夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

松風村雨 渡辺公観筆

2019-04-24 00:01:00 | 掛け軸
庭に咲き始めたクマガイソウより一足早く庭に彩を添えてくれたのは牡丹の花々。





週末に彩鮮やかだったのは白の牡丹でした。



家内に居ぬ間に一輪採って展示室に飾りました。



活けた花入れは信楽の器ですが、ちょっと窮屈だったかな?



帰宅した家内に自慢してやろうとクマガイソウともども観てもらったら、花より脇の掛け軸の作品に描かれている着物の柄に興味があるようです

「あら、なんて書いたあるのかしら?」・・・?? 「君 ?? さく(咲く)?」・・



家内は「牡丹は水上げが弱いから早く花びらが落ちるからね。」だと・・、幸いまだ数日は花びらがついたままです。

さて、本日の作品の紹介です。

日本画を愉しむにはその故事の知識が不足していると何を描いているのか全く理解できないことがありますが、本日はそのような事例の作品です。

松風村雨 渡辺公観筆
絹本水墨着色軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦2035*横570 画サイズ:縦1265*横415

 

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渡辺公観:(わたなべ こうかん)明治11年(1877年)1月20日~ 昭和13年(1938年)7月20日)。文展(現日展)を中心に活動し、後に(日本)自由画壇を同士と創設した日本画家。渡辺公観は、明治11年(1877年)1月20日に滋賀県大津(現大津市)の円満院門跡の侍医渡辺宣と歌人で円満院の侍講を務める服部春樹の娘田鶴の子として生まれ、耕平と名付けられた。明治25年(1891年)大津尋常小学校を卒業後彦根中学校(現滋賀県立彦根東高等学校)に進み、明治27年(1893年)京都美術工芸学校(現京都市立銅駝美術工芸高等学校)に転校後、明治28年(1894年)学校を辞し森川曽文に入門した。 師である森川曽文は明治36年(1902年)に没し、公観は以降独自に画業を研鑽し、明治40年(1906年)第1回文展に「進言」で初入選し、以後大正3年から7年迄の間に4回入選したが、大正8年(1919年)帝展(現日展)が開設されると官展から離れ、井口華秋、池田桂仙、上田萬秋、林文塘中堅画家らと自由な日本画制作を目指し日本自由画壇を結成した。日本自由画壇活動に励む中与謝蕪村に私淑したと伝えられる。昭和13年(1938年)7月20日61歳で死去した。公観は画号で若年の頃は春泉と称し、また別号に遊漁洞、太湖州人を用いた。

 
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共箱に題されている「松風村雨」を知っていないとこの絵がなにを描いたか分かりませんね。



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松風・村雨:(まつかぜ・むらさめ) 平安時代、須磨に暮らしていたという伝承上の姉妹。姉が松風、妹が村雨。地元である須磨で語られる伝説によれば、姉妹は多井畑の村長の娘たちで、本来の名は「もしほ」と「こふじ」であった。須磨に汐汲みに出たところ、天皇の勘気を蒙り須磨に流されていた在原行平と出会い、「松風」「村雨」と名づけられて愛された。のちに行平は赦されて都に帰る際、松の木に形見の烏帽子と狩衣を掛けて残した。また『古今和歌集』にある「立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば いま帰り来む」(巻第八・離別 在原行平)の歌も、この離別の際に詠んだものとされる。松風・村雨姉妹は尼となって行平の旧居に庵を結び、彼を偲んだという。 須磨に配流された行平が海女と歌を交わす短い説話は『撰集抄』(13世紀中葉成立)に現れるが、海女の名は記されておらず、姉妹でもない。行平が心通わせる相手を、無名の海女に代えて松風・村雨とした謡曲『松風』(室町時代成立)は、『撰集抄』に加え、平安時代に成立して散逸した物語『あま人』や、『源氏物語』の影響を受けて成立したと考えられる。
謡曲『松風』以後、松風・村雨の悲恋の物語は広く知られることとなり、浄瑠璃や歌舞伎、近代には映画などにも取り入れられた。須磨には衣掛松や松風村雨堂など、彼女たちの伝承に基づく遺跡がいくつかあり、須磨区内には村雨町・松風町・行平町・衣掛町と名付けられた地名もある。

「中納言行平朝臣、須磨の浦に左遷され村雨・松風二(ふたり)の蜑(あま)に逢ひ、戯れるの図」月岡芳年画



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在原行平が愛したという二美人を描いた作品・・・、ゆっくり鑑賞してください。



松風・村雨姉妹は尼となって行平の旧居に庵を結び、彼を偲んだと伝えられますが、むろん後日の伝承という可能性が高いものと思います。



「行平が心通わせる相手を、無名の海女に代えて松風・村雨とした謡曲『松風』(室町時代成立)は、『撰集抄』に加え、平安時代に成立して散逸した物語『あま人』や、『源氏物語』の影響を受けて成立したと考えられる。」というのが本当のところでしょう。



女性は男よりだいたいがドライです。去っていった男のことなどすぐに忘れていくもの・・。前述の家内も同じ??



ともかく太古?のロマン・・。男のほうがロマンチックなのさ



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