平清盛坐像 鎌倉時代(重要文化財):平家一門が栄華を極めていた時期、清盛並びに平家一門が住んでいたのは、平安京の東にあった六波羅である。六波羅は東山の麓に開けた穏やかな傾斜地で、清盛の邸宅である泉殿を始め、一門の居館がずらりと建ち並んでいたといわれる。
もっとも六波羅は、墓地だった鳥辺野への葬送地であり、人々から忌み嫌われていた土地であった。それを承知で、六波羅を選んだのは、都に近く、様々な街道に通じる交通の要所であったからだ。慣習より実用性を重んじる点が、清盛らしい選択といえるだろう。さぞ広大な光景が広がっていたであろうと思うが、現在は居館跡はない。
現在は京都市東山区となっているかつての六波羅付近を歩いてみると、商店や住宅が建ち並ぶ一画に六波羅蜜寺がある。六波羅蜜寺は、平氏がこの地に住む以前から建立されており、平氏が住むようになって縁ができたといわれる。[以上、山と渓谷社発行、見延典子著”「平家物語」を歩く”より]
平氏一門の屋敷跡に建つ六波羅蜜寺本堂(正面)。
http://www.rokuhara.or.jp/ [六波羅蜜寺]
阿古屋塚:阿古屋の菩提を弔うため鎌倉時代に建立す。石造宝塔(鎌倉時代)で、その下の台は、古墳時代の石棺の石蓋を用いている。浄瑠璃、壇ノ浦兜軍記三段目”阿古屋の琴責め” 平家の残党、悪七兵衛景清の行方をさがすため、想い人で五条坂に住む白拍子、阿古屋を捕え、代官、畠山重忠は、彼女が景清の所在を心に秘めていることを知っていたが、弾かせた三味線、琴などの調べに一点の乱れのないことに感動し、彼女を釈放する。
嵯峨天皇と弘法大師:嵯峨天皇(786~842)の時代というから、平安遷都から20数年後(820年前後)のこと、弘法大師(774~835)が六波羅に地蔵堂を建立し、自作の地蔵菩薩を安置した。
地蔵さまは六道にいる人間の苦を救う仏で、この世からあの世へ、またあの世からこの世へ、さ迷える魂の送迎をする。それは重要な役割を担う神で、地獄に落ちた亡者を救えるのは唯一、地蔵菩薩しかいないのでる。
こんな昔話が残っている。「小野妹子の先祖に小野篁(たかむら)がいるが、冥府にいた篁が満米上人と地獄へ出かけた。火の中を一人の僧が走り回っている。『亡者を助けるために、苦患を受けているのだ。』それが六道の地蔵菩薩だったという。」
弘法大師は時の嵯峨天皇と親交を深め、大覚寺の前身・嵯峨離宮建設に協力したり、逆に天皇から高野山開創の勅許、東寺の下賜と恩竉を賜っている。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/rokuhara-mituji2.htm [名所旧跡めぐり:六波羅蜜寺]
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