Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

同じ音楽言語を語ること

2023-01-29 | 
金曜日は篭り部屋でベルリンからの中継を観た。もし階下で観ていたらメインシステムで流していたのでもっと真剣になっていたかもしれない。それでも問題は、オーディオにはモニターを結び付けていないので、キャストで飛ばしてずれが生じるか、PCの壊れたモニターに映していたぐらいだったこと。

幸か不幸か、先日購入した中華アムプとスパイクの成果を試す良い機会だった。なるほどオーディオシステムで流すようには鳴らないが、最低の音楽的な情報はそれで得られた。視覚的な情報の割合が増える。なによりもライヴというのが気持ちいい。

時計の針で12時を超えるぐらいにパワーを入れてもバランスが崩れない。可笑しな共振もない。ただ音域が狭いだけである。その分余計に演奏の核のようなところを批判的に聴ける。

会場のお客さんの様子もちらちらと映されるが、最初のブラームス作「ハイドンの主題の変奏曲」においては、半々ぐらいの受け止められ方だと思った。先ずその聖アントニーの主題の出し方が気にくわない向きはあったと思う。

因みにこの曲を最後に聴いたのはカラヤン指揮ベルリナーフィルハーモニカーの大阪国際フェスティヴァルの初日だと思うのだが、その演奏には幾らでも批判はできるのだ、何よりもそのアーティキュレーションの上手さは絶品であって、当時のベーム博士指揮などと比較してもそれだけの価値はあった。

デジタルコンサートホールの番組でのペトレンコのインタヴューで、変奏曲自体が古いルネッサンスからの形式であるが、それはやはり通向きの音楽となっていて、その変奏の在り方が面白いかどうかであって、それが分かり易いようにバランスやニュアンスと二曲目のシェーンベルクのそれをかけて話していた。

それは確かにそうなのだが、その原点にあるのはルネッサンスの謡曲ではなくてもよく知られた主題であるのが基礎になっている。その点からしても如何に身についたアーティキュレーションであるかで決まる。

ブラームスのそれが絶賛に受け入れられないとすれば最終的にはそこに原因があるに違いない。実はシェーンベルクにおいても今回史上初めて真面に演奏された。流石に作曲家が語っていたようにドイツ音楽の何たるかが示された訳なのだが、ペトレンコが語る様に今後演奏回数を重ねるうちに、楽員にとっても身体的な感覚で如何に発声できるかに掛っていると思われる。現時点では合わせる感覚が優先されていて、ダイナミックスの表現でももう一つ定まらないところがある。主と副が明白に示されている楽譜では、スークの作品のような難しさはない訳だが、求められるのはその語り口でしかない。

シェーンベルクが、フルトヴェングラー指揮で真面に演奏されるとは考えていなかったのに違いないのだが、同じ音楽言語を話す指揮者として想定していたことには違いない。そこが問われているのである。



参照:
独音楽至上主義の面々 2023-01-28 | 文化一般
楽聖のアッカンベー 2023-01-27 | 音
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