歳以降の作品です。
*************************************
狩野養信:生年: 寛政8.7.26 (1796.8.28)~没年: 弘化3.5.19 (1846.6.12) 江戸後期の画家。狩野伊川院栄信の子で,江戸時代後期の木挽町家狩野派9代目の絵師。
文化10年(1813年)まで、その名「養信」は「たけのぶ」と読むが、将軍・徳川家慶に長男・竹千代が生まれると、「たけ」の音が同じでは失礼であるとして「おさのぶ」に読み改めた。
さらに、この竹千代が翌年亡くなり、玉樹院と呼ばれたため、それまでの号「玉川」を音通を避けて「晴川」とした。通称、庄三郎(しょうざぶろう)。
父は狩野栄信、子に狩野雅信、弟に『古画備考』を著した朝岡興禎、浜町狩野家の狩野董川中信、中橋狩野家の狩野永悳立信らがいる。
号は晴川院、会心斎、玉川。多作で狩野派最後の名手と言われる。挽町狩野家9代目。
文政2(1819)年法眼に,天保5(1834)年法印となる。古絵巻類の模写などを通じて古典的なやまと絵の研鑽を積み,狩野派に新風を吹き込んで幕末の狩野派の重鎮となる。
天保9年から10年(1838年から1839年)には江戸城西の丸御殿、天保15年から弘化3年(1844年から1846年)には本丸御殿の障壁画再建の総指揮を執った。
養信がその後亡くなったのは、生来病弱な上に、相次ぐ激務による疲れであったと推測されている。なお、弟子に明治期の日本画家である狩野芳崖と橋本雅邦がいる。
さて左の幅・・作品はどんな作品でしょうか?? 当方の手元にあるや否や???
続編と楽しみに・・、請うご期待
補足説明
****************************************
養信は模写に尋常ならざる情熱を注いだ。東京国立博物館にあるものだけでも、絵巻150巻、名画500点以上にも及ぶ。原本から直接写したものは非常に丁寧で、殆ど省略がなく、詞書の書風や絵具の剥落、虫損まで忠実に写し取っている。模本からの又写しは色も簡略で、詞書も省略したものが多い。
また、既に模本から模写済みの作品でも、原本やより良い模本に巡り会えば再度写し直しおり、少しでも原本に近い模本を作ろうとした姿勢が窺える。関心も多岐にわたり、高野山学侶宝蔵の調度、舞楽面、装束を写した6巻や、掛け軸の表装の紙や裂まで描いてあるものもあり、養信の旺盛な学習意欲が窺われる。
150巻という数字に表れているように、特に古絵巻の模写に心血を注ぎ、多くの逸話が残る。徳川将軍家の倉からはもちろん、『集古十種』などの編纂で模本を多く所蔵していた松平定信の白河文庫、狩野宗家中橋家の狩野祐清邦信や住吉家の住吉弘定らを始めとする諸家から原本や模本を借りては写した。
京都の寺の出開帳があれば写しに出向き、さらに公務で江戸を離れられない自分の代わりに、京都・奈良に弟子を派遣して写させた。他にも、当時まだ若年だった冷泉為恭に「年中行事絵巻」の模写を依頼している。ついにはどこの寺からでも宝物を取り寄せられるように、寺社奉行から許可まで取り付けた。その情熱は、死の12日前まで当時細川家にあった蒙古襲来絵詞を写していたほどで、生涯衰えることはなかった。
最も早い時期の模写は数え年11歳の時であり、父である栄信の指導、発想があったのではと疑われる。江戸中期以降、画譜や粉本が出版され、狩野派が独占していた図様・描法・彩色などの絵画技法や方法論が外部に漏れていった。養信が模写に懸命になったのは、こうした動きに対抗し、質の高い粉本を手に入れ狩野派を守ろうとしたためであろう。
そうした模写の中には、江戸城西の丸御殿や本丸御殿の障壁画など、現存しない物や原本の所在が不明な物も含まれており、研究者にとっては貴重な資料である。
狩野典信以来、木挽町家に引き継がれてきた古画の学習を、養信は一段と推し進め、大和絵を完全に自らの画風に採り入れた。
これは、江戸狩野派の祖・狩野探幽が目指し、狩野元信以来狩野派の課題であった漢画と大和絵の対立を昇華した養信の重要な業績である。しかし、養信はこうした熱心な模写によって身につけた技術や創意を、存分に発揮する場を十分に与えられていたとは言い難い。
現実の制作は、「探幽安信筆意通」や「伊川院通」といった命令が下り、先例や将軍の「御好み」が優先され、狩野派の筆頭格である養信は、これらに逆らうことは出来なかった。養信の公用を離れた古絵巻の模写は、大きな楽しみだった反面、一種の逃避とも取れる。
平成15年(2003年)、養信の墓が移転される際、遺骨が掘り出されて頭部が復元された。その面長で端整な顔立ちは、几帳面で消化器系が弱かったという養信の人物像を彷彿とさせる。この復元模型は、池上本門寺で保管されている。
**************************************
橋本雅邦は、その父・橋本養邦が狩野養信の高弟であったのに加え、雅邦自身、木挽町狩野家の邸内で生を受けています。幼少期は父から狩野派を学んで育ち、わずかに最後の一ヶ月のみながら最晩年の養信に師事しています。芳崖と雅邦は同日の入門であり、実質の師匠は養信の子・雅信であったと考えられています。
未公開)、近藤悠三など何度かは本ブログで登場した画家や陶芸家の作品が出品されており、興味深く拝見しました。いずれもテレビでも真贋は解るものですね。
テレビを観た後は風呂掃除に炊飯、洗濯と忙しいアフターファイブでした。
本日はまたまた双幅の作品のひとつです。双幅は二つ並んでどのような作品かということが愉しみですね。
狩野栄信、狩野養信、狩野雅信の狩野派3代の画家は注目に値します。その後の狩野芳崖、橋本雅邦、そして横山大観、川合玉堂につながることを理解しておかないと日本画を語ることはできませんね
双幅秋冬山水図のうち右幅 秋の図 狩野養信筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦2120*横490 画サイズ:縦1071*横315
狩野養信の作品は本作品のようなさらりとした水墨画のほかに着色された美しい作品があります。むろん、そちらの作品群のほうは評価が高いようです。
下記の補足説明を引用すると
「江戸狩野派の祖・狩野探幽が目指し、狩野元信以来狩野派の課題であった漢画と大和絵の対立を昇華した養信の重要な業績である。しかし、養信はこうした熱心な模写によって身につけた技術や創意を、存分に発揮する場を十分に与えられていたとは言い難い。現実の制作は、「探幽安信筆意通」や「伊川院通」といった命令が下り、先例や将軍の「御好み」が優先され、狩野派の筆頭格である養信は、これらに逆らうことは出来なかった。」
ということです。
つまり自分の描きかった作品がありながら、古来の作風で描きなさいという命令があったということでしょう。いつの世でも体制の下では思うようなことができないことがあるということです。
非常に高く評価してよい画家のひとりですが、高い評価は「漢画と大和絵を融合させた新風を吹き込む作品」にこそありますが、狩野派の最後の名手と言われながら、狩野派に束縛されていたため評価はそれほど高くないという皮肉な結果かもしれません。しかし近年再評価されてきているようです。
消化器系が弱かったという几帳面さがある面、されど水墨画にその洒脱さが見受けられ、水墨画として小生が好きな画家のひとりです。
いずれにしても狩野派の最後の名手と評され、そして狩野芳崖、橋本雅邦へとつながるキーポイントとなる画家です。山水の描法に橋本雅邦、狩野芳崖に受け継がれた技法がうかがえます。
「晴川院法印筆」と落款のあることから、天保5(1834)年法印になった後、38歳以降の作品です。
*************************************
狩野養信:生年: 寛政8.7.26 (1796.8.28)~没年: 弘化3.5.19 (1846.6.12) 江戸後期の画家。狩野伊川院栄信の子で,江戸時代後期の木挽町家狩野派9代目の絵師。
文化10年(1813年)まで、その名「養信」は「たけのぶ」と読むが、将軍・徳川家慶に長男・竹千代が生まれると、「たけ」の音が同じでは失礼であるとして「おさのぶ」に読み改めた。
さらに、この竹千代が翌年亡くなり、玉樹院と呼ばれたため、それまでの号「玉川」を音通を避けて「晴川」とした。通称、庄三郎(しょうざぶろう)。
父は狩野栄信、子に狩野雅信、弟に『古画備考』を著した朝岡興禎、浜町狩野家の狩野董川中信、中橋狩野家の狩野永悳立信らがいる。
号は晴川院、会心斎、玉川。多作で狩野派最後の名手と言われる。挽町狩野家9代目。
文政2(1819)年法眼に,天保5(1834)年法印となる。古絵巻類の模写などを通じて古典的なやまと絵の研鑽を積み,狩野派に新風を吹き込んで幕末の狩野派の重鎮となる。
天保9年から10年(1838年から1839年)には江戸城西の丸御殿、天保15年から弘化3年(1844年から1846年)には本丸御殿の障壁画再建の総指揮を執った。
養信がその後亡くなったのは、生来病弱な上に、相次ぐ激務による疲れであったと推測されている。なお、弟子に明治期の日本画家である狩野芳崖と橋本雅邦がいる。
さて左の幅・・作品はどんな作品でしょうか?? 当方の手元にあるや否や???
続編と楽しみに・・、請うご期待
補足説明
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養信は模写に尋常ならざる情熱を注いだ。東京国立博物館にあるものだけでも、絵巻150巻、名画500点以上にも及ぶ。原本から直接写したものは非常に丁寧で、殆ど省略がなく、詞書の書風や絵具の剥落、虫損まで忠実に写し取っている。模本からの又写しは色も簡略で、詞書も省略したものが多い。
また、既に模本から模写済みの作品でも、原本やより良い模本に巡り会えば再度写し直しおり、少しでも原本に近い模本を作ろうとした姿勢が窺える。関心も多岐にわたり、高野山学侶宝蔵の調度、舞楽面、装束を写した6巻や、掛け軸の表装の紙や裂まで描いてあるものもあり、養信の旺盛な学習意欲が窺われる。
150巻という数字に表れているように、特に古絵巻の模写に心血を注ぎ、多くの逸話が残る。徳川将軍家の倉からはもちろん、『集古十種』などの編纂で模本を多く所蔵していた松平定信の白河文庫、狩野宗家中橋家の狩野祐清邦信や住吉家の住吉弘定らを始めとする諸家から原本や模本を借りては写した。
京都の寺の出開帳があれば写しに出向き、さらに公務で江戸を離れられない自分の代わりに、京都・奈良に弟子を派遣して写させた。他にも、当時まだ若年だった冷泉為恭に「年中行事絵巻」の模写を依頼している。ついにはどこの寺からでも宝物を取り寄せられるように、寺社奉行から許可まで取り付けた。その情熱は、死の12日前まで当時細川家にあった蒙古襲来絵詞を写していたほどで、生涯衰えることはなかった。
最も早い時期の模写は数え年11歳の時であり、父である栄信の指導、発想があったのではと疑われる。江戸中期以降、画譜や粉本が出版され、狩野派が独占していた図様・描法・彩色などの絵画技法や方法論が外部に漏れていった。養信が模写に懸命になったのは、こうした動きに対抗し、質の高い粉本を手に入れ狩野派を守ろうとしたためであろう。
そうした模写の中には、江戸城西の丸御殿や本丸御殿の障壁画など、現存しない物や原本の所在が不明な物も含まれており、研究者にとっては貴重な資料である。
狩野典信以来、木挽町家に引き継がれてきた古画の学習を、養信は一段と推し進め、大和絵を完全に自らの画風に採り入れた。
これは、江戸狩野派の祖・狩野探幽が目指し、狩野元信以来狩野派の課題であった漢画と大和絵の対立を昇華した養信の重要な業績である。しかし、養信はこうした熱心な模写によって身につけた技術や創意を、存分に発揮する場を十分に与えられていたとは言い難い。
現実の制作は、「探幽安信筆意通」や「伊川院通」といった命令が下り、先例や将軍の「御好み」が優先され、狩野派の筆頭格である養信は、これらに逆らうことは出来なかった。養信の公用を離れた古絵巻の模写は、大きな楽しみだった反面、一種の逃避とも取れる。
平成15年(2003年)、養信の墓が移転される際、遺骨が掘り出されて頭部が復元された。その面長で端整な顔立ちは、几帳面で消化器系が弱かったという養信の人物像を彷彿とさせる。この復元模型は、池上本門寺で保管されている。
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橋本雅邦は、その父・橋本養邦が狩野養信の高弟であったのに加え、雅邦自身、木挽町狩野家の邸内で生を受けています。幼少期は父から狩野派を学んで育ち、わずかに最後の一ヶ月のみながら最晩年の養信に師事しています。芳崖と雅邦は同日の入門であり、実質の師匠は養信の子・雅信であったと考えられています。
なかなか、やはり名手の絵ですね。
この絵には岩を人の顔のように描く表現が見られますが、これは「人面岩」?と呼ぶのでしょうか。
こうした表現は中国の水墨画にも古くから見られ、日本では特に雪舟がマネをしてよくやってますが、しかしこれには具体的にどういう意味があるのか、あらためて語られた文章なりを見たことが一度もないのを以前から不思議に思っています。
ところでこの絵では岩の顔つきが、中国のものは不気味なのに比べて、どこか剽軽ですよね。
日本文化の底流にある「末っ子性」の表面化したものの一つが、江戸文化の主流たる町人文化の「剽軽さ」だとすれば、そうした要素まで、こうして狩野派の室町水墨風な絵に取込まれているというのも面白いです。
やまと絵との融合はもちろん、まさに日本文化は何でもありの寄せ集め文化ですね。
節操がないと言えばそうですが、これがアジアのエネルギーの源なのでしょうか。
「岩を人の顔のように描く表現」というのは正直、初めて聞きました。ん~、これから心して描き方を観てみようかと思います。
「日本文化の底流にある「末っ子性」の表面化したものの一つが、江戸文化の主流たる町人文化の「剽軽さ」だとすれば、そうした要素まで、こうして狩野派の室町水墨風な絵に取込まれているというのも面白いです。」という表現は、なかなか言い当てて妙かと・・・。
関係ないですが、愛犬のパグは人面犬